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聖なる叡智 アヤソフィア




聖なる叡智、アヤソフィア。

80年代に初めて訪れたイスタンブールでの、わたしの一番の目当ては、前回書いたグランド・バザール、そしてアヤソフィアだった。

今でもそうかもしれない。
アヤソフィアの、世界の中心にあって世界を睥睨するたぐいまれな美しさは、そのままイスタンブールの歴史に重なる。


歴代東ローマ皇帝が戴冠した堂内の位置。
堂内の中心とはわずかにずれている。というのはもともとキリスト教の聖堂ゆえエルサレムの方向を向いてい、
しかし皇帝戴冠の場といえども、ど真ん中に置くのは恐れ多い、というので。

多少ずれているといえば、モスク内でメッカの方向を示すキブラは、(本来はキリスト教聖堂ゆえ)
エルサレムとメッカの方向の角度分がずれている。おもしろい!



世界で一番美しい大聖堂だと思う。
特に大円蓋の重量を支える穹隅(ペンディティブ)に現れたセラフィム(熾天使)。


セラフィム(熾天使)は、その名の通り燃えさかる天使で、天使の位階の一つ。最高位に置かれる場合も。
3対6枚の翼を持ち、2枚で頭を、2枚で足を隠し、2枚で羽ばたき、「聖なる、聖なる、聖なる」と謳う。



スタンダール・シンドロームに襲われるくらい。




アヤソフィアは、350年ごろ、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)に、ギリシャ正教会として、コンスタンティヌス大帝が着工、子のコンスタンティウス2世によって完成された。


モスクゆえ、ビザンティンの美しきモザイク画は塗りつぶされるか、このようにカーテンで必要に応じて隠せる仕組み。



13世紀の第四次十字軍時には、ヴェネティア共和国の主導によってラテン帝国が成り、60年弱の間、ローマ・カトリックの大聖堂として利用された。

1453年、オスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落から、1931年のトルコ独立時までモスクとして改修を重ねる。

2020年までは博物館化されていたものの、ポピュリスト・エルドアン大統領の公約の元で再びモスクとなった。





だからわたしはイスタンブールは4回目でも、モスクになったアヤソフィアを見るのは初めてなのだ。

ローマの支配者の象徴、アヤソフィア、なのである。




火災で何度か焼け落ち(今と違って屋根は木造だった)たものの、537年に完成した3度目の建築が今に残る。


「しかもエフェソスのアルテミス神殿やエジプトのヘリオポリスなど、古代建築の円柱や大理石がふんだんに使われた床、そして大円蓋はー幾度か部分的に崩壊したとはいえー創建当時のままである反面、内部装飾の多くはモザイク画はレオーン3世(717−741)の聖像破壊運動イコノクラスムによって失われ、いまも残るモザイク画は帝国全盛期にあたる9世紀以降に作られたもの」

「しかしなんといってもこの建物を世界で唯一無二となしたのは、直径約31メートルの大円蓋を地上41.5メートルの高さみに持ち上げた建築技術」

「辺境からこの伽藍を国境の向こうに遠望してきたオスマン帝国の人々にとってアヤソフィアはルーム(=ローマ)の象徴そのもの」

「アヤソフィアを模し、洗練させた建築様式こそがオスマン・モスクの主流となって現代トルコのモスク建築にまで受け継がれている」「アヤソフィアを支配する者がイスタンブールを支配し、しかして世界を収めるというわけ」だ。(以上、引用は全て宮下遼著『物語 イスタンブールの歴史 「世界帝都」の1600年』  より)




もちろん神様...いや猫様も


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