Ed's Slow Life

人生終盤のゆっくり生活をあれやこれやを書き連ねていきます。

何となく落ち着かない

2011年03月30日 | Weblog

                    

被災地のように家族を失ったり全てを津波に流されてしまったわけでもなく、徐々にこれまでの普段の生活が戻りつつあるのに、それでも心はザワついている。

福島原発事故は最終的な解決の糸口を見出せないまま空しく時間ばかり経過していくように見える。これまでの業界主導でいい加減な原子力政策のつけがいよいよ回ってきたということなのだ・・きっと。
政府主導の専門家を交えた事故対策プロジェクト・チームもない(・・あってもちゃんと機能していない)まま東電と原子力安全・保安委員会に任せたままで本当にいいのだろうか・・・?
昨日になってようやく東電の勝俣会長が福島第一の1から4号機原発は廃炉になるだろうとの見解を示したが、国(政府)が事故の詳細内容と今後の見通しを隠さず開示し、責任を持って正確に発信していないから国内はもとより海外からもイタズラに不安を抱かれている。

成田線は相変わらず50%程度の運行率で遅れたり混んだり止まったりで、神経痛で弱った足腰に余計負担がかかる。ネコは風邪が一向によくならず、この10日あまり食事を全く受け付けないのでスッカリやせ衰えてしまった。会社も、顧客(メーカー)が殆んど稼動してないので納品がストップしたまま売り上げが極端に落ちている。あ~ぁ・・・

被災地の人達の過酷な毎日を思えば、どうということもない生活なのだけれど、やはり心は何となく落ち着かないのだ・・・

明日は久しぶりにバイクにでも乗ってみるか・・・^^!

                     


給油の渋滞解消

2011年03月28日 | Weblog

                                 

地震発生から丸二週間が経過し、すくなくともEdの住まい近辺ではガソリン・スタンドで待つ車の行列が見られなくなった。何処ででも容易に買えることが分かれば、誰も競って長い行列に加わる人はいない。そもそも一般のドライバーには、ガソリンの買占めなんてやりようがないのだから、給油所の在庫さえ元に戻れば、人々が落ち着くのは目に見えていたのに、(あえて?)そうしなかった(様に思える)のは業界の値上げへの思惑が働いたのだろうか・・・?

無駄な渋滞がなくなって良かったのだけれど、スッカリ車社会が根付いてしまった今の日本で、もし本当にガソリンが長期に亘って不足する事態となったら多分酷いパニックを引き起こすことだろう。普段の足として車が頼りの今の田舎暮らしは再考を要するのかもしれない。

都心部に自宅があるJinさんは、ある時持っていた車を息子さんにあげてしまった。駅まで歩いて10分だし電車は頻繁に来るし普段の買い物は近くで何でも揃う便利な場所だから、車の必要性をあまり感じなかったらしい。それでも便利な都心に住んで、尚且つ車を手放さない人はいくらもいる。車が好きだということもあるから、便利さだけでは一概に手放す気にはならないかもしれない。

Edもそのクチだから、もしJinさんと同じようなところに住んでいたとしても、なかなか手放せないだろうと思う・・・^^!
乗り物というのは便利で楽しくて厄介なものだ。

                                  


原発に反対しよう

2011年03月26日 | Weblog

                    

電力不足という理由(私は未だ信じていないけれど・・)で東京圏のJR、私鉄各社が電車の運行本数を減らしたり中止したりするので、毎日の通勤、通学に不便や支障をきたしている方も多い。

Edは4本の線を乗り継いで千葉の田舎から埼玉の田舎(川越)まで通っているので、そのうちのどの線が運行を中止しても電車通勤はできなくなってしまう。幸か不幸か地元の成田線以外は略正常に動いているから、どうにか毎日通勤できているけれど、困るのは帰りである。成田線が夜9時まで運行を中止してしまうのだ。これでは家に帰り着くのが毎日10時になってしまう。仕方なくカミサンに頼んで(片道20Km)車で迎えにきてもらう。JRと東電は我々顧客の余計な交通費を返せ!

