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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

トールちゃん

2016-10-13 10:51:19 | キンドル本
 トールちゃんは、主人公が入っている少年野球チームの人気者です。
 六年生なのですが、チームで一番天真爛漫で子どもっぽい子です。
 でも、小さい子たちの面倒もよく見ています。
 監督に言わせると、昔のガキ大将のようだとのことです。
 トールちゃんは、いつもハッスルプレーをしますが、すごくおっちょこちょいで凡ミスもたくさんします。
 そのため、六年生の今も、外野を守らせられています。
 それに、監督にもため口でしゃべるのでおこられてばかりです。
 でも、監督は、ムードメーカーとしてのトールちゃんをほめています。
 他のチームメートの親たちとは違って、トールちゃんの両親はふだんの練習はもちろん試合の日も見に来ません。
 ある日、その両親が試合を見に来たら、トールちゃんは緊張でがちがちになって失敗の連続でした。
 次の週の準決勝の日は、トールちゃんの両親の姿は見えませんでした。
 トールちゃんは伸び伸びとプレーして、大活躍します。
 ところが、いよいよ決勝戦が始まる時に、トールちゃんの両親がやってきました。
 はたして、トールちゃんは、決勝戦でうまくプレーができるでしょうか?

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トールちゃん
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平野 厚
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貫井徳郎「新月譚」

2016-10-13 10:44:48 | 参考文献
 「通俗小説」、広辞苑によると、「芸術的価値に重きを置かず一般大衆の娯楽・慰安を主眼とする小説」とあります。
 久しぶりに、そんな古い言葉がぴったりする小説を読みました。
 容姿にコンプレックスがあって顔全体を整形手術して絶世の美人に変身した女性が、流行作家になるまでを描いた作品です。
 「通俗小説」を書く作家の誕生記を、「通俗小説」の手法で書くわけですから、まさに「鉄板」の「通俗小説」です。
 「エンターテインメント」などといった軽やかなものではなく、歌でいえば「ど演歌」といった感じのパターン化された作品です。
 描写もパターン化されており、長い回想シーンは1970年代のはずなのですが、それを想起させるものなど全くなく適当に書かれています。
 食事をするシーンがやたらに多く毎回違う所へ行っているのですが、まったく区別がつきません。
 会社のシーンなどもぜんぜんリアリティがなく、おそらく作者は会社がどういうものかの知識がほとんどないのでしょう。
 編集者とのシーンはさすがに実体験に基づいているのか詳しいのですが、これもまたパターン化しています。
 しかし、これらの点は、「通俗小説」の書式なのかもしれません。
 肩のこるような詳しい描写など省いて、筋だけを読み飛ばせるような書き方が、この作品の読者にとっては望ましいのでしょう。
 そう意味では、この作品は「通俗小説」の王道をいっていると思います。
 この作品は中間小説(純文学と通俗小説の中間の作品を意味します)誌に連載されたものですが、今の中間小説誌はますます通俗化が進んでいるのでしょう。
 新聞などの広告を見ると、本当の通俗小説誌はもっと派手な官能小説や時代小説が中心になっているようです。
 その点、この作品は官能的なシーンはほとんど省いているので、まだ品が良いのでしょう。
 だいたい、今どき中間小説誌は何部ぐらい売れているのでしょうか?
 少なくとも、若い人たちはほとんど読まないでしょう。
 図書館の雑誌コーナーで、こういった雑誌を手にしているお年寄りをよく見かけますから、そういった人たちの暇つぶしといったポジションなのかもしれません。
 そういう意味では、こういった「通俗小説」は、高齢化のマーケットニーズに合っているのかもしれません。
 もっとも、児童文学の世界でも通俗化が進んでいますから、社会全体がそういう方向に進んでいるのでしょう。


新月譚
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文藝春秋
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神沢利子「桃の核」いないいないばあや所収

2016-10-12 15:55:46 | 作品論
 病気の姉のいる家には、死の影が漂っています。
 心臓の悪い姉の回復を願って、主人公の幼女は、まるで心臓のように思えた桃の核(たね)を庭に埋めます。
 短編集の終わりには姉はどうなっているのか、主人公だけでなく読者たちも祈りたくなります。

