陸奥月旦抄

茶絽主が気の付いた事、世情変化への感想、自省などを述べます。
登場人物の敬称を省略させて頂きます。

ネヴィル・シュートの名作「パイド・パイパー」を読む

2007-07-05 16:37:30 | 読書・映画・音楽
 先日当て所もない長距離ドライブ旅行をしていた時、何となくネヴィル・シュートの「さすらいの旅路」(原題:Pied Piper、1942)を思い出した。それで帰宅してから、この作品を改めて読み直した。古希を迎えた老主人公ジョン・シドニー・ハワードの年齢に近くなると、30代の若い頃読んだ印象とは全く別なものがある。

 私の手持ちの本は、池央耿(いけ ひろあき)氏訳による角川文庫(昭和46年=1971刊)であるが、それは同氏がまだお若く31歳の時の仕事であった。読み進めているうちに、物語の時間経過がおかしいことに気が付いた。例えば、主人公ハワードがフランスから帰国出発する日を7月11日としているが、それがパリ占領以前になっている。歴史的事実では、ナチス・ドイツによるパリ占領日は6月14日だから1ヶ月ずれている。変だなと思いながら一応読み終えたのだが、疑問は残った。

 少し調べてみると、2002年に同一訳者によってこの作品の翻訳は「パイド・パイパー 自由への越境」と改題、訳文も全面改訂の上、創元推理文庫から刊行されている。これは、現在でも容易に入手可能であった。そこで新訳を購入、もう一度読んでみると、老ハワードの出発日は6月11日と訂正され、旧訳よりも旅行日程は全体に1ヶ月早められていることが分かった。これなら内容が史実に符合するし、主人公達の苦労が良く分かる。訳文も還暦を過ぎた訳者の豊かな語彙が散り嵌められて格調が高く、人名や地名表記も一層正確に変更された。旧訳に較べて格段に読み易いのである。しかし、旧訳の「さすらいの旅路」と言う題名の方が私は好きだ。

 時は1940年4月、英仏がナチス・ドイツに宣戦布告した翌年のことだ。ハワードは、引退した英国人弁護士で70歳、田舎に住んでいたが5年前に妻を亡くし、更にはこの年の3月、一人息子の空軍少佐ジョン(父親と同じ名前)がヘリゴランドで戦死したのを切っ掛けにロンドンへ出てきた。米国の富豪コステロと結婚した親思いの娘イーニッドは、息子のマーティン(10歳)とニューヨーク近郊のロングアイランドに住んでいて、心臓の弱い父を米国へ呼ぼうとするのだが、ハワードは謝して英国に住むのを好んだ。

 宣戦布告後も独仏戦が奇妙な形で平穏に過ぎていた。愛息を失った傷心のハワードは、気分転換を兼ね南東フランスはサン・クロード近郊の山ホテルへ鱒釣り旅行に出掛けることにした。夏中のんびりしようと言うわけだ。そこは、レ・マン湖畔のジュネーブにも近い。ハワードは、フランス人との付き合いが多く、フランス語会話に全く苦労は無い。4月10日、ドイツのデンマーク・ノルウェー侵攻が始まり、多少の混乱はあったけれど、ハワードは無事英仏海峡を渡った。

 以下、粗筋を述べるため、時系列的に書いていこう。鉤カッコ内は歴史的事実であり、小説の中では具体的に触れられていない。

4月10日
ロンドン発、ハワードはドイツの北欧侵攻を船中で始めて知る。

4月11日
混乱のため、ブーローニュ発の列車が遅れて午前1時パリ着。
シャンゼリゼのホテル<ジロデ>に2泊。

4月13日
午前パリ発、ディジョン着。馴染みの駅前ホテルで1泊。

4月14日
午後ディジョン発、サンクロード着。
シドートン村の馬車宿<オテル・ド・ラ・オートモンターニュ>へ。
そこで約2ヶ月間をのんびりと過ごすことになる。
ジュネーブの国際連盟に勤務する英国人キャヴァナー夫妻と知り合う。

5月10日
[ドイツ、ベネルックスへ侵攻]
[チャーチル内閣成立]

5月17日
[ドイツ、アルデンヌから北フランスへ電撃侵攻作戦実施]
5月27日
[英軍、ダンケルクの撤退開始(ダイナモ作戦)]

