Ed's Slow Life

人生終盤のゆっくり生活をあれやこれやを書き連ねていきます。

高尾山(0308)

2008年03月31日 | Weblog
前日までの不安定な天気は夜のうちに通り過ぎて、朝は雲の切れ目から青空も覗いて暖かな春の一日となった29日(土曜日)今年3回目の高尾山ハイキングに出掛けた。
下界では染井吉野があちこちで満開となり、車窓からも艶やかな桜の並木が所々で見られたが、山はまだ春爛漫とは行かずようやく木々の先端が芽吹いて新緑の季節の準備をしている段階である。
今回はいつものメンバーが参加できるようにとワザワザこの日を選んだのだが、結局誰も一緒に来てはくれずまた独りで行くハメとなった。
そこで今回は、次回(4月)高校の同窓6人で登る際の下見を兼ねてルートの再確認をすることにした。





1号路は距離が長い分だけ傾斜はなだらかでアスファルトやコンクリートで舗装されており、階段の数も少ない。楽ではあるけれども山を登るという感じではなく面白み欠ける。
稲荷山コースは最初にキツイ階段が続き、途中アップ・ダウンはあるものの結構足場の悪いところもあって、最後は長い階段で頂上にいたる。
びわ滝コースは距離は短いものの滝を過ぎてからの勾配が相当キツイ。
その点6号路は谷川伝いなのでやや道が湿っぽいところもあるが、平均して勾配はなだらかで足場も悪くない。唯一最後の5~60mある階段が年寄りにはキツイ。

足元を確かめながら6号路をゆっくり登ってみた。途中澤の中を踏み石伝いに行くところもあって何となく気持ちが和らぐ。この澤を越えると最後のキツイ階段が待っているが、時間をかけて休み休み行けば年寄りでも問題なかろう。やはり登りはこのルートが一番いいような気がする。
下山では膝を痛めやすいので、段差の少ない1号路を使ってみた。やはり平坦でもアスファルトは疲れる。変化に乏しいのも疲れる一因かもしれない。場合によっては途中からケーブル・カーという逃げ道があるから、万一の場合安心である。
もう少し日が近づいたら、このルートで皆に提案してみるつもりだ。




鈴女

2008年03月24日 | Weblog
週末は晴れて暖かくなったので、オジンライダーさん達とバイクで銚子の「鈴女」まで昼飯を食べにいってきた。バイクに乗るのは略一ヶ月ぶりだろうか。
R356は利根川沿いの土手道なので周囲に遮るものがなく、強い横風が容赦なく吹き付けてくるので、非力な爺さんライダーはヨロけそうである。
12時少し前に到着。以前は、昼時は行列が出来て待たされたのだけれど今日は割合空いている。店は一年ほど前に建て替えて新しくなったが、それ以来だろうか。魚港だけに相変わらず新鮮さと大盛りが売りで、繊細で上品な関西料理とはチト趣が異なるけれど、まあそれはそれ。ボリューム万点の穴子天丼を平らげた。う~ん、後で胸焼けしなければいいが・・・
オジンライダーさんが、帰りは強風に吹かれたくないというので、少し遠回りして内陸側の道を成田経由で戻った。200キロにも満たないショート・ツーでした。




あまり美味しそうじゃないけど、穴子天丼/¥1000


フーさんが注文した海鮮丼/¥1500 全部食べた?


オジンライダーさんの大海老天丼/¥1500 

別れ

2008年03月21日 | Weblog
ポーランド工場から派遣されてきた二人のメカニックは無事日本での3週間の仕事を終え、本日帰国の途についた。

19日が仕事の最終日で、午後は時間が空いたので同業の請負修理業者・T自動車のTさんと一緒にヤヌツとミロスザウの二人を川越市内の観光に連れだした。Tさんの仕事は彼らと同じ現場作業なのでお互い通じるものがあるらしく、休憩時間はいつも一緒で3人はとても仲が良い。

ポーランドでも現場作業のメカニックは一段低く見られていて、サラリーは事務職の6割程度に抑えられている。彼等の給料は日本円に換算して一ヶ月6万円程度というから、いくら物価の安い本国でも生活は楽ではないらしい。従って生活は慎ましく、我々日本人のように欲しいものがあればすぐ手を伸ばすようなことはしない。川越の喜多院、蔵の街、菓子屋横丁など一通りお土産が買えそうなところを案内したけれど、記念写真だけでついに無駄使いは一切しなかった。

夕方会社に戻り、いよいよ別れの時がきた。Tさんが一足先に帰るので彼等3人だけで暫く話していたが、やがて堅い握手をしてからハグをし、Tさんの車が去っていった。そのとき二人に事務所の方でもう少し待つようにと声をかけてフと顔をみたら、二人とも目に薄っすら滲んでいるものが・・・
彼等は純粋なんだなあ、と胸を突かれる思いがした。