いないいないばあや (岩波少年少女の本)
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岩波書店


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児童文学における記号的表現

2016-10-11 18:37:53 | 考察
 現代の児童文学においては、具体的描写よりも記号的表現を使った方が、作品を書く場合に有利なことが多くなっています。
 代表的な例でいえば、ライトノベルなどにおいて、作者と読者がある言葉に対して共通の認識を有する場合に、作中でそれらを多用することによって物語が展開されることがあります。
 いわゆるデータベース消費と呼ばれる物語消費の形態です。
 男の子向けライトノベルにおけるそれらの典型的な例をいくつか挙げると、「妹」、「巨乳」、「未来人」、「委員長」などの用語は、すでにコミックス、アニメ、ゲームなどの世界における膨大な使用例のデータベースが構築されていて、作者と読者の間でこれらの用語に対して共通認識ができあがっています。
 そのため、これらの用語を使えば、具体的な描写をしないでも、作者の描く世界を容易に読者に伝達できるのです。
 その手法は、面倒な説明や描写をいちいち読むよりも、スピーディに物語を展開できる利点があります。
 その一方で、作者と読者の間で共通認識を持たない記号的表現の使い方もあります。
 その言葉の正しい意味を伝えることよりも、その響きやイメージで、その作品世界を読者に伝えることができます。
 しかし、このような記号的表現にたよりすぎると、読者によって言葉から得られるイメージにばらつきが出て、作者の意図と読者の受け取りにギャップが生じる恐れがあります。
 その言葉を正しく理解できないまでも、ある程度の意志疎通ができないのであれば、やはり文章表現としては問題があるのではないでしょうか。
 こうした言葉の響きやイメージだけで、読者がきちんと意味を理解しないで読むことの是非は、やはり考えなければならないと思われます。
 以上に書いたどちらの場合も、記号的表現で書かれた作品は、対象読者を選ぶ閉じた作品になっている可能性があります。

戦後まんがの表現空間―記号的身体の呪縛
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法蔵館
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児童文学における現実世界と空想世界について

2016-10-11 09:35:33 | 考察
 現在の児童文学では、読者(特に女性)に人気があり、本になりやすいこともあって、ファンタジー作品が増えています。
 しかし、安易な作品が多く、単に読者の興味を引くために、空想世界をお話に導入している作品が大半です。
 本来は、現実世界に対する作者のしっかりした認識があり、それを投影した形で空想世界がつくられるべきですが、その辺の作業がほとんどなされていないようです。
 そのため、かつては重要であった「通路」(現実世界と空想世界を結ぶ部分、例えば、ボームの「オズの魔法使い」だったら「竜巻」、ピアスの「トムは真夜中の庭で」だったら「古時計が13鳴った時」、ルイスの「ナルニア国シリーズ」だったら「衣装ダンス」)の問題も、ほとんど軽視されていて、現実世界と空想世界の境界がはっきりしなくなっています。

トムは真夜中の庭で (岩波少年文庫 (041))
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岩波書店
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オオカミウオ

2016-10-11 09:07:57 | キンドル本
 主人公は、北の海に住むオオカミウオです。
 誰とも友達にならずに、一人で暮らしていました。
 ある日、オオカミウオは網にかかってしまいます。
 そして、水族館に売られていきます。
 水槽で他のオオカミウオたちとケンカをした主人公は、別の水槽に隔離されてしまいます。
 水族館にはいろいろな人がやって来ます。
 主人公が、水槽のガラス越しに出会った人たちとは?
 最後に、主人公が夢見たものは?

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オオカミウオ
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細谷建治「「龍の子小太郎」の発想」日本児童文学1974年10月号所収