5月29日
ベルギー降伏。

6月 1日
ハワードは、ラジオによるダンケルク撤退の報道を聞き入る。
渓流釣りをしながら、彼は帰国すべきかどうかを考え始める。

6月 4日
英軍、ダンケルク撤退完了。
ハワードは、1週間後に帰国の旅に出ることを決心。それまでは釣りを楽しむ。

6月 9日
キャヴァナー氏から、彼の子供達ロニー(ロナルドの愛称、8才)とシーラ(5才)をロンドンへ連れて行くように依頼される。二人の子供は、英語もフランス語も自由に操る。ずっと前に、ハワードはハシバミの木で二人に笛を作ってあげて、それ以来仲良くしていたのだ。

6月10日
ハワードは、終日帰国準備。
イタリアが英仏へ宣戦布告。

6月11日
朝方、ロニーとシーラを伴い、ホテルの車でシドートン発。
サン・クロード駅発モレ経由の普通列車でアンドゥロ駅ヘ。そこで、スイス発パリ行き急行は来ないと教えられる。
2時間遅れでディジョン行き普通列車へ乗換え。シーラが発熱する。午後にディジョン着。以前の駅前ホテルに泊まる。
仏軍医にシーラを診断して貰い、町で買い物と情報収集。
ハワードは、カレーがドイツ軍の支配下にあることを知り、パリからサンマロへ出て、そこから英仏海峡を渡るよう計画を変える。

6月12日
ホテルのメイドからローズ・テノワ(10歳)を紹介される。ローズは母性本能に溢れたフランス娘だが、父はロンドンで働いている。
シーラは、ローズと遊んで体調が良くなる。
サンマロへ直接行くことを考え、自動車を手配するが不成功。

6月13日
メイドからローズをロンドンへ連れて行くように依頼される。
熟慮してハワードはそれを引き受ける。

6月14日
[独軍、パリ入城を果たし、保障占領]
ディジョン駅から午前8時半パリ行き列車に一行は乗り込む。
列車は、ジョアニュイ駅で突然打ち切りとなる。
ハワードは、シャルトル回りでパリへ行くよう計画を変える。
モンタルジ行きのバスに乗り込むが、途中ドイツ戦闘機の機銃射撃を受けて、バスは破壊される。
一行4人は歩き始めた途中、爆撃を受けて両親が死んだフランス人の子供ピエール(6歳?)を拾う。農家で水を貰い、大金を払ってボロ乳母車を入手。
さらに歩いて、一行は農家の干し草小屋で一泊。

6月15日
午前7時、農家を出発。多くの避難民と共に街道を進む。
途中の村で、硬いビスケットやチョコレートを買うことが出来た。
子供達に水遊びをさせていた時、工作トラックを運転する2人の英軍兵士に出会う。彼らの好意で、モンタルジへ移動、そしてシャルトル経由ブレスト方面へ向かう。
途中、ピティヴィエ町でガソリン調達をしようとする中、負傷をしたオランダ人孤児ヴィレム・アイベ(7歳?)を同行。これで子供は5人になる。
だが、この町ではガソリンが手に入らない。
暫らく進んだアンジェヴィユの町の手前で、とうとうトラックのガソリンが切れた。英軍兵士は諦めて、工作機械とトラックを爆破して去る。
アンジェヴィユは、既に独軍に支配されていたが,ハワードは巧にフランス人の振りをしながら、難民給食所で子供達に食事をさせる。
ヴィレム少年の傷手当ても、ドイツ軍医が丁寧にやってくれた。
夜8時に町外れの無人農家に辿り着いて、干草小屋の中で一泊。

6月16日
早朝、農家の主婦に怒られながら、軽便鉄道を利用し昼前に独軍の支配するシャルトルへ到着。
旧知のルージュロン大佐宅へ。大佐は、メスの戦いに出て既に3ヶ月間留守であった。
大佐夫人とその娘、ニコルに親切にされ、子供達は風呂へ入れてもらい、食事と寝床を与えられる。
妻と娘は、人心地の戻ったハワードから何故5人の子供を連れて旅をいるかを詳しく聞かされ、深く同情する。
ニコルの提案で、ブルターニュ海岸へ行き、知人の漁師に頼んでそこから英国へ戻る計画を立てる。ニコルが同行することになった。

6月17日
フランス農民の服装に変えたハワード、そしてニコルに連れられた5人の子供達は、レンヌ行きの普通列車に乗った。
6時間かかって、彼らは夕刻にレンヌに着き、ドイツ兵を気にしながら避難民収容所で一泊する。

