Ed's Slow Life

人生終盤のゆっくり生活をあれやこれやを書き連ねていきます。

ブランドもの

2009年04月29日 | Weblog

以前、会社の同僚だったMTさんが最近転職を果たし、現在外資系の調査会社(Research company?)に勤めている。
そのMTさんからの依頼で、65歳~80歳くらいの高齢者にブランドについて考えを訊かせて欲しいというので、暇に任せて下北沢の彼女の勤め先を訪ねてみた。

下北沢は、通いなれた乃木坂からは10分ほどの距離だからさほど遠くはない。約束の時間にF・インターナショナルに到着、応接室に通された。インタビュアーは二人の若いお嬢さんで、質問しながらビデオを撮らせて欲しいということでカメラがセットされた。

最初に自己紹介をする。質問は衣類とか持ち物に限定せず、食べるものや飲み物を含めたあらゆるものの中で、こだわっているブランドがあるか、というものであった。

考えてみると、自分のなかで「これでなければ」などという拘りがあるものは思い当たらない。強いてあげれば車くらいだろうか。それだって絶対というわけではないし、つまりは価格がリーズナブルで性能・耐久性・デザインが一番よいと思うわれるものが、たまたまそのメーカーだったというだけのことで、果たして本当にブランドにこだわった結果かどうか疑わしい・・・

突き詰めてみると、今の若い人たちと違って、自分(または自分の年代)は所謂「ブランドもの」には無縁の世代なのではないだろうか、という気がする。ルイ・ヴィトンのバッグだとかアルマーニの背広とかヒューブロットの時計などと云っても、自分にはどう考えてもリーズナブルな価格には思えない。あるいはその価値が十分あるものなのかも知れないのだけれど、自分にはその価値も良さも見えてこないし分からない。

恐らく自分の育った時代と境遇が大きく影響しているのではないだろうか。戦後の極端に衣食住に貧しい子供時代を過ごし、学校を終えて働き始めたころから日本は高度成長時代に突入して、夢中で働くことが豊かな米国の生活に近づく一歩と信じて、家族のために闇雲に働いてきた。実のところ、お洒落をしようとか優れた海外製品を買おうなどとという余裕はなかった。

その点今時の若いやつらは飢えたことがないから、金の価値も判らないし向う見ずである。自分が欲しいと思ったら、後先考えずに平気でバッグとか着るものなんぞに何十万も払ってしまう。癪だけど、金はあってもジジイには真似ができない^^!

そういうわけで、子供たちが育ち上がり自身の生活に少しゆとりが生まれる頃になっても、長い間に培った習性は簡単に変わるものではなく、相変わらずブランドものとは無縁で、「安くて良いもの」にしか手が伸びないのだ。

かくして、ブランドものに縁のないオジサンは、”何故ブランドものに縁がないのか”を得々と説明するハメになってしまったのでした。
インタビュアーのお嬢さん、期待外れでゴメンね^^!

         


同窓会(E)

2009年04月25日 | Weblog
長いサラリーマン生活のなかで、最も勤続年数が長いのが現在の勤め先で、28年にもなる。親しい友達ができるのは必ずしも勤続年数に関係するわけではないが、飲み会や遊びで知り合った同僚は部門が違っても比較的長い付き合いができる。利害を越えたところでお互いにホッとできて本音を出せるせいかもしれない。

そうして知り合った仲間も、この数年間で転職していった人が半数近くになった。

昨日は久しぶりにその仲間たちと六本木で飲んだ。定年後も嘱託で働いていた油圧部門のMさんが、ついに契約延長ならず66才で辞めることが決まり、その慰労会でもあった。

Mさんは見掛けによらず(?)スポーツマンで、テニスやゴルフ初心者の我々をよく指導をしてくれた。「生徒」たちは年寄りの劣等生ばかりだったから、ついに一流選手(?)は生まれなかったけれど、楽しい思い出は沢山できた^^!