今朝NHKのニュース番組で、早速原発に関する近隣住民の賛否をアンケート調査した結果なるものを報じていたけれど、賛成が反対を僅かに上回ったのだそうであるが、マユツバものだ! 20キロ圏内で退避させられた人でも、東電に裏切られたと言いつつ明確に「反対する」とは云わない。原発のおかげで町の雇用がどうとか、各種施設をつくってくれたとか、政治家みたいなことをいうのを聞いていると、自分たちが極めて重大な危険に曝されていることをまるで認識していないようで唖然とした。まさかNHKの「やらせ」じゃぁなかろうね・・・

Edはこんな危険な発電所はもうこれ以上造らないでほしいと思う。既にこの狭い日本に50基以上もの原発があって稼動しており、総発電量の3割をまかなっていると聞いてカラ恐ろしくなった。東電という会社の隠蔽体質は東海村での放射能漏れ事故の時に実証済みだった。菅総理は情報が政府に速やかにかつ十分報告されない、と怒ったそうであるが、怒鳴れば「ハ、ハ~ッ!」と相手が恐れ入るとでも思ったのだろうか。直ぐに有識者、専門家を集めて対策本部を設置し、菅総理自ら東電、福島原発に乗り込むくらいの気迫がなければ、のらりくらりの電力会社に言うことを利かせることは、とてもできないだろうな・・・

それより何より、我々にとって忌々しく重大なことは国の原子力政策が、国民を危険から守るという視点に欠け、専ら業界のための政策であるという点ではないか。日本が世界有数の地震大国であるにも拘わらず、その安全性について十分配慮されているとは言いがたい。(この点について新恭さんの
永田町異聞に詳しいので是非読んで頂きたい)

この国の政治もやはり国民のほうは向いていないのだ。大企業、権力者たちの意向に沿って全てが決められてしまう。東電の隠蔽体質も、つまりは日本という国家の縮図であるのかもしれない。一昨日作業中に被爆した3人の作業員は東電の下請けであり、いい加減な前日の情報に基づいて危険な場所へ送りこまれ、十分な放射線防護の管理もしないまま作業さられて被爆した。東京消防庁のレスキュー隊長さんたちの責任感溢れる対処法とは、月とスッポンではないか!

こういう危ない会社に原子力という危険な発電施設を許可した歴代自民党政治家たちこそ現在の福島原発の危険を招いた張本人なのだが、「私が間違っておりました・・・」などと殊勝な気持ちになっているマトモな人間は、居るわけないか・・・^^!
いづれにしろ、東電などという危ない会社は、これからは外部から十分目が届くような政府の管理下に置かないと我々は安心して眠れません。
計画停電くらい、本当に必要なものなら(まだ信じてはいないけれど)我慢しましょう。原発はもう止めろ!

                     


坐骨痛みよ、こんにちは!

2011年03月24日 | Weblog

                      

亡くなったお袋が以前神経痛に悩まされていたことを思い出したのは、数年まえ自分自身が初めて「坐骨神経痛」を経験したからだ。それまでは、どんな痛みなのか、どれほど不快なものなのか知る由もなかったのだけれど、イザ己にその災難が降りかかってきてみて正直マイッタ!

最初にその症状がでたのは寒い朝のジョギング中で、左足が痺れたような感じで大腿部の付け根(つまり坐骨?)に鋭い痛みが走った。仕方なく後はゆっくり歩いて痛みをこらえながら家に戻った。その日から2ヶ月くらい左脚の付け根から下の鈍痛に寝ても覚めても悩まされ続けた。特に朝の出勤時、自宅から駅までの最初の徒歩(およそ10分)は痛みが酷く、いつもの倍の時間をかけて休み休み歩くしかない。しかしこの最初の10分間の辛い歩きが終わると、あとは比較的痛みが和らいで楽に歩けるようになる。そうやって自分自身を騙しだまし痛みに堪えながら3ヶ月ほど普通に生活していたら、いつの間にか痛みが薄らいでいた。

スッカリ忘れていたくらいだから、多分この数年の間に略完治していたと思う。それが10日ほど前突然再発した。今回は思い当たるフシがないのだけれど、最近になって体重が徐々に増え始めたところから察すると、運動量が相対的に減ってきていたのかもしれない。とにかくまた例の鋭い痛みが左脚に走り、満足に歩けない。今回は腰よりフクラハギの痛みが酷く、少し痺れている。今週から車ではなく、元通り電車通勤に変わったから階段の上り下り、乗り換えのための歩きに備えて、毎朝20分の「苦行」を続けている。早く週末にならないかなあ・・・^^!

