とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

自民党への投票について

2023-10-05 02:15:27 | 国内社会批判
自民党への投票について。
私が今までどこの政党に投票してきたのかはあえてはここで書かない。
また仮にこの記事を読まれる人がいたとして、その人がどこの政党に投票してきたのかも問わない。
これは一般論として考えるべきことを書きたい次第である。

まず、我々の投票を判断するスコープが数年、ひどければ直近数ヶ月のみに絞られるのを見直した方が良いように思う。
例えば、「数ヶ月以内にあの党はこういうことをしたよね」だとか「数年間あの党はこういうことをやってきた」と言うものだ。

そうではなく、今までの数十年間においてその党は何をやってきたのか、あるいはその所属政党が消えたり生まれたりした時には、その党を構成する候補者がいた政党は何をやってきたのか、と言うのを棚卸しして、評価する必要があるのではないかと考える。

仮に今の自民党に投票するかどうかを考えたとする。
その時に「岸田政権はどうであったか」を考えることもまま必要であるが、「今現時点での日本と言う家屋を建築してきた建築家たる自民党の政策は、数十年前にスタートしたその政策について、その数十年後の今になってどういう実を結実させたか」と言うことも全体として見て、評価すべきなのではないだろうか。

今の岸田政権は非常によくやっている。しかし、数十年前のあの政権の時に大失政をしたツケが今になって構造的に降り掛かっているので、それの精算をきちんとした方が良いのではないか、そういう意味で「岸田政権は非常に評価をするが、今までのツケを精算するために自民党には投票しない」と言う選択肢があっても良いように思う。これまでの来歴とそれによって到来した現在の日本を評価し、過去の分まで含めて評価をすべきであると考える。
無論、この逆「岸田政権に対して評価をしないが、今までよくやってくれたので自民党には投票する」と判断したならば、そう言う行為があっても然るべきである。

これが無ければ、以前の執政者は永遠に反省をすることがない。
「日本国民はバカなので、数十年後には皆忘れている」と言う国民をナメた真似をさせてはならないのである。
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クレヨンしんちゃんの新作映画について(2)

2023-10-05 02:02:54 | 映像作品
「とべとべ手巻き寿司」の件。
つづき。雑感なのでまとまりなし。

おそらく製作期間的には、「構想を含め、製作期間は7年」と言うことなので、スタートは2016年前後から。

その途中で映画JOKER(2019年)など、これらを含んだ社会情勢が背景にあったことによって、弱者男性の暴走と救済と言うテーマも急遽盛り込まれたのだと思う。

が、本来救済されるべき対象のヴィラン(悪役)は「頑張れ」と言う応援によって救済の決着を与えられたと言う。これが余りにも不評である。
おそらくこれは、1960〜1990年前半でやる分には大正解だったはずである。
今では不正解だ。個人の努力は構造を超えない。

ではどうすれば良かったのか? 

これは映画製作のためのストーリーライン、プロット構築には向いていないが、「『理想的な』現実論」としての線を引いた場合、次のようになる。
・同じ境遇でそこから脱した人を引き合わせる。
・それをロールモデルにし、人生の生き方をコピーしていく。
・コピーした人間が集団になって大反乱で、社会的に繁栄。

当然ながらこれは「『理想的な』現実論」であって、「『現実に作る映画としての』現実論」には向いていない。それの現実的に人間ができる実装の一例が今回の映画であったと思う。

ともかくも、各レビュー動画を見ての感想は、監督の時代感覚が合ってないと思った。

人間には変わるところと変わらないところがある。
変わるのは仕事形態、雇用形態、生活形態、精神形態(努力や克己や理念に生きるなどの方向性や度合い)、富の状態、権利の状態である。これが昭和後期から令和にかけて変化した。

変わらないのは、社会的弱者の発生と心理的・経済的救済、欲望、富の収集、死の恐怖と救済、病気になることへの恐怖と救済、美男美女、超能力、神、最新テクノロジー、華麗なる衣服や化粧・髪型など。
(他のエンターテイメント要素としては、日本刀、忍者、侍、ギャグ、音楽など)

変わるところは敏感に察知してその時代に併せ、変わらないところを主軸のテーマにして、その中のストーリーのもたせ方を軸をそのままに、時代に併せて実装を変更をすると言うのがいいのかなと。


余談1。
映画での上映方法について。

実験的要素としては水しぶきやエアー、香りを出すなどもあった。
あとはニッケルオデオンなどでのサイレント映画に生演奏で伴奏していたやつかな。

余談2.
それはともかくも、映画と言うものは、大衆社会が求める内容が変化する。

例えば、大量消費社会において、大衆が見たいものが優先して製作される現代においては、火垂るの墓の製作は絶対にありえないだろう。これは社会意識と監督自身が持っている社会問題のテーマ、あるいは娯楽がまだ比較的少なかったあの時代の要請によって作らえた作品であったのだろうと推察する。

ん? 絶対にありえないとは書いたが・・・この世界の片隅には製作されたな・・・


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