現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ウイリアム・サローヤン「ヒューマン・コメディ」

2020-04-10 15:53:37 | 作品論
 1943年に書かれた作品ですが、その前年に公開され、アカデミー賞を受賞した映画の、作者自身の脚本を小説化したものです。
 そのため、非常に映画的な作品で、短い断章ごとに舞台や登場人物や視点が代わり、読者は立体的に作品世界を捉えることができます。
 主人公の十四歳の電報配達少年を中心に、彼の家族、学校や職場や町の周辺の人々が多数登場する群像劇です。
 タイトルがコメディ(かつてはこの作品の邦題は「人間喜劇」でした)となっていますが、戦争中のアメリカのカリフォルニア州の小さな町で起こる悲喜劇を描いています。
 なにしろ、主人公が配達する電報の大半が、出征した若い男性たちが戦死したことを知らせるものなのです。
 最後には、主人公の最愛の兄の戦死を知らせる電報までが送られてきます。
 しかし、全体としては決して暗くない、言ってみれば人間讃歌のようなものになっているのは、この作品を通して、人間や社会を肯定しようとする作者の視線が感じられるからでしょう。
 また、それを支えるものとして、宗教心、家族愛、郷土愛が、主人公やその他の主要な登場人物の背後にあります。
 第二次世界大戦中という時節柄、やや愛国心が鼻につく部分もありますが、それも含めて古き良き時代のアメリカ社会が描かれています。
 なお、この作品はもちろん一般文学として書かれたのですが、主人公のクラスメイトやもっと年少の子どもたち(主人公の弟は四歳です)がたくさん登場するので、良質な児童文学と言っても差し支えないでしょう。


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生きていくこと

2020-04-10 09:15:51 | 作品
 ある晩、ぼくは夜中にふと目を覚ました。
 ぼくが寝ているのは、二段ベッドの下の段だ。ぼくはそのまま寝つかれずに、ベッドの上の段の床を見ていた。上の段には、にいちゃんが寝ている。
 ぼくは、すぐ眠れるように、いつものように野球やサッカーのスーパースターになった時のことを想像しようとした。
 そうすると、未来への不安がなくなって、いつもならすぐに眠れるのだ。
と、そのときだ。
ふと、
(死んでしまったら、その後はどうなるのだろうか?)
と、考えてしまった。
 いろいろな疑問がむくむくと湧き起ってくる。
(お話にあるように、天国とか、地獄とかに行くのだろうか?)
(それとも、もう一度何かに生まれ変わるのだろうか?)
ぼくは、生まれる前のことを考えてみた。
何も思い出せない。灰色の無の世界が拡がっているだけだ。もしかすると、ぼくが死んだら、そんななんにもない世界に行ってしまうのかもしれない。
(ぼくが、この世からいなくなる)
そんな死後のことを、考えると恐ろしくてたまらなくなってきた。
(うわーっ、いやだ、いやだ)
ぼくは、ベッドからはねおきた。
いつの間にか、背中にはびっしょりと汗をかいていた。
それからは、眼がさえて眠れなくなってしまった。もし眠ったら、あの灰色の無の世界に引きずり込まれるような気もした。
 ぼくは、またベッドの上の段の床を見つめた。二段ベッドの上では、にいちゃんが軽い寝息をたてて眠っている。のんきに寝ているにいちゃんの寝息を聞いていると、その図太さがうらやましかった。
でも、にいちゃんを起こして助けてもらうわけにはいかなかった。

とうとうぼくは、ベッドから起き上がると、子ども部屋を抜け出して両親の寝室へ行った。
トントン。
寝室のドアを軽くノックをする。
「どうした?」
おとうさんの声がした。すぐに目を覚ましてくれたようだ。
おとうさんはすごく敏感で、どんな小さな物音でも目を覚ますんだそうだ。そんなところは、ぼくはおとうさんに似たのかもしれない。
ドアを開けると、おとうさんが布団から上半身を起こしていた。その横では、おかあさんが寝息をたてている。こちらは、おとうさんとは対照的に、一度眠ったらどんなことがおきても目を覚まさないんだそうだ。こちらの血は、間違いなくにいちゃんに受け継がれている。
「眠れないんだ」
ぼくがそういうと、
「じゃあ、おとうさんのところへおいで」
と、おとうさんがいってくれた。
ぼくは部屋に入ると、片手で開いてくれたおとうさんの布団の中にもぐりこんだ。
ぼくは、すぐにおとうさんのにおいにつつまれた。少し汗臭いけれど、なんだかホッとする。
「おとうさん、聞きたいことがあるんだけど」
「なんだい?」
「おとうさんは、死ぬのは怖くないの」
 ぼくは、小さな声でたずねた。
「怖いよ」
 おとうさんはすぐにそう答えたけれど、
「でも、子どものころよりは怖くなくなった」
と、付け加えた。
「なぜ?」
「たぶん、よっちゃんやにいちゃんが生まれたからだろうな」
 おとうさんはそういうと、こんな話をしてくれた。
「あるとき、死ぬことを夢に見て、ハッと目をさましたことがあったんだ。いつもなら、怖くて、怖くてたまらなくなるところだ。だけど、そのとき、かたわらに赤ちゃんのころのよっちゃんと、まだ幼稚園に行く前のにいちゃんが寝ていた。そのころは、まだ、二人が小さかったから、おかあさんと四人で同じ部屋に寝ていたんだ。そのとき、よっちゃんやにいちゃんの寝顔を見ていたら、なぜか気持ちがだんだん落ち着いてきた。それ以来、死ぬことが、前よりも少しだけ怖くなくなったかもしれない」
「へえ」
 ぼくは驚いておとうさんの顔を見た。
「おそらく、自分の血が、よっちゃんやにいちゃんに確かに引き継がれていると、思ったんだろうな。難しい言葉でいうと、DNAが伝えられるってことになるけれど」
「ふーん」
 よくわからなかったけれど、ぼくはうなずいた。
「きっと、よっちゃんにも自分の子どもができたら、同じようになるよ」
「そうかな?」
「だいじょうぶだよ。だから、もうおやすみ」
「はーい」
 なんだかよくわからなかったけれど、ぼくはそのまま少し安心して眠りについた。

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末吉暁子「星に帰った少女」

2020-04-10 09:01:08 | 作品論
 1976年に出版されて、日本児童文学者協会と日本児童文芸家協会の新人賞をダブル受賞した作品です。
 1949年へタイムスリップして、主人公と同じ六年生の時の母と出会い、母もまた実母と別れた過去を持つことを知ることにより、抵抗を感じていた母の再婚を主人公が受け入れるストーリーです。
「確固としたファンタジー世界を構築し、母の再婚という今日的な題材を描いている」と、当時は高く評価されました。
 しかし、この過去へタイムスリップする手法は、1958年に書かれ1967年に日本語に翻訳されたフィリッパ・ピアスの「トムは真夜中の庭で」の影響を強く受けていて、特に目新しさはないように感じました。
 解説のさとうさとるによると、当時の日本では、「トムは真夜中の庭で」に影響を受け、手法を模倣した作品が、特に女性作家によってたくさん書かれていたそうです。
 この作品で再現された1949年の三島(作中では三浜という架空の町になっています)の描写は、ピアスが「トムは真夜中の庭で」で鮮やかに再現したヴィクトリア朝のイギリス低地地方の描写に遠く及びません。
 また、母の再婚を受け入れる子どもの心理描写も、男の子と女の子の違いはありますが、1934年に書かれたケストナーの「エーミールと三人のふたご」(その記事を参照してください)よりもかなり劣る感じです。

星に帰った少女
クリエーター情報なし
偕成社
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