goo

マリインスキーの「白鳥の湖」とドラマツルギー




今日も一昨日からの白鳥繋がりで。


学校が休暇中のバレエ公演は、旅行中で行けないかも...と、毎度チケット販売開始の案内とカレンダーを見くらべながら悩む。
今年の夏、一番悩んだのがマリインスキーの公演だ。友人家族が2組こちらへ来てくれる予定と、ベルギー訪問予定にばっちり被りそうだったのだ。
去年は南仏からボリショイのスベトラーナ(Svetlana Zakharova)のためだけに一泊だけ帰ってきたのだったが! すごい行動力に見えるかもしれないが、南仏とロンドン間は2時間ほどなのだ。


結局、アリーナ・ソモワ(Alina Somova)の「白鳥の湖」だけは見られた。
この公演で感じた「不協和音の支配する舞台、しかしそれが意図されたものではなかったにしろ『白鳥の湖』のドラマ的にはそれもありかもしれない」に関してはまた別の時に。また話が長くなるから...

ユリアナ・ロパトキナ(Uliana Lopatkina)の「白鳥の湖」とダイアナ・ヴィシュネワ(Diana Vishneva)の「ロメオとジュリエット」、見たかったなあ(夫のオフィスのどなたかが行ってくれたらしい。無駄にならずよかった)。
ロパトキナ、次回ロンドン公演までに引退しやしないだろうか。


それはそうと、ダンサーの名前を覚えるよりもドラマツルギーの方にずっと関心があるわたしが興味を持つのは、マリインスキーの「白鳥の湖」はいわゆるハッピーエンドなことだ。

無粋なのは百も承知、シロウトの知識の範囲で民話の類型的な分析をしてみる。


オデットは冥界の王ロットバルトの花嫁である。
「白鳥の湖」の登場人物で、クラシック・チュチュを着ているのは人ならぬ者である印だ。白鳥に姿を変えられたオデット姫も、彼女の侍女たちも当然この世のものではない。
ヤマトタケルが死後白鳥になったされるように、白鳥を死後の世界と結びつける文化は少なくないに違いない。

通過儀礼を経て大人になる時期を迎えたジークフリート王子は、花嫁を決める前夜、儀礼を受けるため冥界に迷い込む。彼が迷い込む「森」はあの世の象徴だ。ご存知のように通過儀礼に合格した者だけが、晴れて成人として社会に迎え入れられるのである。

彼が冥界で出会ったのが冥界の王の花嫁としてのオデット姫だ。
彼の通過儀礼としての試練は、「一人の女に永遠の愛を誓う」ことである。うむ、一人の女を永遠に愛するには強い意志と絶え間ない努力が必要だ。いずれは王になる男にとって、強い意志と努力は絶対不可欠な資質ではないか。

その試練を受けて立つことを誓った王子は現実世界に一旦戻ってくるが、まだ覚醒しつつある状態だ。なぜなら通過儀礼は眠りの状態に象徴され、完全に目覚めた後(成人後)は、眠りにつく前(通過儀礼前の少年時代)のことはすっかり忘れてしまうことになっているからだ。

花嫁を決める日。
彼が成人するにふさわしいかどうか試験を受ける場だ。
目の前にオディールという大変魅力的な女が現れる。オディールはもちろんオデットのもう一つの姿だ。
王子は眠りの状態で経験したこと、つまりオデットに出会ったこと、オデットへ誓ったこと、自分が試されていることを忘れかけている。彼はオディールと嬉しそうに踊りながらもふと「えっと、何か大切なことを忘れてない?」と立ち止まるのだが、ついに彼はオディールを選ぶ。

ロットバルトの高笑いとともに眠りの状態で経験したことを思い出した彼は、自分がオデットを失い、同時に通過儀礼に失敗したことも知る。

彼はオデットの元に駆けつけるが時すでに遅し、通過儀礼に失敗した男は死ぬしかないのである。人間の社会には長い間、大人になれなかった男を養うだけの余力はなかったのだ。ましてやそれが王子、いずれは王になる者だとしたら。

二人はあの世で結ばれるだろう。
あるいはあの世で結ばれる...というのは冥界の王の花嫁オデットが気の毒な王子に見せた夢に過ぎないのかもしれない。


マリインスキーでは最後に愛が勝ち、ロットバルトが滅び、二人は現実世界で結ばれる。思いつくところでは他にアメリカン・バレエ・シアターもその筋を採用している。


愛がどんな困難や宿命を乗り越えても勝つというのは人々に受け入れられやすく、喜ばれるだろう。
しかし、人間が長い歴史の中でなぜ「白鳥の湖」系の同工異曲を脈々と語り継いできたかを考えたら、そこには「子供は大人になって社会を永続させて行かなければならない。子供の状態に留まらず、大人になって社会に貢献せよ」という使命があったからとしか考えられない(例えばベルリン国立バレエの「白鳥の湖」の筋は興味深い)。

現代でこそ先進国では子供は大人にならなくても生きて行けるし、一部の大人が社会を運営するのに任せておけばどうにかなるが、部族社会ではそんな甘いことは言っていられなかったに違いない。
愛は勝つというイデオロギーは近現代になってからの甘いお菓子だ。

近代になってこういうお話の中の美しい姫と愛がクローズアップされて、ロマンティックに語られるようになってしまったが、昔は王子の試練物語に重きが置かれていたのではないかと思う。


こんなことまで考えさせるのは言葉を使った劇ではあり得ない。言葉の限界を設けず、それゆえにどこまでも好き勝手に意味の階段を下りて行ける、それがわたしがバレエを好きな理由のひとつだ。ゆえにやたらと説明の多い英語圏(ロイヤル・バレエやアメリカン・バレエ・シアターのバレエはちょっと...だと常々思っている。

まあ、公演中はこんなことを考える暇もなくダンサーの動きに恍惚となって、魂はどこかに飛んでしまっているわけですが。
特にロシア人のダンサーのこの世のものとは思えない言語を超えた美しさは...ジークフリート王子でなくとも夢見心地で「誓う誓う誓う!」と何でも誓わされてしまいそうな美しさなのだ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )