Ed's Slow Life

人生終盤のゆっくり生活をあれやこれやを書き連ねていきます。

生きる

2011年07月31日 | Weblog

            

NHK・BSでヒューマン・ドキュメント「ある少女の選択・・・”いのち”」という番組を観た。田島華子さん(18歳)の最期の2年間を追った「いのち」の記録である。

華ちゃんは重い心臓病を持って生まれた女の子で、7歳の時多くの人達の善意に助けられてドイツで心臓の移植手術を受けた。手術は成功し、彼女は一命をとりとめたが担当の医者から「10年生きることを目指そう」と云われる。帰国後彼女は主治医と相談の上、人工呼吸器を使って自宅療養する道を選んだ。華ちゃんは不自由な体も苦にせず、明るく家族3人で普通の生活が出来ることを喜び、そのことを大切にした。

心臓移植から10年、17歳になった華ちゃんはあるとき心理学の野口先生と知り合い、心を通わせるようになる。野口先生は自分の一人娘陽子さんをやはり7歳のとき呼吸器の難病で亡くしており、華ちゃんが自分の娘と重ね合わさって見えたのかもしれない。

            

華ちゃんは自分の親にも相談できないような心のうちを野口先生にだけは素直に全てさらけ出すことができた。去年3月自宅で高校の卒業式をしてみんなに祝ってもらった。野口先生には「ドイツ人の子の心臓をもらい、生きることに責任感みたいな感じもある。10年経って私はこれから丁寧に生きることを目指す」とメールで書き送った。

5月、手足にむくみが出た。診断の結果腎不全と判り、主治医から人工透析が必要だと宣告される。しかし華ちゃんはどうしても透析をしないと拒み続ける。悲しむ両親。7月末華ちゃんは大好きな海が見えるところへ両親と一泊の旅に出た。そこで海の青、木々の緑、潮の香り、湿った空気、優しい人の匂い、など等全てのことが感性の鋭くなった彼女の心に残った。

            

父親は主治医を交えて華ちゃんに人工透析をさせようと最期の説得を試みるが、父親の気持ちを理解しながらも自分の意思を曲げることはなかった。「私はもっと生きたい。だけど自分らしく生きたい」と。

8月末肺炎にかかり、9月14日両親の腕の中で華ちゃんは静かに息を引き取った。いのちは長さではない、どう生きるかだと思う・・・という言葉を残して。

                   

               * * * * * * * *

重い課題ですが、やがて誰にもその時がやってくるという意味で、とても考えさせられました。


笑って生きる知恵

2011年07月27日 | Weblog

                       

エリコ・ロウ(Eriko Rowe)の「アメリカ・インディアン笑って生きる知恵」を読んだ。いずれの世界に於いても、その土地に元々住んでいた土着の民族は他所からやってきた強大な武力をもつ他民族に祖先伝来の土地を奪われ、殺され固有の伝統文化を破壊されるといった歴史を多かれ少なかれもっている。

北米も例外ではなく、ヨーロッパからやってきた白人がアメリカ・インディアンの全ての土地を奪い取って強大なアメリカ合衆国をつくり、今尚インディアンたちを不毛の砂漠地帯に押し込めて過酷な生活を強いている。

この本は、土着のアメリカ・インディアンを文化レベルの低い野蛮人として扱ってきた白人の驕りを喝破し、物質的豊かさだけのために汲々として人間としての魂を失っている白人のほうが実は野蛮人であって、自然を敬い大地を傷つけない、地球に優しい生き方を過去1000年に亘って守ってきたインディアンは素晴らしい伝統文化を持つ民族だということを伝えている。

著者は数年間に亘ってインディアン居住地を訪ねて彼等の生活、考え方、価値観をつぶさに調べ、過去500年の間迫害と逆境を乗り越えて生きてきた民族の逞しさ、したたかさを実感してきたそうである。
人口の9割を失い、不毛の僻地で貧困のどん底に追いやられ、伝統文化も信仰も奪われた人々にとって唯一残された「笑い」が精神の拠り所となってようやく生き残れた、というのが彼女の得た結論だ。