2016-10-11 08:35:38 | 参考文献
 現代児童文学の出発時(一般的には1959年と言われています)の代表的な作品のひとつで、「創作民話」という新しいジャンルを拓いたと言われている松谷みよ子の「龍の子太郎」を批判的に論じています。
 細谷は以下の三点について批判していますので、それぞれの妥当性について論じて、最後になぜ松谷と細谷の間にそのようなギャップが生じたかについても考えてみたいと思います。
1.「目玉」の発想。あるいは献身的発想の批判として
 ここでいう「目玉」というのは、龍になってしまった太郎の母親が、自分の目玉を太郎にしゃぶらせて育てる代わりに目が見えなくなってしまったことを指します。
 細谷は、この龍の行為、そしてその後の太郎の英雄的な活躍も「自己犠牲」をはらんだ献身的発想から出ているので、解放的と捉えられているこの作品が実は「献身」という非解放的な発想を内包していると批判しています。
 ここにおいては、「自己犠牲」や「献身」をすべて国に対する「滅私奉公」的なものとして捉えて、細谷はかなり嫌悪感を持っているようです。
 しかし、この作品における龍や太郎の「献身」は我が子や民衆に対するものであり、どのような愛情行為や変革もこのような「献身」なしには成し遂げられることはないのですから、細谷の批判はかなり偏狭な見方でしょう。
2.「いわな」の発想。あるいはGNP的発想の批判として
 ここでの「いわな」というのは、太郎の母親が三匹しかいないいわなを全部食べたために龍になってしまったのに対して、太郎が三匹ではなく百匹のいわながあればよかったのだと述べたことを指します。
 細谷はこの章で、このエピソードを、「三つの保育所ではなくポストの数ほどの保育所を」ということと照応する。その意味で「龍の子太郎」は戦後民主主義の公約数的な作品なのであった。」と肯定的に捉えた古田足日の評(「現代児童文学史への視点」)と、「国内での矛盾を外国を侵略する事によって解決しようとする思想と、(中略)同一のものだ」とかなり過激に否定した勝原裕子の評(「松谷文学の思想性」)の双方を紹介していますが、結論としてはハッピーエンドで終わるこの作品に対して疑念を表明しています。
 これは、この作品を描いた1960年においては、松谷が戦後民主主義や労働運動などに明るい未来を信じていたのに対して、70年安保における革新陣営の敗北という苦い体験を経た、この論文が書かれた1974年には、細谷が民主主義や民衆の団結に対してシニカルな視点を持ったことによって生じたものと思われます。 
 そういった意味では、作品成立時の歴史的な背景に触れずに批判するのはあまりフェアではないでしょう。
3.「民話」の発想。あるいはモザイク的民話観の批判として
 ここにおいて細谷は、松谷の作品が、「民話」の語り手とは断絶を起こしていて、上層文化的発想である「献身」の美学の中にとどまってしまったと批判しています。
 しかし、松谷の発想はもともと戦後民主主義の文学の創造にあり、「民話」はもともとモチーフにすぎないのは自明であって、それでこそ「創作民話」という新しいジャンルが開拓されたのですから、細谷の批判は当たっていないと思われます。
 以上の三つの論点における松谷と細谷のギャップは、1960年から1974年というわずか14年の間に、同じ革新側にたつ作家と評論家においてさえ、前述したような大きな変化が生まれたことを物語っています。
 細谷の論文が書かれてからさらに四十年が経過した現在では、経済的な発展がかならずしも民衆の幸福をもたらさなかったと同時に、新しい貧困や格差の時代にどう対処すべきかという問題も生じています。

日本児童文学 2014年 10月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小峰書店
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村中季衣「わたしの「ズッコケ」体験記」日本児童文学2005年1-2月号所収

2016-10-10 08:43:32 | 参考文献
 「ズッコケ三人組」シリーズの完結に際して組まれた特集の中の論文です。
 村中は、「ズッコケ三人組」シリーズが出版されていた二十五年(正確には二十六年)の間に、日本の子どもたちを取り巻く環境に次のような大きな変化が生まれたことを指摘しています。
1.男の子の三人組が成立しなくなった(三人という微妙な人間関係の緊張に耐えられずに、大勢でなんとなく群れているか、つるむとしても一対一の関係しか成立しない)としています。また、連載開始時はどこにでもいそうな普通な男の子たち(それぞれまんが的にキャラクターが誇張されていますが)が、今の学級ではおそらく問題児童として排斥されてしまうだろうとも指摘しています。
2.身体知(体で学んだこと)を得る環境が、現実の学校文化では影を潜めているとしています。
3.三人組をはぐくんだ商店街を始めとした地域社会が崩壊していることをあげています。
 また、作品世界と実世界がずれていくにつれて、それを埋めるために三人組が状況説明のために饒舌になっていったことも指摘しています。
 「ズッコケ三人組」シリーズのような長期間続いた「時間循環型」の「遍歴物語」が、実社会とずれていってしまうのは宿命のようなものですが、テレビアニメでは、「さざえさん」を始めとして、「ちびまる子ちゃん」、「ドラエモン」、「クレヨンしんちゃん」などの時間循環型(一部新キャラクターの誕生など時間を進行させている部分もありますが)の長寿番組が、視聴率は以前ほどでなくても健在です。
 おそらくそこには、作り手側と受け手側の状況の違いがあるからでしょう。
 作り手側の状況では、「ズッコケ三人組」シリーズは那須正幹という個人が作った世界なので、連載開始時は三十代だった那須が六十代になって子ども世代と遊離してしまったのに対して、アニメは集団制作なので作り手はどんどん新陳代謝できます(「サザエさん」も「ドラエモン」も「クレヨンしんちゃん」も原作者は亡くなっていますが、アニメの人気には直接的には影響していません)。
 受け手側の事情としては、「ズッコケ三人組」シリーズのメインターゲットである小中学生(特に男の子)が自分たちと違う世界の主人公たちに興味が持てなくなったのでしょう(彼らにはこの世界へのノスタルジーはありません。また、男の子たちが読書自体をしなくなったことも原因でしょう。彼らの物語消費に対する欲求は、携帯ゲームやトレーディングカードなどが満たしています)。
 それに比べて、「サザエさん」のようなアニメの視聴者は大人が中心で、その世界にノスタルジーと安らぎを感じているのだと思われます(子どもが視聴する場合は、大人と一緒に親たちの昔話を聞く感覚で見ているのかもしれません)。
 このように、子どもの読者を対象とした普通の日常世界をベース(空想世界も出てきますが)に描いた「時間循環型」の「遍歴物語」は今後は成立しにくくなっていて、「ゾロリ」などのようにエンターテインメント性を強めた空想世界を描かないと人気は勝ち取れなくなっているようです。

