現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

巌谷小波「三十年目書き直し こがね丸」名著復刻日本児童文学館第二集14

2020-04-05 18:47:12 | 参考文献
 1891年(明治24年)に出版されて、近代日本児童文学の嚆矢(鳥越信編「日本児童文学史年表1」を見ると、それ以前にはまとまった作品はありません)と言われている「こがね丸」(その記事を参照してください)を、1921年(大正10年)に作者自らが口語体に書き直して出版した本です。
 「はしがき」を読むと、出版三十周年を祝って盛大な祝賀会が行われたようで、この本の出版はその記念事業の一環のようです。
 多色刷りの歌舞伎調の口絵やら、作者の三十年前(22才と書かれていますが、当時は数え年が使われていたので満21才です)と出版当時(数え年52才)の写真やら、文語体の本の口絵や挿絵やらが挿入されています。
 本文は、上段に原作と称して文語体の「こがね丸」(当時のペンネームは漣山人)が併記され、下段にやや大きな活字で口語体の「こがね丸」が載っています。
 読み比べてみると、文語体の方は講談調で時代がかっているので、さすがに当時でも口語体の方が子どもたちにとっても読みやすかったでしょう。
 しかし、他の記事に書いたように、内容が封建的な要素が強いので、文体としては文語体の方が合っているようにも思えます。
 ただし、日本児童文学学会編「日本児童文学概論」の「第二章 日本児童文学の歴史 第一節 明治期」を書いた続橋達雄によると、文語体出版時にすでに大人向けの作品では言文一致(口語体)で作品を書いていた作者は、それゆえ文語体で出版した(作者としては、その方が子どもたちが読みやすいという思いがあったようです)ことと、封建的な内容(特に、敵役の虎に妾がいたこと)を批判されていた作者としては、三十年目の口語体での書き直しは長年の念願だったでしょうし、ある意味ようやく時代が彼に追いついた(子どもたちも口語体の方が読みやすくなっていた)とも言えるでしょう。
 巻末には、当時の各界の名士(華族や博士なども多数含まれています)による、「当時(文語版出版時と思われます)の感想」や祝辞がずらりと並んでいます。
 その中には、私でも知っている小山内薫(演劇家)、島崎藤村(詩人、小説家)、美濃部達吉(憲法学者)などもいて、「こがね丸]と巌谷小波が、いかに当時の多彩な人々に愛されていたかが分かります。
 他の記事にも書きましたが、私はこの本をほるぷ出版の復刻本で持っているのですが、これは23歳になったばかりの新入社員の時に、会社の食堂に売りに来ていた物を、4月、5月、6月の給料(初任給は10万円ちょっとでした)の残りと、初めてのボーナス(13万円ぐらいでした)をはたいて買いました(第一集と第ニ集合計で30万円近くしたと記憶しています)。
 そのころは、定年退職(当時は55歳でした)したら児童文学の研究をしようと思っていた(私の仕事は産業用電子機器のマーケティングでかなりの激務でしたから、時間のかかる研究は掛け持ちではできないと思っていました)ので、それを忘れないためでした。
 ほぼ予定通りに56歳に退職したのですが、最初の研究テーマにこのブログの表題でもある「現代児童文学」を選んだので、こうした児童文学の古典を論ずるまでには、さらに10年近くかかってしまいました。
 これからは、古今東西の児童文学の古典的な名作について、論じていこうと考えています。


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巌谷小波「こがね丸]講談社版少年少女世界文学全集49現代日本童話集所収

2020-04-05 17:22:03 | 作品論
 1891年(明治24年)に書かれた、日本の近代童話の嚆矢と言われている作品です。
 作者は、童話(そのころはお伽噺と呼ばれていました)の創作や全国を回っての口演(読み聞かせの大掛かりなもの)で日本中の子どもたちに慕われ、日本おとぎばなしの父と呼ばれています。
 解説の鳥越信によると、この作品はゲーテの「きつねの裁判」と滝沢馬琴の「里見八犬伝」をヒントにして書いた言われているそうですが、今回読み直してみると、もっと広範な昔話、御伽草子、講談などを巧みに取り入れて書いた作品のように思えます。
 ざっと見ただけで、桃太郎、カチカチ山、講談の仇討ち物、フランス寓話の狐物語(その記事を参照してください。ゲーテの作品はこれの流れをくむものです)、水滸伝(その記事を参照してください。「南総里見八犬伝」はこの影響を受けています)などの要素が見受けられます。
 現在の観点で言えば、封建的だったり、帝国主義的だったり、男尊女卑だったり、残酷すぎたり、差別的だったり、子どもに適さない表現だったりする点が多く見られますが、面白いストーリー(現在ならばエンターテインメント作品)の中に、教育的な要素(ここでは、明治時代らしく教育勅語の影響が見られ、孝(ここでは親の敵をうつ)や忠(国や支配者(ここでは庄屋)に従う)や礼(目上の者に礼儀を尽くす))を加味する、日本的な児童文学の形を作り出したと言えるでしょう。
 作者がこの作品を書いたのは弱冠21歳の時ですから、その知識と才能には素晴らしいものがあります。
 なお、この作品は発表当時文語体で書かれていたのですが、「三十年目書き直しこがね丸」(その記事を参照してください)として自ら口語体に書き直して、1921年(大正10年)に出版されました。
 私が読んだこの本は、もちろんこの口語体の方です。
 私が初めてこの作品を読んだのは、小学校ニ年の1962年(昭和37年)でした(他の記事にも書きましたが、特殊な幼少時代を過ごしたので読書に関しては異様に早熟でした)が、ここに書かれている内容にはさほど違和感は感じませんでした。
 そのころは、少年サンデーなどの漫画週刊誌にも、時代物(「伊賀の影丸」、「カムイ伝](その記事を参照してください。実際に私が読んだのは「カムイ外伝」の方です)、「弓道士魂」(この影響を受けて、高校の時に弓道部に入りました))や戦記物(「紫電改の鷹」や[ゼロ戦ハヤト]など)が連載されていましたし、テレビでも時代劇(大河ドラマの「赤穂浪士]は、小学校でも大人気でした)はたくさん放送されていました。
 また、この作品は、1963年に公開された東映動画のアニメーション映画「わんわん忠臣蔵」に、大きな影響を与えています。
 東映動画ではオリジナルと称していますが、手塚治虫による原案の「森の忠臣蔵」とは大きく変わっていて、誰が見ても(私は、すでに「こがね丸]を読んでいましたので、すぐに分かりました)「こがね丸」の翻案(忠臣蔵の要素を入れて、時代を現代にしています)だということは分かります。
 誤解をまねかないように書き添えれば、子どもの時(実は今でもそうなのですが)は、「こがね丸」より「わんわん忠臣蔵」の方が好きでした。
 特に、ラストで主人公のロック(大石内蔵助の石のストーンではかっこ悪いので岩にしたのでしょう)が敵役の虎のキラー(吉良上野介と殺し屋をかけたのでしょう)が、ローラーコースターで対決するシーンはハラハラしたことを覚えていますし、恥ずかしながら「すすーめ、すすーめや、しっぽを上げて]で始まるテーマ曲の「わんわんマーチ」は今でも歌うことができます。
 ここで言いたいのは、当時の日本の大人たち(特に男性)の心の中に、いかに「こがね丸」が深く根ざしていたかということと、それだからこそオリジナルに敬意を払って欲しかったということです。



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