Ed's Slow Life

人生終盤のゆっくり生活をあれやこれやを書き連ねていきます。

立川

2014年12月25日 | Weblog

 

30代中ごろまでは東大和市が生活の拠点だったから、会社へ行くにもチョッとし
た買い物をするにも先ずは立川へ出た。しかしその後千葉県へ引っ越してしまっ
たから立川とは縁が切れてしまった。駅前の記憶もあやふやになってしまい、以
前確かに在ったと思っていた伊勢丹は自分の思い違いなのか、駅前バス通りを
隔てた反対側に在った。^^!


カミサンに「伊勢丹は以前駅前通りの反対側になかった?」と云ったら、Edの記
憶違いだと完全に否定されて自信を無くした。以前、何かの機会にカミサンの親
戚数人と食事会をしたことがあり、その場所が伊勢丹の中に入っていた和食「吉
兆」だったと記憶していたのだが、現在の伊勢丹に「吉兆」はなかった。いよいよ
ボケたかな・・・


それにしても立川駅前北口も大きく変わってしまい、考えてみればもう大昔のEd
の記憶と合致する筈はないのだった。以前あった緑川は暗渠になって上を広い
車道が走っており、曙橋という交差点の名前だけが辛うじてむかし川だった証に
なっている。


もう昼時だったので、伊勢丹の駐車場は混んでいて30分待ちだという。末のは嫌
なので少し離れた提携駐車場に車をいれ、歩いてデパートまで行った。千葉へ来
てからはデパートと云えば松戸の伊勢丹か千葉三越がメインになっていたのだけ
れど、カミサンの求める寝具(布団カバー)が松戸の伊勢丹には置いてなくて立
川店にある、というのでわざわざ墓参りの帰りに立川まで足を延ばしたのだった。
^^!


                                           

立川の米軍基地はベトナム戦争後返還されて現在は広大な昭和記念公園になっ
ているけれど、その昔は現在の高島屋デパートのある辺りにゲートがあって、鉄
条網で囲われたその向こうは広々とした芝生で覆われた米軍占領地帯。北に向
かって砂川まで長い滑走路が伸びていた。


ベトナム戦争の頃Edは滑走路北端からほど近い都営村山団地に暫く住んでい
た。4発の大型輸送機グローブ・マスターが朝から晩までひっきりなしに団地を掠
めて飛んでいくので、ガラス窓はその度に割れんばかりにビビり、赤ちゃんや幼
児は驚いて泣き出すし、住民は気持ちの休まるときが無かった。現在の沖縄の人
たちの苦痛も少しは理解できるのである。


                                           

学校を終えて最初に就職した会社は立川の北に位置する東大和市で、隣接する
敷地に小さな米軍施設(ヤマト・ベース)があった。その縁で毎週一回軍の教会の
牧師(Chaplain・ダンロップさん)に英会話を習っていた。ある日彼が我々の教室
にベトナムで怪我をして療養中の若者を一人連れてきた。


未だ我々と同じ20代と思われる若者は比較的軽症だったらしく、松葉杖を使って
いた他は元気そうだったから、彼の気分転換と我々を退屈させないため”助手”を
勤めさせたのだった。


何回か会っているうちに少しづつ彼とも話が出来るようになり、昼間彼の入院先
(立川基地の軍病院)を皆で訪ねたことがあった。その時初めて”戦争”というもの
の実体を垣間見た気がする。ショックだった。怪我をしてベッドに横たわっている
兵士は我々と幾らも変わらない若者ばっかりで、包帯や点滴などの医療器具に
囲まれた大勢の傷病兵たちが痛々しく、Edの脳裏に衝撃と共に深く刻み込まれ
た。


あのベトナム戦争でも沢山の人が亡くなったり怪我をし、終ってからも精神に異常
をきたした人も数知れない。その裏では軍需産業が大儲けするという構造は米国
だけに限らない。これから日本も”経済”という隠れ蓑をまとって軍需産業に力を
いれようとしている。我々日本の国民も本当にそういうことをして良いのか、今こ
そ各自が一人ひとり真剣に考えてゆかなくてはならないのではないだろか・・・


  



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