                      


食べたくない!

2011年03月22日 | Weblog

              

感染症による猫の風邪と診断されて一週間、毎日無理やり薬を飲ませ、目薬を差しているけれど病状が一向に改善しない。再度隣りの病院へ連れて行ったらまた注射を打たれた。しかしそれでも相変わらず鼻づまり(?・・らしい)で鼻息がビービーおかしな状態が続いていたが、ついにこの2日間食事をしなくなった。お腹が空かないのではなくて食欲がないのだ。その様子を心配した猫好きの知人が別の病院を紹介してくれた。

万一かかり付けの病院の見立てが間違っていたら・・・と心配になり、念のため昨日教えてもらった別の病院へ連れていった。ここは人間並みに血液検査やレントゲン検査をする。ももは診てもらう前から不安と恐怖でミーミー騒いでいたけれど、採血のときは山猫のようにギャーギャー猛然と暴れた。首にプラスチックのプロテクターを嵌められ、両手足を看護助手にシッカリ押さえ込まれた状態で採血針を刺しこまれたものだから、ももは殺されると思ったのかも・・・^^!ももの喚き声は診察室の外まで響き渡ったものだから待合室にいた犬、猫たちは「何事か!」と耳をそばだてていた。

血液検査の結果は極めて良好で、病気の診断はやはり感染症による風邪だった。ももには痛い思いをさせて可愛そうだったけれど、人間の「親」はこれで一安心した^^!
しかし食欲旺盛だったももが、まる2日間一口も食べて居らず、3日目の今朝もまだ薬だけ飲まされているのが少々気掛かりではあるのだが・・・

             


被災地支援

2011年03月20日 | Weblog

                    

国難というにはチョッと大袈裟に過ぎるかもしれないが、日本政府(菅政権)があまりにも頼りなく無策なため事態はより一層深刻なものになっている気がする。

現場で実際の対策に当たっておられる方々は、限られた支援、資材と少ない人数で最大限の活動を必死で遂行されている筈である。被災地現場へのアクセスがままならない今現在、我々一般人が出来ることで本当に役立つのは、募金に応ずることではないだろうか。
震災後10日を経過して、避難されている人たちは今後の本格的な支援を心待ちしているし、この方々にとって本当の厳しさは、これから始まるのだと見るべきであろう。

被災地支援というのは難しい。何処で何がどれほど必用とされているのか最初は誰にも分からない。情報網が分断されてしまっているし、時間とともに断片的に入ってくる情報も受け手が総括的に整理しながら、支援する側に発信できないと折角の支援物資も役立たなかったり偏ったりしてしまう。初動で届いた支援物資のあとは、現地の要望に沿った本当に役に立つ支援がほしいので、被災自治体に出来るだけ正確な情報収集に努めてほしいし、その為にも情報・連絡網を早急に復活してほしい。それが出来たら、集めた義援金で最も必用なものが買えるし、場合によっては更に必用な物資を要請することができる。

私の卑近な経験でも、(地震後2週間ほど経っていたけれど)災害避難所(70人ほど)に集められた食べ物のうちインスタント・ラーメン、缶詰、レトルト食品、チョコレート、乾麺などは山のようにあったけれど、調味料(砂糖、酒)や日持ちの短い干物、ハム、ソーセージなどは全くなくて、惣菜を2品調理するにも苦労した。支援物資というのは食材一つとっても難しい。