不景気にも拘わらず転職組は皆忙しくバリバリ働いていて、元気一杯だったけれど残留組は意気が上がらず、明暗を分けた。
これから先更に今の職場を離れていく仲間が増えるだろうけれど、折角縁あって親しくなったのだから、せめて同窓会(E)は末永く続いて欲しいものである・・・

         

         

GW

2009年04月23日 | Weblog

                      

ゴールデン・ウィークという呼び方も、毎日を忙しく過ごていた頃は5月の連休が待ち遠しかったりして、それなりに良い響きをもっていたけれど、現在のように不景気で普段からやたら休業日ばっかり多くなってしまった生産現場では、このGWは恨みの連休である。残業がなくなり、ただでさえ少なかった収入が更に減ってしまった今の状況では、ブルー・ウィークとでも言い替えたくなる。

今の勤め先でも、ご他聞に漏れず先月(3月)は全従業員に一週間づつ無給休暇をとらせる、という経費削減命令が出された。表向きは「強制ではなく、各自の協力を要請する」というウソで固めつつ、会社はその実100%これを実行した。
おかげで、正社員でもない個人契約の自分にまでトバッチリが来て、正社員と同じように無給休暇を採らされた。

それでも、正社員の場合はまだ良い。公的支援があって、本来得るべき賃金の8割は保証されるから実害は無いに等しい。それに比べて派遣社員とか個人契約の我々は、強制的に休まされた分は丸々そっくり収入から差っ引かれてしまう。トホホ・・・である。

ま、幸い我が家は後期高齢者世帯である。GWだからと言って、なまじ外へヨロヨロ出かけていけば邪魔にされるのがオチである。それよりも自宅で大人しく過ごしながら、普段忙しくて手に付かなかったこととか、やりたかったことをのんびり片付けるのもいいかも。
それにこの一ヶ月づっと腰痛に悩まされてきたが、まだ完治していない。連休中はダラケて過ごして骨休めとしよう^^!
                      


サイモンHのこと

2009年04月15日 | Weblog

         

日本の某大手トラック・メーカー向け半自動トランスミッションの開発に携わっていた頃、英国イートン本社から頻繁にやってきた技術者の一人に、メカニック出身のサイモンがいた。
彼は、大学卒のエンジニアたちのように難しい理論を展開するわけではないが、半自動の心臓部であるメカトロ二クス装置のチューニング(微調整)で、他のエンジニアたちが真似のできない卓越した能力を発揮した。
装置の最終設定を行う微調整段階では、客先の要求は難しさを増し、装置能力の限界に近づいてくるので、並のエンジニアでは時間ばかりかかって一向に要求に近づけないのだが、彼はそれを持ち前の鋭い感性で短時間のうちにこなしてしまう。驚くべき能力といえる。
彼は外見も一風変わっていて、耳には穴をあけて耳飾りをつけており、技術者というより芸術家のような雰囲気を漂わせていた。

開発が終わって一段落したころサイモンはイートンを辞め、友人の整備工場で働いていたが、数年してタイに移り住んだと元同僚から聞いた。

2004年10月、我々は社員旅行でタイのプーケットへ行った。サイモンがバーのオーナーになって住んでいる所が、偶々プーケットだということは予め知っていたので、夕方電話してみた。すると運良く彼は自宅に居て、突然の電話にとても驚いた様子だったが、夜彼のバーで待ち合わせることにした。
その晩8時ころ彼は数年前と少しも変わらず、元気そうな姿を現した。それからは皆で彼を囲んで、遅くまで飲んで騒いで旧交を温めたことは言うまでもない。

ここ数年はサイモンから音信がなかったが、先日突然彼からメールが舞い込んだ。内容は何の変哲もない安売りサイトの紹介だったけれど、折り返しその後どうしているか訊ねてみた。
直ぐ返事がきて現在は英国に戻ってトライク(3輪自動車・バイク)の取り扱いディーラーを目指しているのだという。タイ人の奥さんとの間に2人の子供がいるので、いずれはシンガポールでトライクの販売を手がけるつもりだとのこと。器用な彼のことだ、大好きな機械いじりも出来るし、きっと成功するにちがいない。

私が相変わらずバイクに乗っていると聞いて、趣味で旧車(49年Harley Davidson)をベースにリアに200mmの太いタイヤを履かせたマッチョなバイクを造っていると教えてくれた。
 
           
           この49年式WRを・・・

           
           こういう風に造り変える


勇気あることば

2009年04月12日 | Weblog

                   
米大統領オバマさんが、チェコのプラハで市民を前に行った演説は、まことに歴史的な勇気ある発言だった。

核兵器を初めて使用した国として率直にその事実に言及し、核兵器のない世界平和を目指すと述べたことは、特に被爆国の日本、更には広島・長崎の方々にとっては大いに歓迎された。
彼自身も述べているように、殆どのひとが実現は難しいと思っているだろうし、実際容易なことではなかろう。けれども「言わないでおくことの方が簡単だ」という言葉のなかに、彼の人柄と強い意志を感じた。

