陸奥月旦抄

茶絽主が気の付いた事、世情変化への感想、自省などを述べます。
登場人物の敬称を省略させて頂きます。

加藤隼戦闘隊の歌

2010-03-25 07:25:10 | 読書・映画・音楽
 加藤建夫陸軍中佐(1903-1942、戦死後2階級特進して、陸軍少将)は、私の故郷旭川市の東部、東旭川町生まれである。東旭川は、広大な田園地帯が広がる地域で、近くには<旭山動物園>があり、昨今有名になった。

 加藤は、旭川中学(現旭川東高)へ通い、その後陸軍士官学校を卒業、新設された航空兵科に転進して陸軍パイロットとなる。優れた飛行操縦感覚に恵まれ、昭和12年(1937)には、飛行中隊を率いて「支那事変」に初参加(34歳)し、数々の武勲を立てた。

 その後、陸軍大学校を卒業、激しく戦われているヨーロッパ東部並びに西部戦線などを視察して、昭和16年4月原隊復帰、その後は新鋭の一式戦闘機<>を採用した陸軍・飛行第64戦隊の4代目部隊長を拝命、これを率い、主として南方作戦に参加した。

 同飛行戦隊は、マレー半島、ジャワ島、ビルマ方面で地上軍との共同作戦により華々しく活躍、空の神兵で有名なパレンバンの空挺作戦(1942年2月)では、連携護衛として参加。だが、昭和17年(1942)5月22日、英軍との激戦中、加藤はベンガル湾にて戦死。享年37歳。(以上、Wikipedia による)

 彼は、豪放磊落な人柄であったようで、部下思いながらも軍規維持には厳しかったと伝えられる。飛行64戦隊は、「加藤隼戦闘隊」と呼ばれるが、3個飛行中隊により構成される。<隼>の保有機数は42機。それに整備班が付属。

 加藤の存命中に、部隊の士気を鼓舞する部隊歌が作られていた。彼の壮烈な戦死後、その面影を顕彰する部分が新たに追加された。この歌は、今でも年齢差無く多くの人に唄われ、そして親しまれている。男らしくありたいとの切ない願望がこめられているのだろうか。



これは、ShVAK20 さんが工夫された力作。英語の歌詞が付いているのがユニーク。

http://www.youtube.com/watch?v=MS12isLjS5w&NR=1


<加藤隼戦闘隊> (1940)

作詞 大日本帝国陸軍・飛行第64戦隊 田中林平准尉
作曲 南支那派遣軍・軍楽隊 原田喜一軍曹

1.
エンジンの音 轟々と
隼は征く 雲の果て
翼に輝く 日の丸と 
胸に描きし 赤鷲の
印はわれらが 戦闘機

2.
寒風酷暑 ものかわと
艱難辛苦 打ちたえて
整備に当る 強兵(つわもの)が
しっかりやって 来てくれと
愛機に祈る 親ごころ

3.
過ぎし幾多の
空中戦 銃弾うなる その中で
必ず勝つの 信念と
死なばともにと 団結の
心で握る 操縦桿

4. (転調部分:岡野正幸軍曹が1942年に追加)
干戈(かんか)交ゆる 幾星霜
七度重なる 感状の
勲(いさお)の蔭に涙あり
ああ今は亡き武士の
笑って散った その心

5.
世界に誇る 荒鷲の
翼のばせし 幾千里
輝く伝統 受けつぎて
新たに興す 大アジア
われらは皇軍 戦闘隊
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