日本児童文学 2013年 08月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小峰書店
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桜木紫乃「バブルバス」ホテルローヤル所収

2016-10-09 09:00:55 | 参考文献
 姑の新盆の日に、お坊さんにすっぽかされたために浮いたお布施の五千円で、夫とラブホテルへ行く主婦の話です。
 狭いアパートに、成績不良の中学生の息子と、不登校の小学生の娘と、急に同居してきた舅を抱えて、四苦八苦している彼女ですが、安い給料で家電量販店でこき使われている夫をいたわる優しい気持ちはなくしていません。
 自分たちの寝室のない夫婦が、ラブホテルで束の間の逢瀬を営む様子が、とてもいじらしくて共感が持てます。
 官能的なシーンもあるのですが、人生の悲哀やささやかな幸福の方が大きく描かれています。
 桜木は、性愛小説に人生の機微を描くという新ジャンルを開拓したようです。
 児童文学の世界でも、子どもと大人の共生を描きながら人生の哀歓を描いて、子どもにも大人にも読めるような作品には、大きな可能性があると思われます。

ホテルローヤル
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集英社
 
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0.5ミリ

2016-10-08 10:50:05 | 映画
 ひょんなことから事件に巻き込まれて、職を失って放浪している若い介護ヘルパーの女性の話です。
 様々な問題を抱えた老人たちと知り合って、そこに寄生する形で生活をしています。
 介護、老々介護、老人の性、老人ねらいの詐欺など、極めて今日的なモチーフを描いているので興味深いです。
 前半はテンポも良く、泊まるところをなくした家出老人と一緒にカラオケでオールをしたり、ネズミ講のような詐欺から一人暮らしの老人を助けたりして、なかなか痛快です。
 しかし、中盤から、戦争、生きていくこと、親子問題、近親相姦(?)、性同一性障害などの重い問題が、未消化なまま生硬な感じで出てきて、中途半端な印象を受けました。
 特に、登場人物のセリフとして、テーマが生のまま語られたシーンには閉口しました。
 やはり三時間十七分の上映時間は長すぎて、しかも途中からはテンポもかなり悪いので、観客が飽きてしまいます(休憩時間もないので、途中でトイレへ行く人が続出していました)。
 この内容では二時間以内に刈り込まないと(特に後半)、商業的に成功させるのは難しいでしょう。
 主演女優の安藤さくら(女性監督の妹)はけっして美人ではなく、しかもノーメイクに近いので、作品にリアリティを持たせています。
 その点では、このような映画では、美人女優はかえって不利でしょう。
 また、共演者たちは芸達者なベテランぞろいなので、未熟な監督や主演女優をかなり助けています。
 ただし、主人公は家事や介護ヘルパーとしての腕前は超一級(腕前を強調しすぎています)なので、冒頭で職を失ったからといって、ただちに放浪生活に陥る設定には、かなり無理がありました。


0.5ミリ [DVD]
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TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)

0.5ミリ
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幻冬舎
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四季派学会・宮沢賢治学会イーハトーブセンター合同研究会 ―宮沢賢治から「四季」派へ―