数年前、米スミソニアン博物館で広島・長崎の原爆被爆品の展示を行うことが決まったとき、旧軍人や原爆投下を正当化しようとする人たちの反対で、結局中止になり爆弾を投下したB29エノラゲイの展示だけに終わってしまった。核の恐ろしさを知ってもらおうとした日本側の願いは、狭量で勇気のない一部米国民には通じなかったけれど、その米国からオバマさんのような大統領が現れてくるとは、アメリカという国はまことに懐の深い国だと改めて感心した。

しかし、米国が真に核廃絶を願うならば、世界一の核保有国として、先ず率先してロシアとともに核兵器の削減に再び取り組んでほしい。自分たちが大量に最新の核兵器を保有したまま、他国の核開発だけを辞めさせようとしても、説得力に欠ける。
イランや北朝鮮に核の開発を断念さるには、核保有国の姿勢と、それを支持する核を持たない他の国々の強い意志しかないだろう。

それにしても、世界で唯一の被爆国である日本が、もっと世界に向けて影響力のあるメッセージを送れないものだろうか・・・
考えてみれば、戦後歴代の政治家の誰ひとりとして、自国のこと以外真剣に世界平和に取り組んだ方はいないし、オバマさんのように何事かに理想をもって努力した総理大臣も見当たらない。
まあ、それを望むほうが無理というものか・・・
                    


AAM伊那

2009年04月05日 | Weblog

Ageless Age Meeting 略して「AAM」、バイク仲間のMOMOさんが名づけた何とも適切なグループ・ミーティングの名前だと(手前味噌ながら)思う。
スズキ・イントルーダー・LC1500とその後継モデルC90を所有するグループ「RLC」に所属する、自分のような大年寄りも、「KARENAIS」という関西の女性ライダー・グループに属する若いマダムたちと、一緒に合同ツーリングが楽しめるように、という思いから名づけてくれた。

AAMが年に数回行われるようになって今年で確か4年目になる。関東勢が関西勢と一緒に走れるチャンスはそう多くない。お互い500キロも離れているから、毎度のことながら一泊しても岐阜や長野辺りが適当な場所となり、今回の宿は長野県伊那市にある蔵の宿「みらい塾」と決まった。

4月4日、土曜日朝5時、MOMOさんといつもの場所で待ち合わせて出発、千葉北ICから高速に乗り湾岸線経由で首都高から東名に出た。土日の高速料金が安なって2回目の週末だが、この時間まだ普段とあまり変わらない。
1時間半ほどで最初の休憩地海老名SAでトイレ休憩と給油。薄陽がさしているのに襟首や足元から入り込む冷気で身体全体が冷える。

海老名からは、次の休憩地を富士川SAに決めて自由走行に移った。相変わらず寒くて身体がガタガタ震える。50キロほど走ったところで又トイレに行きたくなり、足柄SAに入って小用を足した。富士山が目の前にくっきり。写真を一枚撮った。

         

富士川SAでMOMOさんと再び合流、2回目の給油をしてから関西組が待つ豊川ICへ向かった。裾野を過ぎたあたりからようやく身体の冷えが和らいできて、満開の桜も目に入るようになった。

順調に飛ばして予定通り10時までに豊川へ着くつもりでいたが、途中の電光掲示板に三ヶ日で事故渋滞の情報があり、徐々に渋滞が伸びていく。MOMOさんと相談して手前の浜松西ICで高速を降りた。
まだ下道で40キロほどあったけれど、MOMOさんのバイクにはNAVIが装備してあるので、こういう不測の事態では大いに助かる。40分遅れだったけれど迷うことなく豊川の集合場所にに到着した。

KARENAISのメンバーは、既に顔見知りのみぃばさん、AYAさん、それに今回初めてお会いするまきさん、リンダさんの4人。RLCのメンバーはVienaさん、Noryiさん、Tobiuoさん、そしてMOMOさんと自分の5人。挨拶もそこそこにNoryiさんの先導で出発。

気持ちの良いワインディングを満開の桜を見ながら9台連なって走る。相変わらず後から付いて走るだけの自分は、今何処に向かって何処を走っているのかさっぱり分からないまま、ヒタスラ移り変わる景色を楽しませてもらう^^!

途中のレストランでお昼を食べ、2時頃信州新野千石平(道の駅?)で小休止。見上げると怪しい雲行きである。フと見ると、女性軍は迷わずレイン・ウェアを着込んでいる。我々男衆は「・・まだ大丈夫だろう・・・」と皆タカをくくっていた。
再び走り出して30分もしないうちにポツリポツリやってきた。が、そのまま走り続ける。まだ濡れるほどではなかったが、Noryiさんが道の駅に飛び込んで雨具を付け始めた。自分はまだ迷っていたけれど、MOMOさん以外全員が雨具を付け始めたので、諦めて着込んだ。

そこを出て間もなく雨脚が速くなり、ブーツ・カバーをしなかったので靴の中が浸水する恐れが出てきた。幸い給油のタイミングだったため全員ガス・スタンドに入り、自分はブーツ・カバーを、MOMOさんはレイン・ウェアを着ることができた。
それにしても、女性たちの余地能力の高さには驚く!絶妙のタイミングで迷わず雨具を付けた。対する男衆は只単純に迷っているのみで、先が見えてない!次回からカッパを着るタイミングは女性たちにお伺いをたててからにします!

雨で気温も下がり、宿までの道がずいぶん長く感じたけれど、無事今晩の宿「みらい塾」到着。石油ストーブを炊いて濡れた手袋や靴下、ヘルメットを乾かしている間に食事の時間に。
大きな囲炉裏を囲んで9人が座り、女将さん自ら囲炉裏で鮎、納豆を詰めた薄焼き(のようなもの)、くるみ味噌を塗った五平餅などを焼いてくれる。付けあわせのお浸し、蕗の煮しめ、無花果の甘煮、酒かすの野菜汁など珍しいだけでなく、どれも皆美味しかった。
ビールのあとはこの宿お奨めの無印麦焼酎を頂いた。香りがよく微かに甘みがあり、ストレートが良い。お腹も一杯になり、気持ちよく酔ったところで、今度は女将さんの娘さん夫婦が演奏する竪琴とオカリナのアンデス音楽で歓迎してくれた。真に印象に残る夜になった。

        
        
        
        
        

翌日は雨が上がって空が明るい。どうやら降らずに済みそうである。関西組は方向が違うので、我々はMOMOさんと二人だけ宿の前で別れ、復路は中央高速で戻ることにした。宿を出てから20分ほどで伊北ICに到着、そのまま乗って一直線で首都高まで。首都高を含めて全く渋滞がなかったので、京葉花輪ICまで凡そ3時間半。2時半には自宅に戻り、洗車して4時にはバイクを仕舞った。

今回ルート選択と先導を引き受けてくれたNoryiさんと、心和む素晴らしい宿を手配してくれたみぃばさんに特に感謝!
皆さん、次回もまたよろしくね^^!

          
 


不景気

2009年04月02日 | Weblog

                  
勤め先の職場(倉庫)では、去年の暮から減り始めた(トランスミッションや部品の)出荷台数が、ここへきて更に減少してしまい大変なことになっている。

4月の出荷量は、これまでの通常の1/3程度まで落ちこむ見込みなので、今まで一日がかりでやっていた仕事は半日もかからずに終わってしまう。下請けの現場作業の人たちは、だからと言って遊んでいるわけにもいかず、掃除をしたり、作業場の改善をしたり、あるいは先の仕事を前倒しして時間を稼いでいる。

彼等は一ヶ月先、半年先、一年先の計画や見込みは何も知らされていないので、会うといつも先を心配し、この先どうなるのか不安を募らせている。

正直のところ我々仕事を依頼している親会社だって、3ヶ月先の見込みは確たる裏づけがあって立てたわけではなく、多分に期待値が先行した読みになっている。
けれども訊かれれば、「大丈夫、4月が底です。5月から徐々に持ち直します」と答えざるを得ない。無責任のようだけれど、ウソでも「これから良くなります」といってカラ元気でも出さないと気分が滅入る。

そんな折、東京本社の仲の良い同僚から電話があった。彼女の話によると、定年後契約社員として働いていた油圧部門のYMさんが、今月末をもって退職することになったらしい。現在契約で働いている社員は今後契約が切れた時点で一切再契約しないという会社の方針だとのこと。いよいよ自分の立場も厳しくなってきた。
自分は契約上は「社員」ではなくて「請負業者」だけれど、やっている仕事は社員と同じなので、安心してはいられない。
明日はわが身・・・