これから緊急支援が一段落すると大規模な復興支援が必用になる。そのときは大勢のボランティアの手が必用になると思うけれど、取り敢えず現状では災害地に出かけることより、少しでも多く義援金を送ってやることだろう。

それにつけても海外の支援活動の動きは早く且つ適切だと感じた。日本人として真にありがたく思うし胸が熱くなる。海外の芸能人たちもいち早く莫大な義援金を寄付してくれている。それに比べて日本の芸能人たち、TVで普段偉そうにコメントをたれている人たちからは、一向にその種の話が出てこない。表に出さず黙って”莫大”な募金をしてくれているのだろうか・・・

                     


東京圏の物資不足

2011年03月16日 | Weblog

                         

東日本大震災の後、殆ど地震による被害の無かった東京、神奈川、埼玉、千葉辺りで日用品の諸々やガソリン、パンやカップ麺など食べ物の一部が買えないという現象が起きている。

地震直後は帰宅難民や勤務先での思わぬ宿泊などで混乱したからコンビニから水や食料品が一時的に枯渇したのは分かる。しかし翌日からづーっと不足状態が続いているのは解せない。
皆が普段通りの生活をしていれば、不足するのは流通不足による分だけの筈なのに、店頭からまるで無くなってしまう。
当初は首都高が閉鎖されたり一般道が渋滞していたから仕方ないとしても、3日、4日と時間が経って道路状況も徐々に元通りになりつつあるにも拘わらず、営業しているガソリン・スタンドは極めて少なく且つ短時間で終了してしまう。
元締めが出荷を絞っているとしか思えない!
これでは仕事上どうしても車を使う必要がある人まで困らせている。今の政府は能無しの無策揃いだから危機管理だって出鱈目だし、出てくる対策はみんな後手後手で期待はできないが、せめて鉄道と物流だけは早く正常に戻してほしいものだ。

本当のところはEdには分からないけれど、物資不足の一因は我々購入する側にもあるのかもしれない。70年代にあった一次オイル・ショックの時は、トイレット・ペーパーが不足するというデマにみんな揃って踊らされ、買いだめに走った。そのときも店頭からトイレット・ペーパーが全て消えてしまったが、長くは続かずいつの間にかまた店頭に並びだした。
多分また1,2週間もすれば今店頭から消えてしまった乾電池も、ラジオもパンもまた潤沢に戻ってくるに違いない。みんな慌てて探し回って買うことはないのに・・・

無ければ、無いなりに少しの間我慢すればよろしい!被災地の窮状を考えたら、そんなもの無くたってどうということもないのだから・・・ 皆さん、一時だけ無いもののためにパニックになって探したり買いだめしたりしないよう、くれぐれもお願いしますね^^!

                       


爪あと

2011年03月15日 | Weblog

勤め先の川越で強烈な揺れに遭った11日・金曜日の晩は、全て電車がストップしてしまったので泊まりを覚悟した。川越のホテルに予約を入れようとしたが、いよいよ電車が動かないと分かってからだったので、とき既に遅く満室。ネットで道路交通情報を見たら高速道路、首都高は全面通行止め。都心部もその周囲も幹線道路はどこも大渋滞。しかし車の時Edが通るR16は所々しか渋滞表示はない。「よし、車で帰ろう・・・」と決めて会社の車を借りた。

夜8時川越の倉庫を出た。入間川の橋を渡って暫くするとR17バイパスと合流するジャンクションに出る。手前数百メートルから渋滞、そのままノロノロR17と別れる分技立体交差まで1キロほど進む。右折して春日部、野田方面に向かうと渋滞は解消。何のストレスも無く野田まで一直線。途中腹ごしらえにマックに立ち寄って、いつもの裏道を通り11時過ぎ自宅へ帰り着いた。
車の中でラジオを聴いていたら、都心部へ勤めに出ていた沢山の人は帰宅の足を奪われ、事務所に泊まったり相当の長距離を歩いたりで、酷い苦労をしている様子だった。それを思うと申し訳ないくらいEdはラッキーだったのだ^^!