2016-10-08 08:27:19 | 参考情報
 2012年12月15日に大妻女子大学で行われた宮沢賢治と四季派の詩人たちをめぐっての、宮沢賢治学会イーハトーブセンターと四季派学会との合同研究会です。
 1930年代という時代の中で、宮沢賢治が四季派の詩人たちにはどう受け止められたかなどをテーマにした講演、研究発表でした。
 研究発表は以下の通りでした。
 ・平澤信一「『風の又三郎』の新しい課題」 
 ・吉田恵理「中原中也と富永太郎における『春と修羅』の問題 
 ・名木橋忠大「立原道造と宮沢賢治 -われもまたアルカディアに-」
 講演は、北川透『異界からの声をめぐって― ―宮沢賢治と「四季」派の詩』でした。
 最初の研究発表を除くと、四季派学会の人たちによる発表や講演なので、普段の宮沢賢治学会とかなり毛色が違っていました。
 まず、いろいろな詩が引用されるのですが、その時発表者が詩を朗読するのです。
 おそらく彼らは詩の朗読に慣れているのでしょう。
 みんな大変上手なのに驚かされました。
 次に、先行研究の引用が非常に多かったです。
 これは、研究対象が狭い分野に集中しているので、どうしても先行研究を紹介して、その上に自分の考察を積み上げる形にならざるを得ないためだと思われました。
 そのあたりは、宮沢賢治学会と共通しているようです。
 一方、日本児童文学学会の場合は、研究対象が非常に広いので、独自の分野を開拓できる余地が広いと思われます。
 その分、今回の聴衆(特に四季派学会の人たち)は発表内容について熟知しているようで、質疑の時に活発な意見交換がみられました。
 

宮沢賢治―驚異の想像力 その源泉と多様性
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朝文社
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10月7日(金)のつぶやき

2016-10-08 08:16:05 | ツイッター
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多和田葉子「雲をつかむ話」

2016-10-07 07:17:05 | 参考文献
 読売文学賞を取った作品です。
 雲をつかむような話と言えばつかみどころのないことをさしますが、この「雲をつかむ話」は一見取り留めのない話にみえるエピソードの積み重ねの中で、しっかりと手ごたえのある文学作品になっています。
 全体として犯罪に関するエピソードが多いのですが、その中に異国で暮らす女性作家(作者自身ないしは分身でしょう)の孤独が浮かび上がってきます。
 多和田はドイツ滞在が長いこともあり、個々の登場するドイツ人をはじめとした外国人には、その国の人としてのメンタリティをしっかり持って描かれています。
 日本人が描く外国人の中には、名前だけ外国人でまるで日本人と変わらないメンタリティを持った奇妙な人物が現れることが多いのですが、さすがにこの作品では本物の外国人が描かれています。
 このように外国での暮らしを描いた日本の児童文学作品は以前はありましたが、最近は見かけなくなりました。
 それには、いくつかの理由があると思われます。
 ひとつは、昔は一般の人たちにとっては外国が遠い存在でしたが、今では簡単に海外旅行ができるようになって身近になっています。
 そのため、外国の様子を描いただけでは珍しくなくて、作品に商品性がなくなっています。
 また、グローバル化が進んで、それぞれの国の個性がなくなっていることも挙げられるかもしれません。
 何より、今の子どもたちや若い人は内向的になっていて、外国への興味が薄れてきているのが大きな原因でしょう。

雲をつかむ話
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講談社
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10月6日(木)のつぶやき

2016-10-07 07:04:07 | ツイッター
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ウルズラ・ヴェルフェル「よその子どもたち」灰色の畑と緑の畑所収

2016-10-06 08:13:07 | 作品論
 貧しい人たちやジプシーやトルコ人が住んでいる汽車道の子どもたちと、新興住宅街の池通りのドイツ人の子どもたちはお互いに反目しています。
 大人たちが、両方の地域について偏見を植え付けていたからです。
 しかし、池通り側の先入観を持たないまだ五つのカステインが汽車道へ遊びに行くようになったのをきっかけに、子どもたちはお互いを知るようになります。
 すると大人たちが植えつけた偏見が誤りであったことがわかり、二つの地域の子どもたちは仲良くなりました。
 異文化をお互いが知ることによって偏見が取り除かれるのは、子どもに限ったことではありませんが、やはり先入観が少ない分だけ交流が容易なのでしょう。
 現在、日本は、中国、韓国、北朝鮮などの近隣諸国との関係はよくありませんが、子どもたちの交流を通して改善される可能性はあるのではないでしょうか。
 お互いの児童文学をもっと紹介しあうことも、その一助になるかもしれません。

灰色の畑と緑の畑 (岩波少年文庫 (565))
クリエーター情報なし
岩波書店
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