歴史的に酷い迫害を受けてきた民族はアメリカ・インディアンに限らないけれど、彼等にとって一つだけ幸運だったのは、彼等の社会に笑いを尊重し、笑いで心を通わせることを神聖な行為とみなす習慣があったことだという。

本書の前書きに象徴的な彼等のジョークが載っていた。

               *  *  *  *  *  *  *
米航空宇宙局(NASA)が生命探査プロジェクトの一環として世界中の言語で異星人に友好のメッセージを送ることにした。ナバホ語の挨拶も収録したいと、NASAがわざわざアリゾナの北部に住むナバホ族の長老のところにもやってきたので、長老は快諾、挨拶の言葉を述べた。世界の民族からの挨拶を収録したCDは宇宙船に載せて打ち上げられた。宇宙に向けた人類からのメッセージは地球にもCNNでライブ中継された。それを聞いてアリゾナの北部から爆笑のどよめきが起こった。

「お~い、宇宙人、このメッセージが聞えたら、返事はせずに、いないふりをしろよー。白人に居所を知らせようものなら、呼びもしないのに食事にやってきて、そのまま居つかれてしまうぞ」

と長老は宇宙人に挨拶していたのだ・・・(笑)

                   


カラクリ

2011年07月24日 | Weblog

一昨日中部大学の武田邦彦先生が投稿されたブログ記事に目をむいた!
(下にその全文をコピーさせてもらった)

日本には江戸時代から優れたカラクリ人形の匠の技があって、フツーの人には人形がどうやってそんな複雑微妙な動きをするのか、唯ただ驚き感心するのみである。

カラクリ人形は観て楽しむものだから匠の技大いに結構であるが、こんな業界・政界のカラクリには別の意味でビックリ、ウンザリである。

Edは「困った!」を通り越して怒り心頭である。これでは国民がいくら脱原発を訴えたところで、自民党と電力業界がグルになってマスゴミを牛耳り、反・脱原発に金を使っている限り、実現するわけがない。

我々は今こそ目を覚まさなければならない・・・
まだ眠ってるお隣さんがいたら、カナヅチで頭小突いてやってね!



                    困った!


自民党の議員への個人献金の実に72%が電力会社役員かOBから提供され、一議員への献金額は平均して実に4700万円というニュースが流れました。

72%?!

 

そうか! 困った!

 

どうも自民党の原発の安全性追求の動きが鈍かった。自民党の政策として、全体として原発に賛成なのは一応、理解できるが、それでも東電の追求、再開に当たっての安全性の確保、福島の人の救済、農業や漁業の人の補償など、どうしてこんなに野党なのに動きが鈍いのか?と思っていたが、そうか!

 

・・・・・・

 

自民党の議員を約300名としよう。選挙の状態で上下するけれど、そのぐらいとしてカラクリを計算してみたいと思う。

 

人数300名×献金4700万円=141億円

 

これに対して、原発に出されている税金は、4500億円。

 

つまり、141億円を議員に出すと、4500億円の税金が原発に投入され、原発の収益がぐんと上がる。

 

投資額に対するもうけは、実に32倍に上る。

 

・・・・・・
 

この141億円は「個人献金」と言うけれど、役員や役員OBをぜんぶ足して100人としても、一人14000万円近くの献金をしている。

 

これはすべて「私たちの電気代」から支払われているものだこんなことをしているから、日本の電気代は世界トップレベル、電力会社は威張っていて、事故を連発する

 

これ以外に、学者に払っている研究費、テレビや新聞の広告代・・・など「日本丸抱え経費」はいったいいくらになるのだろう?

 

・・・・・・

 

困った!

 

民主党政権には辟易しているのだが、民主党がダメで自民党に入れる訳にはいかない。選挙が来て欲しくない!