自宅の被害は、カミサンの話では食器が数個壊れたくらいで特にないという。一階は食器棚もガラスケースの飾り棚も無傷、二階のEdの本箱の中身がぐしゃぐしゃに崩れ、テーブルや整理タンスの上に乗せておいたものが散乱していた程度だった。

翌朝、本箱を元通りに直してから家の周囲を調べてみた。土台も建物も破損は見当たらない。もしかしたら外壁には目立たないヒビ割れがあるかもしれないが、あれだけ大きく揺すられたのに、よく壊れなかったものである。
序でに近所を少し歩いてみた。団地入り口の水門付近、車道、歩道と車道の継ぎ目などに地割れが多数あった。大きな被害ではなかったけれど、地震による小さな傷跡はあちらこちらに見受けられた。今だに余震が収まらないし、中にはかなり大きなものもある。まだまだ油断がならない。








謙虚さ

2011年03月11日 | Weblog

                         

先日の新聞報道で東京メトロが試験的に二人分を占領し辛くした新しいデザインの座席を導入したそうである。写真ではあまりよく分からなかったけれど、隣りの席まで足を広げると腿が持ち上がって座り辛くなるように工夫してある。結果がよければ広く導入するとのこと、結構なことだ。

毎日JRを乗り継いで小林から南古谷まで通っていると、座席の座り方一つとっても近頃の日本人の身勝手な態度、マナーの悪さは目に余る。非力な年寄りがウッカリ文句でも言おうものなら、図体ばっかりデカクなった若い奴等に無視されるか殴られるのが関の山だから、黙って見てるしかないけれど・・・

視ていると7人掛けシートに5人とか6人で座っていて、混んできても隙間を空けたまま周りの状況を一顧だにしない無神経、もしくは図々しい人は老若男女を問わない。日本人の体格が一昔前より良くなったのは事実だけれど、お互いに譲り合う気があれば、少し窮屈だけれど7人掛けには7人座れる。その証拠に6人しか座っていない場合、狭くても無理に割り込んでしまえば、暫くするると不思議なことに窮屈でなくなってくる。余分な隙間が少しずつ詰まってきたせいである。

日本人全体に謙虚さが失われつつあるのではないだろうか。
きちんと間を詰めて座るとか、携帯操作に夢中になって他人に迷惑がかかってないかとか、組んだ足で前の人に土足で触れていないかとか、ほんの少しの他人に対する気遣いがあればもっと快適に生きられるのに・・・

家庭でも、学校でも「謙虚になる」ということの大切さを小さいうちからもっと教えるべきである。他人を押しのけて一歩でも他から先んじようという風潮が支配している現在、みんな立ち止まって反省しよう!

                        


いつものやつ、お願いします

2011年03月09日 | Weblog

                         

川越倉庫常駐の3人(TKさん、T自動車、Ed)が揃ってお昼を食べに行くところは、大抵「割烹・吉利(きり)」である。ここは”今日は何にしようか・・・」などとあれこれメニュー選びに迷う必要がない。黙って座ればその日の日替わりランチが出てくる仕組みだから楽である^^!
刺身、香の物、小鉢二つ、主惣菜(揚げ物、煮物、焼き物など日替わりで)それにご飯と味噌汁が付き、食後はコーヒーと甘味も付いて、たったの750円!安くて充実したランチなのである。

それでも人間というやつは真に勝手なもので、毎日同じ場所だと”飽きる”。・・・で、東京本社から誰か来ると「吉利」は止めてR16号沿いにある他の店に行く。

「たぐち家」うどん店は東京本社のSTさんが好みの店で結構頻繁に行く。麺は腰があって、汁はダシの効いた関西風、海老の天婦羅は見せ掛けでなく海老が大きい!何度も通っていると夫々注文する物が固定化されてきて、TKさんとEdはミニ天丼セット、T自動車は野菜天婦羅うどん、STさんは海老天婦羅うどん、といった具合にほぼ決まっている。