これまで随分沢山の欧米人に会ってきたが、こういうことは初めて。ホワイトカラーより現場で苦労している人たちのほうが心が澄んでいるということだろうか・・・








戦災モ二ュメント

2008年03月20日 | Weblog

彼岸につき、日曜日(16日)は先祖の墓参りに行って来た。小平霊園と国分寺の祥応寺の2ヶ所。
カミさんの実家が近いので毎回帰りに立ち寄って挨拶してくる。亭主の方はそうそう話もないし退屈なので散歩に出た。

外は汗ばむほどの陽気で、シャツ一枚でちょうどよい。昔勤めていた会社がこの辺りだったと思いながら、最近出来たイトー・ヨーカドーで本屋を覗き、単行本を2冊買って更に先へ行ってみた。
東大和市南公園の表示があり、案内板をみると入り口は狭いが中は運動広場などあってかなり広いようだ。付近の景観は道路も建物も勿論昔の面影はまったくないのだが、ただ何となく今立っている公園の入り口が嘗て勤めていた会社の正門付近のように思えてきた。公園の林の中の道を暫く進むと少し開けた場所にでた。フと右手に見たことがある古びたコンクリートの建物がある。紛れもなく以前勤めていた会社の変電所の一部ではないか!
驚いた、まさかこういうものが残されていたなんて!周囲は再開発でアパートやスーパーマーケットが建ち並び昔を思い出させるものは何一つないのに、ただこの一箇所だけが嘗ての会社の敷地だったことを証明している。

会社は戦前の日立航空機のエンジン工場だった所で、戦後富士自動車(現コマツ・ゼノアが製造工場として使っていた。そのため分厚いコンクリートの実験棟や給水設備が数多く残っていたが、この建物もそのうちの一つである。
自分が働いていたころここはまだ変電所の一部として使われていて、建物の外壁には沢山の弾痕が残っていたが、米軍の戦闘機による機銃掃射の跡である。戦時中は当然のことながら米軍の激しい攻撃に晒され、他の建物にも弾痕は残っていた。多分戦災のモニュメントとしては象徴的だし大きさも手ごろだったために市が記念に残したものと思われる。
それにしても、思わぬところでひどく懐かしい人に出会ったようなやや高揚した気持を味わった。そしてまた、過去の曖昧な記憶の不思議を思った。






ヤヌツ、ミロスザウ

2008年03月12日 | Weblog


ポーランドの工場から派遣されて、トランスミッションの一部組替え作業を行っているメカニックが二人(ヤヌツとミロスザウ)先週から3週間の予定で川越の我が倉庫に来ている。困ったことに英語が我々以上に片言で、その英語も川越辺りでは泊まっているホテルでさえ殆ど役に立たないから、毎日の送り迎えや、昼と夜の食事は誰かが世話をしてあげないとならない。だから皆で手分けして彼等の面倒をみている。まあ、こういうことはお互いさまで、不便を通じてお互いが親しくなり、次回日本から誰かがポーランド工場へ行ったとき彼等の世話になることもあるから疎かには出来ないのである。

良くしたもので、最初はお互い訳が分らなくても終いには手振り身振りや筆談を交えて簡単なことは通じるようになるので、2週目に入った現在はお互いに大分理解できるようになった・・・つもりでいる(笑)。
彼らと接していると、30代で初めて英国に出張したころの自分を思いだす。あの頃は喋っている相手と、お互いに話が一方通行でコミュニケーションになっておらず、もどかしい思いでいっぱいだった。私の相手をしてくれた担当者は、何をどのように話したらこの言葉の不自由な東洋人に理解してもらえるか、多分頭をひねったことであろう(^^!

彼等の仕事は思ったより早く手際が良い。もの造りの世界では、注意深さ、キメの細かさ、正確さといった面で確かに日本人は他より優れていると思う。一方欧米系は一般的に仕事が大まかで細かな作業は不得手という感じがするけれど、大胆で合理的な面は日本人にはない。例えばシール材で固着している前後二つのケースを分けようとするとき、日本人ならハンマーで叩いたりせず、何か特殊工具を使うことを考える。欧米系は腕力があるから大きなゴム製ソフト・ハンマーでケースの縁を叩いて簡単に分解してしまう。
何だか日本人は「お嬢さん」のようなやり方で、彼等は「男」の仕事をやっている風に見えてしまう。(笑)
日本は世界一の工業国だと過信しがちだけれど、異文化交流を通じて自分たちが全て正しいわけではなく、彼等から学ぶべきこともまだまだあるのである。


のんびり

2008年03月08日 | Weblog


今日(8日)は春のような暖かさ。先日ようやくのことで気がかりだった確定申告も済ませ、胸のつかえが下りてスッキリした気分である。
いい陽気になったので、去年暮れにやらなかった庭木(梅、山茶花、金木犀など)の剪定を久しぶりにやった。あまり大きく広がらないように且つバランスよくしたいのだけれど、なにせ素人なのでいつも適当にやってしまう。植木屋さんが見たら何というだろうか。
カミさんも陽気に誘われて「もも」に散歩綱をつけて庭に下りてきた。あそこを切れ、そこをもっと短く、などとあれこれ指図してくれていたが、そのうち「もも」が手品のようにスルリと「縄抜け」して脱走してしまった。
久しぶりに自由を得た「もも」は暫くの間逮捕できないと、諦めて残りの剪定を済ませ、切った枝の後片付けを始めた。木の枝は細かくしてごみ袋に纏める。これが結構手間で、むしろ剪定作業の方が楽なくらい。ついでに一月ほど前の強風で倒れた垣根の赤目2本も処分したが、全部終わるまで2時間も掛かった。
その間「もも」は、汗をかきながらノコを引いているご主人様の直ぐそばに来て、毛繕いをしたり隣家の庭を散歩してりしていたが、やがて飽きたのか自分から家に入って行った。ヤレヤレ強制逮捕で大騒ぎせずに済んでよかった。
さて来週末は天気よければぶらりショート・ツーでも出掛けようか・・・


読書

2008年03月05日 | Weblog
定年後は時間が有り余るようになるから一般的に誰でも本を良く読むようになるようである。本を読むのは嫌いではないけれどあまり熱心という方でもなく、気に入った作家が見付かると単行本を探して一連の作品を通勤電車の中で読む程度である。
これまで読んだ作家は、水上勉、陳舜臣、井上靖、宮尾登美子、司馬遼太郎、最近では乙川優三郎くらいだろうか。精々100冊くらい、極めて少ない!(知識が貧弱な所以である)

20代では仕事がらみでではあったけれど、資格を取る目的で専門書ばかり多く読んだ。その代わり小説など一般書からは離れてしまったような気がする。
30代以降日本の経済成長とともに益々忙しい毎日を送るようになってからは新聞と雑誌くらいしか読まなくなってしまった。怠け者である。
それでも大学の恩師が卒業のときにアドバイスしてくれた「社会人になると本を読まなくなるから、何でもよいから常に活字に目を通すよう心がけなさい!」という言葉がいつも頭の片隅に引っかかっていて、そういう自分に微かな後ろめたさを感じていた。

遅きに失した感はあるけれど「若いときに、もっと沢山本を読んでおけばよかった・・」と今ごろになって後悔してみても始まらないので、これからは少し心を入れ替えて読書してみようかという気になっている。
とはいえ、あの頃と今とでは感性が変わってしまったなあ・・・
ある意味もう取り返しがつかないけれど、それでもTVの前でただボケっと時間を空費するよりはづ~っとマシかも・・・?

残された時間はまだたっぷりある、などと思ってはならないのかも知れない。まさに「少年老い易く学なり難し」なのである。

高尾山(0208)

2008年03月03日 | Weblog
2日/日曜日今年2回目の高尾山に行ってきた。2月はバイクの車検などあって、いつも一緒の仲間とは行きそびれてしまったので、今回は単独行となった。年初に月一の計画を立てたから、それに追いついておく必要もあった。
朝は出掛けに雲が多くて天気を心配したけれど、高尾山口駅についたら晴れて気温も高くハイキングには絶好の日和となった。




登山口へ進む途中、高尾山の環境を守る会が外環道トンネル計画反対の署名運動していた。何でも、高尾山の土手っぱらに直径10mのトンネルを2本開けて高速道路を通す計画らしい。湧き水が枯れたり、生態系に悪影響を及ぼすことが懸念されるという事だったので、署名と寄付をしてから定番の6号路・びわ滝コースを目指す




今日はいつもよりすれ違う人が少ない感じである。このコースは北側斜面で日陰が多いので路面の半分位はまだ雪が凍結して残っている。滑らないよう注意して登る。やがてびわ滝で修行者の念仏を唱える声が聞こえてきた。下を覗いてみたが声だけで誰も見えない。びわ滝先の休憩所は珍しくガラ空きでベンチには誰もいない。少し汗ばんできたので小休止し、上着と中のチョッキを脱いで身軽になった。





更に20分ほど上がると道は二股に分かれる。小川床沿いの6号路を登りきると、やがてキツイ階段になる。最後の汗かき場所である。今日は単独なのでなるべく汗をかかないようにゆっくり進み、丁度12時に頂上手前のベンチ到着。先客が何人か弁当をひろげていた。自分も持ってきたサンドイッチを開いて昼食にした。やっぱり大勢で食べるときと違って話す相手もいないので、アッという間に食べ終わってしまう。食事は20分で片つけて頂上へ。やはりいつもより人出が少ない。今日は花曇りだから富士山は勿論雲の中。頂上に長居はせず直ぐに稲荷山コースで帰路についた。下りは膝を痛めないようにゆっくりと進み、それでも1時半には駅に着いてしまった。2回目はいつもより30分早く終了。次回からはまた皆と一緒に行きたい。