 

実に変な社会になったものだ。

 

(平成23723日 午前11時 執筆)


房総風土記の丘

2011年07月24日 | Weblog

車で10分ほどの近くに千葉県立房総風土記の丘ある。云わば緑の中の公園である。

H16年に「風土記の丘」という呼称は、敷地の一角に江戸時代の街並みを再現した「房総のむら」に統一・変更されたそうである。何だかよく分らないけれど、「房総のむら」は時代劇の撮影などによく利用されているから、多分”興行収入”の多い方の名前が優先されたのだろう。所在地の住民からすれば昔からの「風土記の丘」の方が馴染みがあるし場所に相応しいと思うのだが、県議会は味も素っ気もない「房総のむら」にしてしまった。

ま、それはともかく32haの里山は豊かな森林に囲まれ夏は涼しい緑陰を提供してくれる。入り口を入って直ぐのところに栄町が運営する野菜や地元産品の直売所とレストランがあり、休みの日には涼を求める人で結構賑わっている。振り替え休日だった金曜22日、トマトを仕入れに久しぶりに立ち寄ってみた。やはりスーパーよりは新鮮だしいくらか安価である。

序でに隣りのレストランに入り、テラスでコーヒーを飲みながら一服した。大きな樹が沢山あるところは気持ちが和む。我が家に犬がいた頃は四季折々ここへ散歩に連れてきた。メイ(犬)は大喜びで広い草原を駆け回ったものだ。冬になると遊歩道は落葉が厚く降り積もって、小さな(シーズー)犬は落葉に埋もれるようにして散歩した。

森の緑は我等の生活に欠くことの出来ないオアシスである。この財産はいつまでも大切に守っていかなくては・・・

            
                    
            
            


バリカン

2011年07月23日 | Weblog

                

Edが床屋に行かなくなって久しい、というより行っていたのは32、3迄で以降床屋には殆んどお世話になっていない。カミサンからは「床屋殺し」とかからかわれていた。何しろ若くして髪が薄くなってしまい、床屋さんだってカットのし甲斐がないだろうし、本人だってフツーの人の半分もないのに同じ料金を払うのだから面白くない。

あるとき新聞の家庭欄に髪を家庭でカットする際に使うレザー・カッターなるものが紹介されていた。早速購入して試してみたら結構簡単に整髪できる。最初のうちは後頭部だけはカミサンに助けてもらったが慣れるにしたがって独りで出来るようになった。これが出来るようになってからは、海外出張の多かったEdにはとても好都合で、且つ経済的だった^^)

その後髪の後退はますます進行し(涙)、55でリターン・ライダーになってからというものヘルメットを脱ぐ度ぺしゃんこになった情けない髪に嫌気がさしてある日決心した。ヨシッ!潔く丸坊主にしよう!
それまでカミサンは「バーコード」だの「ぶっ壊れスダレ」だの散々悪口言って笑っていたくせに、イザ坊主頭になったら”キモチ悪い~”と当初は非難ごうごうだった。
が、慣れというのは恐ろしい。数ヶ月経つと全然文句を言わなくなった。

坊主頭も最初の数ヶ月間は床屋さんの世話になった。・・・が、これまでの習性から1000円払うのが馬鹿らしくなった。電気店へ行ったらバリカンは3、4000で円売っていた。以来またセルフ・カットで坊主頭だ。(笑)

先日14年間使った初代Braunのバリカンが壊れた。モーターは回っているのだが歯が動かない。カッター駆動部分を開いてみたらプラスチックのクランク機構が磨耗してしまっているらしい。仕方なくY電気でバリカンを買い換えた。パナソニック製3750円也!もう死ぬまで大丈夫だろう・・・多分^^!

                  


台風6号

2011年07月20日 | Weblog

昨日(19日)は大型台風6号の接近で、まだ中心が九州付近にあった朝から関東も荒れ模様で、突然激しい雨が風を伴って降ってきたりする。仕方なくショルダー・バッグに雨合羽の下(パンツ)を詰め込み、折り畳みは止めて大きい傘を持って出かけた。

武蔵浦和のホームで川越行きの電車を待つ間も時折激しい雨が降ってきて、先頭に並んでいても中央付近まで後ずさりさせられる。いつも乗る55分発の電車は遅れている上に、暫くしたら「本日に限り、大宮止まりになります」というアナウンス。チェッ!こんな日に限って・・・