先日、やはりこの4人でたぐち家へ行ったとき注文をとりにきた店の人にSTさんが、
「あの~・・・いつものやつ、でわかりますか?(笑)」
店の人
「ハイ、分かると思います、・・・ミニ天丼セットの暖かいうどんで一つ、冷たいうどんで一つ、野菜天婦羅うどん、それに海老天婦羅うどん・・・で宜しかったですか?」
みんな
「ハイ、よく出来ました!(笑)それでお願いします」

流石商売人、沢山客がいるのによく憶えている。感心しました^^)

                             


観梅

2011年03月07日 | Weblog

                
                
                

先日そろそろ梅が見ごろかなと思い、ネットで調べてみた。鎌倉も青梅の吉野梅林も水戸の偕楽園も行ったことがあるし・・と思いながら眺めていたら田浦・梅の里というのが見付かった。週末に行くつもりでいたが都合がつかず6日(日曜)になってしまった。

6日は生憎天気がイマイチ、朝は薄曇りで午後から曇りそうだったから急遽予定変更して京王・百草園に。いつも高尾山へ行くルートで新宿から10時発の準急に乗った。聖跡桜ヶ丘で各駅に乗り換えて一駅、20分ほどで京王百草園着いた。駅を出てキョロキョロしていたら歩道際に「百草園」の看板があった。矢印に従って山側の道へ入る。かなりの急坂を登ること凡そ7、8分で百草園入り口到着。

入園料300円を払って正面の階段を上がると中腹から赤と白の満開の梅が出迎えてくれる。蝋梅もあったけれど、こちらはもう花が草臥れて萎れ加減。更に上へ行くと茅葺屋根の蕎麦処「松連庵」があり、前庭には紅い毛氈をかけた椅子とテーブルを置いた休憩所になっている。
喉が渇いたので、350円の梅饅頭とお茶のセットを頂いたが、これが頂けない!お茶は色だけで味のない出がらしの番茶みたい。饅頭も隣りのお土産物屋で売ってる既製品だった。損した!

更に上へ登ると多摩丘陵の尾根へ出る。林が切れた辺りの展望台からは薄靄の向こうに富士山が見えた。ラッキー!小じんまりした梅園だから、上から見下ろすのが一番きれいだ。

説明書きによると、百草園の機縁は江戸時代(享保年間)、小田原城主大久保候の室であった受昌院慈岳元長尼が徳川家康の長男・信康追悼のため、廃寺だった松連寺を再建したことにより、その後時代を経て造られた日本庭園が百草園となった・・・とか。こんな丘陵のテッペンに・・・と思ったが住所を見たら日野市だった^^!

ぐるり一巡りしてもとの「松連庵」に戻ったら11時半だったので早お昼に蓬(よもぎ)蕎麦を食した。腹ごなしにもう一巡り庭園を歩いて戻ったら、大正琴の演奏が始まり休憩所は人で埋まり腰掛ける場所がなくなった。
酒と焼き鳥を買って少し離れたベンチを見つけて座った。酒とポカポカ陽気のせいでスッカリ眠くなる。日本は平和だなあ・・・と感謝しつつも、政局の混乱と平和ボケで日本は大丈夫か?と要らぬ心配。

時計を見たら未だ1時過ぎ。折角出てきたのだから、と帰り道に新宿御苑をハシゴして行くことにした。御苑の梅の木はあまり多くない。けれども芝生は家族連れの格好の休憩所で、大勢の人で賑わっていた。今日はよく食べよく歩いた。腰が痛いw・・・

                
                
                


氷と梅

2011年03月06日 | Weblog





昨日の朝は凍えた、田圃の水溜りはパリパリに凍って曇りガラスのように白っぽくなって模様をつくっていた。子供のころはいつもこんな風だったと思いながら畦道にしゃがんでよく観ると霜柱が3cmほどに育っていた。昔はアスファルト舗装なんて表通りにしかなかったから、下駄で霜柱を踏んで歩いた。観ているとサクサクとした懐かしい足裏の感触がよみがえる。子供のころの記憶は体感として残っていてフトした弾みでよみがえってきて懐かしい。

