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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

児童文学における記号的表現

2016-10-11 18:37:53 | 考察
 現代の児童文学においては、具体的描写よりも記号的表現を使った方が、作品を書く場合に有利なことが多くなっています。
 代表的な例でいえば、ライトノベルなどにおいて、作者と読者がある言葉に対して共通の認識を有する場合に、作中でそれらを多用することによって物語が展開されることがあります。
 いわゆるデータベース消費と呼ばれる物語消費の形態です。
 男の子向けライトノベルにおけるそれらの典型的な例をいくつか挙げると、「妹」、「巨乳」、「未来人」、「委員長」などの用語は、すでにコミックス、アニメ、ゲームなどの世界における膨大な使用例のデータベースが構築されていて、作者と読者の間でこれらの用語に対して共通認識ができあがっています。
 そのため、これらの用語を使えば、具体的な描写をしないでも、作者の描く世界を容易に読者に伝達できるのです。
 その手法は、面倒な説明や描写をいちいち読むよりも、スピーディに物語を展開できる利点があります。
 その一方で、作者と読者の間で共通認識を持たない記号的表現の使い方もあります。
 その言葉の正しい意味を伝えることよりも、その響きやイメージで、その作品世界を読者に伝えることができます。
 しかし、このような記号的表現にたよりすぎると、読者によって言葉から得られるイメージにばらつきが出て、作者の意図と読者の受け取りにギャップが生じる恐れがあります。
 その言葉を正しく理解できないまでも、ある程度の意志疎通ができないのであれば、やはり文章表現としては問題があるのではないでしょうか。
 こうした言葉の響きやイメージだけで、読者がきちんと意味を理解しないで読むことの是非は、やはり考えなければならないと思われます。
 以上に書いたどちらの場合も、記号的表現で書かれた作品は、対象読者を選ぶ閉じた作品になっている可能性があります。

戦後まんがの表現空間―記号的身体の呪縛
クリエーター情報なし
法蔵館
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児童文学における現実世界と空想世界について

2016-10-11 09:35:33 | 考察
 現在の児童文学では、読者(特に女性)に人気があり、本になりやすいこともあって、ファンタジー作品が増えています。
 しかし、安易な作品が多く、単に読者の興味を引くために、空想世界をお話に導入している作品が大半です。
 本来は、現実世界に対する作者のしっかりした認識があり、それを投影した形で空想世界がつくられるべきですが、その辺の作業がほとんどなされていないようです。
 そのため、かつては重要であった「通路」(現実世界と空想世界を結ぶ部分、例えば、ボームの「オズの魔法使い」だったら「竜巻」、ピアスの「トムは真夜中の庭で」だったら「古時計が13鳴った時」、ルイスの「ナルニア国シリーズ」だったら「衣装ダンス」)の問題も、ほとんど軽視されていて、現実世界と空想世界の境界がはっきりしなくなっています。

トムは真夜中の庭で (岩波少年文庫 (041))
クリエーター情報なし
岩波書店
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オオカミウオ

2016-10-11 09:07:57 | キンドル本
 主人公は、北の海に住むオオカミウオです。
 誰とも友達にならずに、一人で暮らしていました。
 ある日、オオカミウオは網にかかってしまいます。
 そして、水族館に売られていきます。
 水槽で他のオオカミウオたちとケンカをした主人公は、別の水槽に隔離されてしまいます。
 水族館にはいろいろな人がやって来ます。
 主人公が、水槽のガラス越しに出会った人たちとは?
 最後に、主人公が夢見たものは?

 (下のバナーをクリックすると、スマホやタブレット端末やパソコンやKindle Unlimitedで読めます)。

オオカミウオ
クリエーター情報なし
メーカー情報なし


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細谷建治「「龍の子小太郎」の発想」日本児童文学1974年10月号所収

2016-10-11 08:35:38 | 参考文献
 現代児童文学の出発時(一般的には1959年と言われています)の代表的な作品のひとつで、「創作民話」という新しいジャンルを拓いたと言われている松谷みよ子の「龍の子太郎」を批判的に論じています。
 細谷は以下の三点について批判していますので、それぞれの妥当性について論じて、最後になぜ松谷と細谷の間にそのようなギャップが生じたかについても考えてみたいと思います。
1.「目玉」の発想。あるいは献身的発想の批判として
 ここでいう「目玉」というのは、龍になってしまった太郎の母親が、自分の目玉を太郎にしゃぶらせて育てる代わりに目が見えなくなってしまったことを指します。
 細谷は、この龍の行為、そしてその後の太郎の英雄的な活躍も「自己犠牲」をはらんだ献身的発想から出ているので、解放的と捉えられているこの作品が実は「献身」という非解放的な発想を内包していると批判しています。
 ここにおいては、「自己犠牲」や「献身」をすべて国に対する「滅私奉公」的なものとして捉えて、細谷はかなり嫌悪感を持っているようです。
 しかし、この作品における龍や太郎の「献身」は我が子や民衆に対するものであり、どのような愛情行為や変革もこのような「献身」なしには成し遂げられることはないのですから、細谷の批判はかなり偏狭な見方でしょう。
2.「いわな」の発想。あるいはGNP的発想の批判として
 ここでの「いわな」というのは、太郎の母親が三匹しかいないいわなを全部食べたために龍になってしまったのに対して、太郎が三匹ではなく百匹のいわながあればよかったのだと述べたことを指します。
 細谷はこの章で、このエピソードを、「三つの保育所ではなくポストの数ほどの保育所を」ということと照応する。その意味で「龍の子太郎」は戦後民主主義の公約数的な作品なのであった。」と肯定的に捉えた古田足日の評(「現代児童文学史への視点」)と、「国内での矛盾を外国を侵略する事によって解決しようとする思想と、(中略)同一のものだ」とかなり過激に否定した勝原裕子の評(「松谷文学の思想性」)の双方を紹介していますが、結論としてはハッピーエンドで終わるこの作品に対して疑念を表明しています。
 これは、この作品を描いた1960年においては、松谷が戦後民主主義や労働運動などに明るい未来を信じていたのに対して、70年安保における革新陣営の敗北という苦い体験を経た、この論文が書かれた1974年には、細谷が民主主義や民衆の団結に対してシニカルな視点を持ったことによって生じたものと思われます。 
 そういった意味では、作品成立時の歴史的な背景に触れずに批判するのはあまりフェアではないでしょう。
3.「民話」の発想。あるいはモザイク的民話観の批判として
 ここにおいて細谷は、松谷の作品が、「民話」の語り手とは断絶を起こしていて、上層文化的発想である「献身」の美学の中にとどまってしまったと批判しています。
 しかし、松谷の発想はもともと戦後民主主義の文学の創造にあり、「民話」はもともとモチーフにすぎないのは自明であって、それでこそ「創作民話」という新しいジャンルが開拓されたのですから、細谷の批判は当たっていないと思われます。
 以上の三つの論点における松谷と細谷のギャップは、1960年から1974年というわずか14年の間に、同じ革新側にたつ作家と評論家においてさえ、前述したような大きな変化が生まれたことを物語っています。
 細谷の論文が書かれてからさらに四十年が経過した現在では、経済的な発展がかならずしも民衆の幸福をもたらさなかったと同時に、新しい貧困や格差の時代にどう対処すべきかという問題も生じています。

日本児童文学 2014年 10月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小峰書店
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