更に17分待たなければ・・・と思いつつ、フと見上げれば目の前のクレーン「さくら」は激しい雨の中でも作業している。鳶職も大変だ。「さくら」が建てているビルは略鉄骨が組みあがり、残すところ最上階の一部だけのようだ。その隣りにはもう一基クレーンが立ち上がった。「さくらそう」という名前だ。まだ背が低いままから基礎部分でもやっているのだろう。

 

ようやく電車が来たけれど混んでいて座れない。大宮でどっと降りたのでホッとしたのも束の間、また沢山乗り込んできたので同じこと。蒸し暑くて参る。

南古谷で改札を出る前にベンチに座って雨合羽のパンツを履いた。風は強くないけれどかなり強い雨。道路も所々大きな水溜りが出来ていて車が特大のシブキを上げるから注意して歩く。着いたら膝から下がグッショリ濡れていた。面倒だし格好は悪いけれど雨合羽は正解だった^^!

                


なでしこJapan、快挙

2011年07月18日 | Weblog



休日につき、今朝は5時半ごろ寝ぼけまなこでTVのS/Wを入れ、コパアメリカ・サッカー選手権のブラジル・パラグァイ戦を暫く観ていた。ニュースの時間になり、女子ワールドカップでなでしこJapanが1-1で延長戦入った事を伝えている。

正直、決勝進出を果たしたものの強敵アメリカには勝てないだろうと思って昨晩は早めに寝てしまった。急いでチャンネルをBS1に切り替えたら延長戦でもまたアメリカに2-1と引き離されてしまった。ところがその直ぐ後、宮間のコーナーキックに澤が頭で合わせて同点ゴール。ものすごい粘りだ!そしてその後もアメリカの猛攻を凌いでついにPK戦に持ち込んでしまった。

こうなると最初攻勢だったアメリカは、どこまでも喰らいついてくる日本に不安を感じ始めたようで、PK戦を控えた待ち時間での選手たちの表情がなでしことは対照的で、明らかに緊張で皆顔がこわばっていた。反対に「なでしこ」は、”ついにここまで来た”という達成感からか全員笑顔だった。


ああ、無念!

案の定、先行したアメリカは「なでしこ」GKの好セーブもあって最初から3人連続して失敗、この時点でEdは勝負あったと思った。4人目はアメリカもゴールしたが、日本も熊谷紗希が落ち着いて左上コーナーに決めて5人目を待たずに優勝が決まった。

予選リーグでは最後イギリスに負けて2位で決勝リーグへ進出した日本だったけれど、その後が素晴らしかった。勝ったことがないドイツを破り、スウェーデンを下し、破竹の勢いで決勝に進んできた。

とはいえ、Edにはまだ何処か信じられない気がして、昨日までは”優勝は無理だろう・・・”と醒めた目でみていたのだが、予想は完全に覆された。「何処までも諦めない」強い気持ちが今回の「なでしこJapan」の快挙につながった。
なでしこ(日本女子)バンザイ!


決める、絶対に・・・


祈る・・・


やった!


はじける!


猛暑連日

2011年07月17日 | Weblog

休日シフトで土日が出勤日になってから3回目、連日の猛暑続きで駅まで歩くが朝からかったるい。Edの住んでいるところは田圃の中の住宅団地だから、駅までの道には殆んど日陰がない。おまけに駅のホームは屋根なしのオープンときているから、電車が来るまでの数分間夏の陽にジリジリ焼かれる。

          

今朝は流石に日曜の早朝だしこの暑さでは出歩く人も少ないと見え、ホームに人はまばらで田舎の駅が余計に寂しい。線路の反対側、下りのホームは東半分が震災で20~30cm地盤沈下したため、嵩上げ工事中である。成田線は田圃の中を走る純ローカル線だから仕方ないけれど、ダイヤが正常に戻るまで3ヶ月もかかった。

          

扇子で頭に日陰を作って待つうちようやく電車がやってきた。やや高めの設定温度とはいえエアコンの効いた車内は涼しくてホッとする。転寝しつつ電車を乗り継ぎ、乗り継ぎしてようやく最期の川越線に乗り、電車が荒川の鉄橋を渡ると・・・またまた田圃の中だ!下車駅の南古谷から勤務先までは再び日陰が殆んどない道を10分余り歩く。猛暑の夏は駅までの歩きが楽じゃない。

