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どこでもない場所、いつでもない時間




夏の海岸の夕暮れが、たまらなく懐かしいのはなぜなんでしょうね
それを歌った曲さえもそうですね
遺跡などもなぜだろう、縁がなくても懐かしい


おとといの続き...


先日から何回かに分けて考えた。

自分の記憶の中にある、懐かしく美しいイメージを再び体験したくて、そこに行ってみることってありませんか?

実際にそこに立ってみると、イメージとは微妙にあるいは大きく違っており、いかにもよそよそしく、「ああこれじゃない」「じゃあこのイメージはいったいどこにあるの?」とちょっと焦る結果になりませんか?

例えばわたしの記憶の中には、故郷・神戸の最高に美しく懐かしいイメージがあり、これはわたしの拠り所でもあるのだが、神戸に帰省するたびにその場所を訪れてみても、記憶の中のイメージを再体験することは絶対にかなわず、余計にフラストレーションを感じてしまうのだ。

「あるよ、あるあるそういうこと」という方はぜひお読みください。
長いですけど。

この、「自分だけの懐かしいイメージ」という所有感と、「それがどこにもないという喪失感」の齟齬はいったい何なのか。

あそこにはもう行けないのだろうか。

先日わたしは「あれは場所ではなく、時間だからもう2度とは戻れないのだ」という仮説(笑)を立てたのだった。


...と、ウロウロしていたら、Aさんが、岡潔の本をご紹介くださって、大きく膝を叩いた。
この本、速攻で購入! 岡潔著「数学する人生」。

このヒントを得て、仮説は撤回(笑)。

自分のイメージの中にある特別な「あそこ」は、場所でもなく、時間でもない。

それは「空」だ。
仏教の「空」。

つまり「関係性」である。

日本語で「空」というと、「無」というニュアンスがあるが、「空」とは「関係性」という意味で、わたしはこれを英語の訳語から知った。

そう考えた理由を以下述べる(というほど大したことじゃないが)。



岡は最初から鋭くこう切り込んでくる。

「『懐かしい』というのは、必ずしも過去や記憶のことではない。周囲と心を通わせ合って、自分が確かに世界に属していると実感するとき、人は『懐かしい』と感じるのである」

自分が確かに世界に属していると実感するとき、人は「懐かしい」と感じる

というのはものすごい直感だと思う。
すべてを言い当てている。

岡は懐かしさとは関係性だと言っているのである(と、もえは思う)!


「自己」というものは関係性である。もっと詳しくいうならば、関係性の結節だ。
だから生まれつき各個人に「自己」というダイヤの原石のようなものが属していて、「こちらが自己です」とそれだけ取り出して見せられるようなものではない。

「自己」とは、世界との関係との結びようで瞬間瞬間に出来上がる関係性そのものなのである。
(つまり「本当の自分探し」はリク◯ートの捏造した罠にすぎず、こんなものの未発見や欠如に悩まされるとしたら無駄である。便宜的に設定するのはありだと思うけど)

記憶や想像の中の美しい思い出や懐かしさも、「これです」といつでもどこでも取り出せるようなものではなく、場と、時と、人と、天気やその時の気分やそれら一つ一つのファクターの結節にできたものなのであろう。

だから2度とは体験できない...


「時間」ではないな、と考え直したのは、例えばわれわれはデジャヴを体験するという。
実際に体験したことはないのに、まるでそのように感じるというのは誰にでもおなじみの現象だ。

「デジャヴ」という不思議な体験は、実際には前世の体験などでもなんでもなく、「神経の”通り道”が違ってくることで起こる脳内の情報処理プロセスに起因」(ウィキペディアより)している、つまり脳の一部のあまりの情報処理の早さに、他の脳の部分がまるでずっと前から知っていることのように勘違いすることから起きる、と。

自分とは縁のない真夏のビーチの夕暮れや、強者どもの夢の跡がどれもこれも強烈に懐かしさを誘うのもここに理由があると思う。

岡の言っていることとは多少ニュアンスが異なるが、普通は時間を伴うことを指す「懐かしさ」にも、実は時間はあまり介入していないことの証明になっているような気がするのですがいかがでしょう。


最後にもうひとつ、「周囲と心を通わせ合って、自分が確かに世界に属していると実感するとき、(つまり関係性が結ばれるとき)人は「懐かしい」と感じる」(カッコ内はもえ)のにもかかわらず、それが次の瞬間には指の間から砂が落ちるようにどんどん失われて行く「喪失感」と常に背中合わせなのはなぜなんでしょうね? 

岡がヒントを書いてくれている。

「自他が分離する前の赤ん坊にとっては、外界のすべてが懐かしい。その懐かしいということが嬉しい」

この赤ん坊の状態から考えると、物心ついたわれわれは「自他が分離してしまっている」人たちである。
赤ん坊が自我を形成するのはラカンによると鏡に映った自分の姿を通してだ。つまりわれわれが自我とみなしているものは自分自身ではなく鏡像という他者である。
ということは自他が分離してしまっているわれわれにとって、「懐かしい」と感じているものは実は自分にではなく、常に自分にすごく似ている他者に属している、目の前のあるのに確信に決して届かないような類のものであると。


ああ、暑苦しい。


でもこういうことを書くためにこのブログが存在するのですっ!
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