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ボスポラス海峡の「宝石箱」に夢中




古今東西、人と文明が出会い、衝突しては収斂し、あるいは分散していくこの上もなく豊かな都市...

イスタンブール、いや、コンスタンティノープル、と今でも呼びたいくらい。


そういえば最近の研究の成果では、インド=ヨーロッパ語族のふるさと、母体となる言語はやはりこの辺り、黒海周辺の発生だったという話だ。ワクワクしませんか。
何世代も語り継がれた「ノアの方舟の大洪水」も、黒海の洪水だったのではないか、という仮説もある。


「シャーベット」はトルコのこの飲みものが語源だそう。
果汁と砂糖を合わせて氷で冷やした優雅な飲みもの。こちらは薔薇のシャーベット。甘い



人と文化の岐路ゆえ、食べ物のうまさは言わずもがな。
世界三大料理は中華料理、フランス料理、トルコ料理、ということになっている(日本料理を入れたいところだ)。
個人的には「エンペラー」がいた(いる)ところは食べ物がおいしいのでは? と思っている。




以上4枚の写真は現ケンピンスキ・ホテルとして使われている、19世紀のチュラーン宮殿
(スルタン・アブデュラルジズによる建築。ちょうどオルハン・パムクの『ペストの夜』を読書中だったので臨場感抜群だった!)
設備が古いながらもなかなか良いホテルだった。



わたしが熱を上げているのは、ビザンティン帝国や古代ギリシャの残り香、そしてある時期のオットマン建築だ。

オスマン帝国の歴史は長いうえ(13世紀から20世紀初頭まで。コンスタンティノープルの陥落から数えても15世紀から)、それまでも、それ以後も、地理的、文化的にさまざまな芸術から影響を受けた。
ビザンティン、ペルシャ、セルジューク・トルコ...

18世紀以降はオスマン帝国が他地域にオープンになるにつれて、ヨーロッパ文化が入り、仏王ルイ15世の治世下のロココ様式(バロック様式の一派としての)、19世紀には新古典主義やボザール建築などの装飾折衷主義が花開いた。

もちろん他地域から影響を受けただけでなく、ヨーロッパにチューリップ・バブルを巻き起こし、偉大なるフランク=ロイド=ライトがオスマン建築から影響を受けたというのだから!




さて、建築といえばオスマン建築はモスクや泉亭の美しさは言わずもがな、であるが、モスクはアヤソフィアを前回称えたし...

わたしがなぜか惹かれてしょうがないのが「ヤル」と呼ばれるボスポラス海峡沿いに建つ、帝国の姫君が持っていた宝石箱のような瀟洒な別荘である。

マルマラ海と黒海をつなぐボスポラス海峡沿いには、皇族の豪勢な離宮やパヴィリオン、狩猟館などが多いが、ヤルはそれらよりもずっと小規模で、扉を開ければオルゴールが鳴るかのように美しい。




裕福なイスタンブール住民(パシャ(閣下)と呼ばれる宰相など)によってセカンドホームとして使用されたヤル。
今日では620のヤルが残りそのほとんどが19世紀に建てられたものである(最も古く残存しているのは17世紀末のもの)。




伝統的なトルコの家屋のように、細かく加工された木材が主要な建材とし、海沿いを活かし、海にそのまま出られるだけでなく、船着場やバルコニーやパティオなどの実用性と、内装は特にオスマン様式とバロックやロココとの混合。




例えば居間には一般的にクッションを積み重ねることを意図した、低い木製のプラットフォームがあり、パステルカラーの壁画や出窓、レース状のすかし彫り飾りなどが美しい。

まあ、今は完全に改装されて西洋風なのかもしれないが。


狩猟館、キュチュックス離宮。


ネオ・バロック様式のオルタキョイ・モスク。



今回、ヤルの写真集を古本屋で探したのだが、トルコ語版しか見つからず、残念!

ヤルは現在でも家屋として使用されているため、ひとつも見学できなかった(わたしの憧れ、SADULLAH PASHA YALIの内部を見学させてもらおうと、あちらこちらへ問い合わせたものの、無駄に終わった)。

次回、イスタンブールに滞在するのなら、都心は避けてボスポラス海峡沿いのヤルを借りて過ごしたい...






以上3枚もケンピンスキ・ホテルが使っているチェラーン宮殿の写真。
ある夜、結婚式もありました! シックでとてもすてきだった(下から2枚目の写真)!
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