この猛暑まだ始まったばかり。当分の間Edは駅と自宅、駅と勤め先の間を毎日朦朧として歩かねばならない。やれやれ・・・


万年筆

2011年07月16日 | Weblog

               

筆記用具にペン、いわゆる万年筆(化石用語?)を使う人は一般人なら今時稀であろう。やはり主流は手軽で安価なボール・ペンである。ボール・ペンというのは、しかしEdからすれば実用一点張りで、書かれた字に趣があまり感じられない。

以前(かなり若かった頃)一寸無理してモンブランの万年筆を買った。キャップのてっぺんにあの白い金平糖のようなトレードマークがあるやつである。当時はまだ現在のようなカートリッジ式ではなく、ゴムのスポイド式だった。インクの持ちが悪いし、使わないでいるとインクがこぼれてキャップの中に溜まったりした。ペン先が日本語向きでなかったせいなのかどうか知らないが、時々引っかかったりして余り書き良くなかった。

その後、国産のものに代えたが時代はボール・ペンに変わり、いつの間にかペン(万年筆)は使わなくなった。

2年ほど前知人から「気楽に使えるから・・・」とペリカン万年筆を頂いた。珍しさと懐かしさで使ってみたら、これがとても書きやすい。カミサンと一本づつ頂いたのだが、弱点はキャップの強度不足で直ぐ割れが入ってしまう。結局2本ともEdが気に入って使うことになってしまった。

インクの換え(カートリッジ)が必要になり近くのHCへ行った。前回は見当たらなかったのだけれど、今回本体も1500円余りで売っていた。使用中のものもキャップが割れているので(セロテープで補修してある^^)序でに一本購入した。手紙とか他人に渡すメモなど書く時に使っている。昔の”道具”もなかなか捨てがたい・・・

           


もも、逝く

2011年07月12日 | Weblog

昨日(7月11日)ついに「もも」は力尽きて息をひきとった。僅か5年あまりの短い命だった。

具合が悪くなってから凡そ5ヶ月、当初はどの病院(3箇所)でも感染症(ネコ風邪)という診断だったから、注射と薬で治ると信じて、缶詰のペースト・フードを無理矢理食べさせていたが、最後の一週間は食べ物を一切受け付けなくなった。最終的にがん(癌)と判ってからは医者も打つ手がなく、悔しいけれど我々は唯看ていてやるしかなかった。

「もも」は今、”先輩”のシーズー犬「メイ」が眠っている隣で永の眠りに就いた。さようなら「もも」







セカンド・バッグ

2011年07月11日 | Weblog

仕事であれ遊びであれ、Edは出掛けるときはいつもセカンド・バッグ(・・・でいいのだろうか?)を持ち歩いている。中身は携帯、財布、小銭入れ、ペン、ルーペ、印鑑、ティッシュ、ハンカチ、薬、単行本など身の回りの小物全部^^! 

天気が悪いときは更に折りたたみ傘も加わるから、結構なボリュームと重さになる。もう少し容量に余裕のあるショルダー・バッグもあるけれど、嵩張るのが嫌いなので殆んど使わない。コンパクトに小さく纏めておけば手軽に持ち運び出来て便利だから、無精者のEdには都合がよいのだ。

    

一代目は皮製でLHWが270x160x70(mm)、とても使い易くて角が擦り切れるほど愛用していたのだけれど、チャックの口金に付いているタブが壊れてしまいオシャカになった。

    

二代目は同じブランド(Burberry)だけれど皮でなくてツルツルした新素材(科学繊維)。サイズは厚み(W)がやや増しただけで前のものと略同等だけれど、どうも科学繊維は皮のようにシットリした感触がなく、滑って持ちづらい。我慢して使っていたのだが、先日ストラップが根元からとれてしまった。どうやら縫い付けてある部分の糸が切れてしまったようだ。何でも収納してしまうから重量オーバーだったんだろうか・・・

近所のバッグ修理店にもって行ったところ修理には暫定見積もりで5000円位かかるとのこと。壊れたバッグを預けて正式見積もりをお願いした。

・・・というわけで、一度オシャカになった一代目をまた押入れから引っ張り出した。慌てて捨てなくて良かった^^!


