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アメリカン・ヒーローは戦う
ディズニー映画のピクサー作には「そのネタ!目のつけどころ!どうやって思いついたん?!」とか、「歌枕の選び方にくすぐられて、たまらん」という作品があり、引き込まれるようにして見てしまうこともある、というのは認めよう。
トイ・ストーリー3を見た。
わたしは3Dの良さが全く分からない眼と脳の持ち主なので、普通のバージョンで。
まあそうでなくても、わざわざ3Dにして見せてくれなくても、人間にはパースペクティブを勘定に入れる能力がきちんと備わっていると思う。最近やたらと粗製濫造されている3Dの多くは、なぞりテロップを乱用する低能なTV番組に似たあざとさ、くだらなさにあふれていないか。
ピクサーは、例えば動物やおもちゃやモンスターや機械など、われわれとは通常のコミュニケーションが取れない「彼ら」との話を作るのが巧みで、わたしのような人間でさえもじんとさせられたりするのだが...
これらのシリーズを見ていると、この世には絶対的な悪があり、その悪を外科手術的に摘出することによって平和は回復される、という単純なシナリオをアメリカが好んで採用しているということがよく分かる。いやもう子ども向け映画だけでなく、政府から社会運動まで。ウディ対ロッツオ、ブッシュ対フセイン、アメリカ対ソビエト。
それ以上に恐ろしいのは、アメリカは自分たちが絶対的な悪の位置に立つ可能性がある、とは決して想像することができないことだ。
ありがちな、「平凡な若者が、ある日突然選ばれしものとして指名され、ブレイクスルーを通じて超人的な成長を遂げ、悪を倒し、世界に平和がもたらされる」というパターンにしても(アメリカは自分自身の建国とこれまでの歴史を「平凡な若者」になぞらえているはずだ)。
白か黒か、善か悪か。
でもまあ「限りなくグレーだよね」とか言い始めたら、アメリカはアメリカでなくなってしまうような気もする。
ヒーローは始まりも終わりもない「グレー」とは戦えないのである。
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