昼間はポカポカと春の陽気になって外気が気持ちよい。わが家の庭は土が悪く、あまり施肥や手入れをしないせいもあってか植木がよく育たない。3年ほど前に植えた枝垂れ梅も、葉ばかりよく茂って一向に花は咲かせなかったけれど、今年はたくさん蕾をもってチラホラ咲き始めた。まだ寒の戻りもあるけれど3月である。確実に花の季節へ近づいている。




感染症

2011年03月03日 | Weblog

                

飼い猫の「もも」が先々週頃からしきりにクシャミをする。風邪でも引いたかな・・・(猫も風邪ひくのか?)と思いながらも大して気にもしていなかった。朝は早起きのEdに纏わりついて離れないからある日フト気付いてしまったのだけれど、右の目に涙が溜まっている。ティッシュで拭き取ってもまた直ぐ出てくる。

アバウトなEdは、まぁそのうち治るだろうと簡単に考えていたが、カミサンが心配して隣りの動物病院へ連れて行った。診断の結果は「感染症」・・・何、それ?!
人間様の病院ではよく騒がれている言葉の一つのような気もする。Webで調べたらやはり直接接触やクシャミなどの飛沫で感染するウィルス性のイロイロな病気のことらしい。総称だから結局何だかよく分からないけれど、医者も目薬だけくれて「外に出さないようにしていれば、そのうち良くなります」とのことだった由。「まあ、行っても行かなくってもよかったんじゃないの・・・」と内心思ったけれどカミサンはそれで一安心したらしい^^!

さて猫に目薬・・・というのが案外厄介で、押さえつけておかないと目薬を注した瞬間、ビクッとして逃げたり爪を立てたりするから一人でやると片方しか注せない。Edが抱いて押さえている間にカミサンが目蓋を強制的に開いて1、2滴いれてやる。終わると猫は迷惑そうな顔をして頭をぶるぶるっと振って逃げてゆく。ま、猫も嫌でしょうが、人間だって面倒なんですっ!

                


明けの明星

2011年03月01日 | Weblog

                         

ウィークデイの朝のウォーキングは季節を問わず大体4時半から30分ほど。ルートは裏道と田圃道だけなのだけれどこの時間冬はまだ暗い。たまに通る新聞配達のバイクと車は、まさか歩いている人が居るとは思わないで走ってくるからこっちが気をつけているけれど、それ以外行き交う人は一人もいない^^!

暗闇と「お化け」が怖かったのはこどもの頃で、小心だから小学生のとき友達の家へ遊びにいくのに通る墓地裏側の道は何となく気味がわるかった。当時は人家が少なくて寂しかったせいもある。大人になってからは流石に「お化け」を怖がることはなくなったけれど、小心は持って生まれた性質だから、真暗闇というのは別な意味で今でも独りのときは緊張する。

ジョギングをしていて一度だけドキッとさせられたことがあった。真っ暗だったから今と似たような季節だったと思う。所々ポツンと離れて設置してある薄暗い街灯だけが頼りの田圃道だから先の方はよく見えない。誰もいないと思って無心に走っていたら、突然街灯の向こうに人の姿が!ヨレヨレの野良着を着て髪を振り乱した白髪の老婆が立っている。ギョッとして一瞬立ち止まりそうになったけれど、近くまで行くとキャスター付きの買い物かご様のものを脇に置いて一休みしている様子。こんなに朝早く・・・徘徊老人だろうか、と思いながら通り過ぎた。(苦笑)

晴れていると東南の空低い位置に明けの明星が一際明るく輝いて見える。金星なのだそうだ。地球の内側にあって太陽の周りを回る、地球に最も近い星だから離角が47度で明け方と夕方しか見えないという理屈らしい。月に次いで明るい星だと云われればナルホド確かにそう見える。

つい2、3週間前まではウールの耳当て、二枚重ねの手袋、ウィンド・ブレーカーの下に毛糸のチョッキ・・と重装備だった。それでも手先は痛くなってくるし風のある日は襟首が寒かった。今はもうルート半ばで薄っすらと汗をかくので途中から耳当ても手袋も外す。木の芽や水仙の花を見なくても春の訪れは体感できる。