扇子

2011年07月10日 | Weblog

                   

いよいよ毎日暑くなってきた!
以前使っていた扇子を紛失してしまったので新調しようと近くのショッピング・センターへ行ってみた。しかし最近は扇子の需要が少ないのか品揃えが極めて少ない。気にいったものがなくて買わなかったのだけれど、無ければ困る。
間に合わせでもいいや・・・と思って験しに100均へ入ったら、これが有るんです!100円の扇子。最近は紙製は高級品らしく布張り。
ま、いいっかと一つ買ったけれど、やはり安いだけのことはあって、スムーズに閉じられない。一度使ったきりで放ったらかしに・・・^^!

木金の休みを利用して8日(平日)松戸・伊勢丹へ。道路も駐車場も店内も空いていて頗る具合がよい。紳士小物売り場へ行ったら、流石に品物が豊富。ただ紙製は5000~8000円もするのでケチって3000円の布張りで我慢。代金を払おうとしたらカミサンがカードで買ってくれた。そうだった、ここでの買い物はいつも7%」割引のIカードだったっけ。(失敗、5000円のにすればよかった!)

布張りはやはり重くて、畳むとき紙のように滑らかにいかない。仕方なく使ってはいるけど選択を誤ったな
・・・(泣)

            


生命保険

2011年07月09日 | Weblog

                  

若いころは積み立て式の生命保険に入っていたが、都合があって途中で解約したらそれまでに積み立てた額に対して払い戻された金額が余りにも少なかったので、以来生協の掛け捨て型に切り替えた。
お陰でこれまで保険のお世話になるような大病にかかったこともなく、未だ生きて老醜を晒しているわけだけれど、定年後は熟年型と称して10年ごとにランクが下がってくる。当然である。
・・・が、しかし先日送ってきたパンフレットを見て自分の命の値段が来年から半分になると知って、「あからさまだなあ・・」と可笑しくなった。

一口月々2000円で、60代では病気死亡の場合100万円だが、70代になると50万円に下がる。50万円では葬式代の足しにしかならないが、割戻し金があるから年間支払う額は20000円ほど。
更に、80代では30万円に下がる。もし後10年以上生きてしまうと計40万円以上払って30万円しかもらえない・・・つまり損益分疑点は80歳ということか。(笑)

                    

嘘か真か定かではないが、「生命保険はかけるな!」というのが死んだ親父の遺言だったとかで、Edは生命保険は辞めてしまったけれど、大手生保とは生命保険の代わりに定年前の10年間だけ個人年金の積み立て契約をした。積み立てている間は半信半疑だったのだけれど、今になってみると、これが公的年金の不足分を少しだけれど補ってくれ、大いに助かっている^^!

若い頃に老後の生活設計をシッカリやっておけばよかったのだが、若いときは有れば有るように使ってしまうキリギリスの生活を続けてきたから、Edは今になって年金生活の厳しさにうろたえている。後悔先に立たず・・・だな!

       


会話

2011年07月06日 | Weblog

この夏は北海道へ我々ジジ・ババが訪ねていくか孫たちを千葉へ呼び寄せるかする積もりでいたのだけれど、原発事故による放射能の問題と飼い猫「もも」の病気で、いずれも中止せざるを得なくなった。

           

暫く(2年間も!)逢っていない間に、孫たちはどんどん成長しているようで、今年3歳になった末のYukiまで電話に出てくるようになった。
GにはYukiが何を喋っているのかサッパリ解らないのだけれど^^!さすが女の子、Gが相槌をうっていればいつまでも喋り続けている(笑)。

           

真ん中のRintaは5歳、今年幼稚園の年少組に入ったからGともシッカリ会話が成り立つようになった。前回訪ねたとき彼は3歳、Gの飲んでいたビールを欲しがって、ババがグラスに注いだら調子にのっていくらでも飲む。
Gが「もうダメ!」と言ってグラスを取り上げたら、恨めしそうな顔をして睨んでいたが、そのうち「うゎ~ん!」と大声で泣き出した。その時のRintaの、下からGを睨みつけている顔がいつまでも忘れられず、今でもカミサンとの笑い種になっている。

「Rinta!来年はGとバがそっちへ遊びに行くから、Gと一緒にビールで乾杯しような!」
「ウン!・・・しよう!」
(あいつ、飲ませればホントに飲むから最初からグラス半分!って断っておかないと・・・^^!)

