Ed's Slow Life

人生終盤のゆっくり生活をあれやこれやを書き連ねていきます。

2011年01月26日 | Weblog

                        

風呂に入るまえ鏡に映した己の顔と体を見てつくづく年とったなあ・・・と思う。父親はEdが小学4年生のころ55歳で他界してしまったのだから、今の自分のほうが遥かに年寄りなワケだ。母は74まで生きたけれど、その年齢にさえ後いくらもなく追いついてしまう。

”貧乏人の子沢山”の家庭に生まれ、下から二番目だったEdには「父親」の思い出が殆んどない。あるのは亡くなる前布団に横たわっていた痩せた父と元気だったころ怒って暴力をふるっていた恐い父の姿くらいで、言葉を交わしたこともなかった。

父が早くに逝ってしまったせいで、上の兄弟が下の弟妹の面倒をみる破目になったから経済的には父親の役目をしてくれた。とは言え、いくら年が離れた兄弟でも所詮は親の代わりには成り得ず、さりとて末の弟とEdはいつまで経っても子供扱いだったから、貧しいながら母にはそれなりに甘やかされて育ったような気がする。

大人になってからフト気がついたら、親・兄弟の過去がどのようなものだったのか、つまりEdが生まれる以前のことを何一つ知らない。知っていたのは終戦後の極貧生活から少しづつ少しづつ脱却に向けて懸命に働き続けてきた兄たちの健気な姿と、切り詰めた生活を必死で守っている母の姿を、子供の目で見てきたことくらいだ。

Edが中学生になったころ母は時々「兄たちに感謝しなさいよ」と末の弟とEdを前に諭すように言っていた。つまり上の兄弟の犠牲的働きで下の兄弟は飢えたり凍えたりせずに生きてこられたのだ・・という意味あいを観念的には理解したから黙って聞いてはいたけれど、ならば具体的にどうすればよいのかが分からず心の中ではとまどっていた。

母はとにかく倹約に倹約を重ねる生活でムダを一切しない人だった。末弟二人も全て皆独り立ちするようになってから、ある時皆で母に各自毎月一定額のお小遣いを送ることに決め。何年かしてEdがマンションを購入することになったとき、母は使わずに貯めておいた私からのお小遣いをそっくりそのまま、「皆には内緒だよ・・」と言いながら渡してくれた。「大丈夫だから・・」といって返そうとしたがガンとして受け取らず、足しにしてくれという。母の気持のなかでは末の二人はいつまで経ってもまだ心配な”子供”なのだと思った。

晩年、母は糖尿を患って長く闘病生活をしていたが、最後は老人病棟に入れられて独り寂しく亡くなってしまった。せめて最後は自宅に引き取って看取ってやればよかったのに、上の兄たちへの気兼ねからそれも出来ず、何と頼りない薄情な息子だろうかと自責の念に駆られたが後のまつり・・・

グダグダとそんな昔のことを思い出しているとき、ほぼ日刊イトイ新聞の大人の小論文教室というコラムで山田ズーニー先生が書かれた
「おかんのお年玉」を読んで、『居薬』という新しい言葉を知った。Edは母の最後を看取ってやれなかった薄情な息子の一人だったけれど、母が入院してからも車を持っていたから他の兄弟たちよりは頻繁に母のところを(自分の子供=孫を連れて)訪ねていた。入院が長引くに従って次第に表情がなくなってきた母も、その時だけは少し元気を取り戻したような顔になっていたのは、僅かながらも「居薬」になっていたのだろうか・・・