6月18日
朝方、ブレスト行き普通列車に乗り込む。半日列車に乗って、午後4時にブレストの手前、ランデルノ駅で下車する。
ドイツ兵の屯する町並みを通り抜け、農道を歩いて富農アリスティド・アルベールの農場へ着く。彼は、ルージェロン大佐の旧知の友人で、ニコルを良く知っていた。
事情を聞いたアルベールは、この時期、渡海は危険過ぎると反対する。
だが、ハワードの熱意に負け、船主の娘婿に相談することとなった。

6月19日
アルベールとニコルは、連れ立ってル・コンケに住む娘婿の所へ出掛けた。
ハワードは、束の間の休息を楽しみ、子供達は終日農場で遊ぶ。
帰宅したアルベールは、自分の農場にいるユダヤ系ポーランド少年マリヤン・エストライヒャー(10歳)を英国経由で米国へ連れて行って欲しいと頼む。ハワードは引き受けた。

6月20日
アルベールの車で一行は出発、堆肥馬車のある所まで送ってもらった。
子供達は、堆肥馬車に乗せられて、ラベルブランシュ漁村まで行くのだ。
その漁村の波止場に英国行きの漁船が来る。漁師の名前はフォッケ。
午後9時にフォッケは村のレストランへ来るとの計画。
午後8時、そのレストランで6人の子供達に食事を与え、波止場を見たがるロニーとシーラに外出を許す。
レストランでフォッケと会い、打ち合わせをしているとドイツ兵に踏み込まれる。
ロニーとシーラが英語で話すのを見つかったのだ。
一行とフォッケは独軍兵営へ連れて行かれ、ハワードとニコルは厳しい尋問を受ける。この日は、全員留置される。

6月21日
朝からハワードとニコルは、ゲシュタポのディーセン少佐の尋問を受けた。怯える子供達も一緒だ。ハワードは、マリヤン少年のことを伏せながら正直に全てを語った。ディーセン少佐は、ハワードをスパイと考えていた。
一昨日、ブレスト港空爆をした英軍爆撃機を手引きしたのだろうとの嫌疑だ。ハワードは、正直にそれを全面的に否定した。
ニコルへも厳しい尋問があり、やがて全員留置室へ戻される。
午後3時、ハワードだけがディーセン少佐に呼び出された。少し離れた家に連れて行かれ、若者チャレントンに面会する。
彼は逮捕された英国スパイで、銃殺を待っていた。取りとめもない日常会話の後、
ハワードは再び留置室へ戻された。

6月22日
[フランス(ペタン内閣=ヴィシー政権)、休戦協定を結ぶ]
早朝ハワードだけが呼び出され、チャレントン銃殺の場に立ち会わされる。
ディーセン少佐は、お前が本当のことを言い、スパイ業務の内容を話すなら、チャレントンの命を助けても良いと言うが、ハワードにはどうしようもない。
やがて、チャレントンは銃殺される。ディーセン少佐はハワードと暫らく会話し、その後彼は留置室へ戻される。
この日は、テーブルと椅子が留置場に運び込まれ、全員が着席して朝食を取った。
留置場のドアは開けられて、子供達は庭に出て心行くまで遊んだ。
ハワードとニコルには木陰に肘掛け椅子が用意された。
昼も、夜もテーブルと椅子付の食事が与えられた。驚くような待遇改善だ。
夜中にハワードはディーセン少佐に再度呼び出された。
彼は、自分の姪アンナ・ディーセン(5才半)を英国経由で米国へ送りたいと言う。
長兄のカールは、米国市民権を持ち、ミネソタ州のホワイトフォールズで雑貨屋をしている。弟カールは戦車中隊中尉だったが、非アーリア系の妻が死んだ後、彼も最近戦死した。それでアンナだけが残された。
少佐の希望は、アンナを兄カールに託したいらしい。
ハワードはアンナの同行を快く了解した。但し、無事な出航とニコルの安全が前提だ。
留置場へ戻ったハワードは、ニコルに全てを伏せて、一両日中にここを出て子供達と共に英国へ戻れる、ニコルも無事にシャルトルへ帰ることが出来ると伝えた。
彼は、ゲシュタポと取引したことをニコルに知られたくなかった。

6月23日
終日、平穏な時間が流れ、子供達は一層元気を取り戻した。
夕食後、一行は車に乗せられ、ブレスト駅から午後8時の汽車に乗るがすぐにラニサン駅で降ろされる。
そこでハワードは待機していたディーセン少佐に再会し、アンナに会う。
アンナを車に乗せ、ディーセン少佐はラベルブランシュへ戻る。
午後10時、見張りのいない波止場にはフォッケと彼の漁船が待っていた。
7人の子供達、そしてニコルとの別れを惜しんでハワードが乗り込む。
漁船は、帆のみで波止場を離れ、英国ファルマス港へ向かう。

6月24日
明け方まで帆走し、午前4時半英国駆逐艦に出会う。
海軍士官は、プリマス港へ行けと伝える。それからは、エンジンをかけて、1日中航走する。午後6時頃、プリマス港へ無事到着。
ハワードは、疲れ切った体を休めながら、奉仕団の提供する紅茶をゆっくりと飲むのであった。
6月11日から2週間、連れ帰った国籍の異なる子供達は7人にもなっていた。


 南東フランス、つまりスイスとの国境近くの山地からドイツ占領下のフランス内陸部を横断してブルターニュ半島のブレスト近傍まで直線距離で800km、実際は迂回しているからその倍に近い距離を老人が子供連れで移動し、更に英仏海峡約120kmを移動する「旅行冒険小説」である。

 物語では、ハワードは老齢で心臓病を持ち、かつ体力も劣るが、的確な状況判断力と類稀なる忍耐心がある存在として描かれる。彼と子供達が戦地を駆け抜けて行くプロットは、ドイツ空軍の爆撃を受ける場面はあっても、撃ち合いをしたり、大袈裟なトリックが語られる勇ましい話が全く含まれない。と言うと、退屈な話のように思えるのだが、これがどうして緊張感の連続である。それは、老ハワードの同行者が兵器好きの幼い子供達であり、彼らはバイリンガルだから英語を無邪気にドイツ軍の前で話すのではないかと言う強い危惧が何時も漂っているからだ。

 そのような状況の中で、ハワードはヒューマニストぶりを発揮し、次世代を担う子供に期待を寄せて、国籍に関係なく彼らを大切にする。わがままな子供達の希望を出来るだけ適えてあげようと苦境の中で試みるのだ。子供達に注意することはあっても、まず怒鳴りつけることは無い。全編そうしたハワードの思慮深い配慮がとつとつと語られ、読者には一種心地良いものが感じられるだろう。

 一方ニコルは、ハワードは知らなかったのだが、彼の愛息ジョンの許婚であった。ジョンは、父親と共に出掛けたシドートンのスキー場で彼女と知り合い、深く愛するようになった。彼は、早く父親にそれを知らせたかったが、ニコルが婚約を知らせるのはもう少し待ってと言うので父親に黙っていた。そして、そのまま戦死してしまったのだ。

 控えめな性格のニコルは、山小屋で何度もハワードに会っているのに、彼が何となく怖かった。だが、ジョンが戦死すると、二人の関係を早くにハワードへ知らせなかったことを悔やんだ。それで、ジョンの死去以来3ヶ月間、まるで寡婦のような気持ちになっていた。加えて、父のルージェロン大佐の行方が分からないことも気落ちの原因であったのだが。そこへ突然ハワードが訪れたのだから驚いてしまった。

 危険をも顧みず、ニコルがハワードに協力しようと決心した背景には、今は亡きジョンへの思慕があった。ジョンの尊敬する父親へ尽くすことは、私の義務なのだと彼女は自然に考えた。母親もニコルの気持ちを細やかに理解し、悦んで送り出したのだ。物語の最終段階でニコルが述懐する内容に、読者は深い感銘を覚えるだろう。

 ブルターニュへの旅の途中で、ハワードはニコルとの会話から息子と彼女の親密な関係を知る。「ジョンよ、お前はこんな美しい、そして思いやりの深い女性を得て、本当に良かったな」、ハワードはそう思った。その上、自分と共に子供達のために努力するニコルに、実の娘と同じような愛情を持つようになって行く。そうしたハワードの心境変化がこの小説の大きな流れになっている。

 子供達を楽しませ、元気付けるためにハワードは何回かハシバミの木で笛を作り、子供達にプレゼントする。子供達にとって、それは素晴らしい宝物であった。笛を吹く男と彼に連れられて行く沢山の子供達、この小説の題名「パイド・パイパー」は、ドイツの民話<ハーメルンの笛吹き男>を下敷きにしている。

 作者ネヴィル・シュートは素晴らしい語り手である。彼は、映画「渚にて」(1959)の原作者として日本に知られるのみで、ここで取り上げた作品を知らない人も多い。私は、若い人達に彼の作品を大いに読んでもらいたいと願う。それは、様々なヒューマニズムの姿を知る上で大いに参考になるからだ。

 この作品は、1942年と1990年に映画化されているが、私はそれらを見ていない。2回目はTV映画で、ハワード役をピーター・オトゥールが演じているとのこと、蓋し彼にとって嵌り役かも知れない。
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