                 

一番上のTakはもう6年生だから、お父さん(息子)ともあまり口を利かなくなったそうで、Gの電話にも出たがらない。Takもだんだん大人になってきたのだ。サッカーが大好きで、小柄なのに今は小学チームのキャプテンになったそうだ。前回逢ったときカミサンが「Takはいづれ、ベッカムや中田選手のようになるんだよね^^!」と水をむけたら、やおらして「・・・それはないな!」というユニークな答えが返ってきた。

子供ながら、シッカリわきまえているのだった(笑)

                   ☆写真は全て2008年撮影


学校教育

2011年07月05日 | Weblog

                    

Edが小学生の頃は戦後まもなくだったから学校は新しいアメリカ式の6・3・3制が導入され、田舎でも小学1年生は教育勅語も戦前の旧い教科書も一切知らない。というわけで、その頃Edにとって、学校イコール遊びに行く所だったから毎日楽しくてしようがなかった。

担任は加留部先生という中年の男の先生だった。特別親しみがあったというわけでもないけれど、下宿先がEdの家の裏(北側)100mほど先だったから友達と遊びにいったこともある。校長先生は上背のあるガッシリした体躯のお年寄り(?・・に思えた)で、温厚な優しい人だった。たしか大串先生という名前だった。何故憶えているかというと、あるとき皆で教室の床を雑巾掛け掃除していたら、突然頭の上で「ああ、君、エライなあ!」という声がした。ビックリして見上げたら、校長先生がいてEdを見下ろしている。Edが拭き残しのないように床の隅まできちんと雑巾をかけているのを見ていたらしい。些細なことを褒められて、その時はただ恥ずかしいだけだったのだけれど、いつまでも憶えている。(笑)

音楽の先生は痩せて背の高い、いかにも神経質そうなコワイ男の先生だった。いつもピリピリして大きな声で怒鳴り、チョークを投げつけたりする。Edはおたまじゃくしが読めないし、一人づつ前に出てピアノの前で歌わされる練習は大嫌いだった。音楽の試験では変な記号の呼び方やその意味とか、作曲家の名前や曲目などがばっかりで、”音楽”というものに何の興味も湧かなかった。今でも時々思うのだけれど、本来楽しいハズの音楽が何故好きにならなかったのだろう。小さいころのトラウマかも・・・

音楽は嫌いだったけれど、図画・工作は大好きだった。別に先生の影響があったわけではなく、独りのときは、絵を描いたり木を削って自動車や飛行機の模型を作って遊んでいたから自然と好きになっただけ。
他の勉強はあまり出来なかったけれど、図工だけは良く褒められた。”豚もおだてりゃ木に登る”、一寸褒められると人間ますます一生懸命やる。その後中学、高校へ進んでも”図画・工作”から離れることは無かった。残念ながらそれで身を立てるほどの才能は持ち合わせていなかったけれど・・・(笑)

長じて、あれほど嫌いだった音楽はカラオケで楽しむこととなり、何が面白いのだろうか・・・と無視していた歴史は、時代小説を読みながらいつしか(朧気に)憶え、好きだった絵は(今は中断したまま)いづれまた・・・などと思っているだけ。おかしなものである。
幼い頃自分の将来を決定付けるような強烈なインパクトを受けたことが無かったせいだろうか、それとも生まれついてノホホンとした性格だったせいだろうか、兎に角鳴かず飛ばずの平々凡々な人生だったが・・・

(これでいいのだ・・・バ~カ、ボンボン♪)