現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

庄野潤三「イタリア風」プールサイド小景・静物所収

2020-04-30 16:56:09 | ツイッター
 1958年12月号の文學界に掲載され、1960年に中短編集「静物」に収録された短編です。
 作者の作品群の中では、「ガンビア滞在記」に代表されるアメリカ滞在中の見聞に基づいた作品の一つですが、一人称で書かれている他の作品と違って、三人称で書かれています。
 そういった意味では、この時期作者の初期の代表作である「静物」の準備段階だったので、実験的にアメリカ滞在記にもこの人称が採用されたものと思われます。
 しかし、三人称と言っても、いわゆる「神の視点」ではなく、限りなく一人称に近い三人称です。
 書き手がこのような三人称を用いるときには、大きく分けて二つの理由があります。
 ひとつは、主人公のいないシーンを書くためであり、実際に小説を書いた経験がある方ならすぐにおわかりになると思いますが、一人称よりこちらの方が書きやすいのです。
 もうひとつは、対象を客体化して書きたい場合です。
 その場合は、主人公の主観と並行して、それ以外の対象を客観的に描きたい時に便利です。
 この作品の場合は、主人公のいないシーンはないので、明らかに後者の理由で採用されたと思われます。
 招待されたニューヨーク郊外のイタリア系アメリカ人家庭(老夫婦、数年前に主人公と日本で知り合った長男(その時は新婚だったが、すでに妻とは別居していて離婚する予定)、末の娘で浮き世離れした美人の大学生)をできるだけ客観的に描きたかったために採用された三人称でしたが、実際には主人公の主観との分離がうまくいっていなかったように思えます。
 その理由のひとつに、この作品テーマであるアメリカ人(特に妻から見た場合)の結婚観について、「イタリア風」と題名に付けた、旧来の父親を中心にした大家族主義が、実は主人公(=作者)の結婚観と大差がないため、十分な客体化ができなかったためと思われます。
 この作品のわずかな情報の中でも、長男の妻がこの家族とうまくやれなかった理由は十分にわかる(それは作者のエピソードの選び方のうまさでもあります)のですが、作者自身の結婚や妻に対する考えが彼らに非常に近いために、それを十分に批判的に表現できなかったからです。
 そうであるならば、むしろ一人称で書いたほうがすっきりしたことでしょう。
 これ以降、作者のアメリカ滞在記は、すべて一人称で書かれることになります。
 その方が、あくまでも異邦人である日本人のアメリカに対する見方や考えが素直に表現できたようで、ガンビア滞在記のような秀作を生み出すことができました。
 その一方で、三人称で対象を客体化して写生する書き方も、この後静物のような作者にとってより身近な題材を描いた「静物」で文学的に結実し、その後の「夕べの雲」のような家庭小説へもつながっていきます。




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