アニメというものはとかく偏見の目で見られがちだ。世に溢れるものは子供向け、あるいはオタクやマニア向けに作られていると認識されている。私自身はアニメが好きなのであるが、一般的に認識されるアニメオタクとは少し違う(という自分がかっこいいという認識はしていないつもりなのですが・・・)。
どういう事かというと、一般的にアニメがすきな人はその登場人物に擬似的な恋をしていたりとか、あるいはもっと広範的な意味において、視聴者側の立場で面白い/面白くないという判定を下している。
しかし、私自身はそう考えない。アニメというのは少ない予算で自由な表現をできる映像媒体なのだという認識をしている。実写のように巨大なセットを作らなくても迫力あるシーンは作成できるし、超人的な動きをする登場人物の描写については特殊効果も必要無い。
この意味においてアニメとは偏見の目で見るべきではない。アニメとは人間が造る芸術作品における表現の幅を広げた手法なのだ。
その作品を映像作品としての手抜きは認めない、という一点において譲れないという意味で私はオタクである事は認める。
例えば押井守監督のAVALONやINNOCENCEは本当に素晴らしい作品だ。表現手法の限界までチャレンジしているその姿勢はその芸術史から賞賛されるべき存在だ。
一般的なアニメについての認識は、アニメとは気持ちの悪いオタクが見るものという偏見が存在する。ただ、そうした認識を持っている方に言いたいのが、よくよく考えてみると、宮崎アニメなどに代表されるようなさまざまな表現というのは、それは実写で製作可能であったであろうか、という命題である。表現手法や、あるいはそれが映像化が可能だっただろうかという視点でアニメを見て頂きたい。きっとそれは不可能に違いない。アニメでなければ表現不可能という部分がどの作品にも必ず見つかる。そうすれば、私と同じ、一般的な認識とは違ったアニメの評価ができるのではないだろうか。
話しは一旦それるが、映像作品を作製する上でより良いものを作ろうとした際には、やはり予算が必要になってくる。
映画などの映像作品を私は作った事が無いが、想像すると製作過程で次のようなしがらみがついてくるのではないかと危惧する。
例えば実写での映画を作るとして、単にプロット、原作、ストーリー、脚本や演出などの俗に「映画製作のような映画らしい事」をする前に、多種多様の調整が必要だ。見込み予算はこれだけで、スポンサーを集めて、芸能事務所に連絡して、俳優集めて、資材、大道具、小道具、衣装、撮影場所の調整、広告を電通とか博報堂とかに頼んで、主題歌はあそこからタイアップするから大丈夫とか言われ、あるいは俳優が所属する芸能事務所と契約する時に、もう2人追加しないと主力の俳優は出せないとか言われ、ストーリー上に原作には無かった脇の登場人物枠を二人設け、まだ上映する前なのにDVDは何枚出しましょうなどの商談が持ち込まれ、そしたらちょっとお色気シーンとか入れないとやっぱりまずいとか言われ、でも過度にやってしまうとスポンサーから苦情が来てしまうから、過度にならず、売り上げもそこそこに見込める表現をetcetc・・・。
という事をやっていれば、映像作品を作る前に本当に監督が作りたかったものを作れず、いつの間にか当初作りたかった予定のものとは違うものが出来上がっている。
日本の映画界がなかなか躍進できないのは、そうした枠組みが強固に構築されているからではないかと想像する。
しかし、アニメというものはそうしたしがらみというものが取っ払える余地がある。確かに上に挙げたしがらみのいくつかは存在するのだが、制限が無くなる事により、表現の幅が増えて監督がやりたい事ができるのだ。
そうした中で日本のアニメは最先端を走る事ができたのだと思う。少なくとも、実写の映像作品に比べて何かにチャレンジしたという前衛的芸術姿勢を構築するのに妥協を許さなかったという男気を見せた作品については、私は何であろうと評価をしたい。(上から目線の言い方だが)
だが、そんなアニメにもやはりピンとキリがあって、そして更には通俗的にピンな作品が高評価を受けていたり、キリの作品が全く評価されなかったりするケースもあったりする。
そうした傾向がある場合には、これをやってれば視聴率は取れるだろう、あるいは資金回収できるだろうというような流れができてしまうのだろうが、私の心情としては、そんな安直な作品は絶対に認めない。
名前は挙げないが、今現在数十年間ロングセラー的に放映されているだろう某アニメがそれだ。少なくとも私はここ5年から10年はそれを見ていないが、その製作傾向は変わっていない筈だ。脚本は酒でも飲みながら作ったのかと思わしめるほどのクズプロットのオンパレードにも関わらず、この視聴率不況のご時世の最中、安定した高視聴率をカバーしていると聞く。
子供向けのドラえもんやアンパンマンやクレヨンしんちゃんなどであれば全然構わないが、大の大人も見ているのですよ。そんなふにゃけた態度で作られていては、視聴者をバカにしているのかと、こちらが怒るしかないじゃないですか。いや、確かに完結した作品から違う脚本を作るのは大変でしょう。その苦労は分かります。しかし、私はそのアニメの原作となっている作品を愛している。その原作にあった良い部分をアニメに載せて発信して欲しいのだ。だが、人気作品という事に胡坐をかいたこの製作姿勢は一体なんなのか。私は原作を侮辱するに似たこの行為に怒りを覚える。そして、こんな作品では作者も怒る。お亡くなりになってしまったからと言って、原作を無視してこういうものを作ったのでは、それはやりすぎなんじゃないか。あるいはこれを見続けている視聴者も相当だ。機会と惰性と言う事なのだろうが、彼らは本質的に面白味を感じていないのは分かっているだろうにも関わらず相も変わらず惰性で見ている。なぜ視聴していてブルーになるものを見る必要がある?
私は芸術なんて勉強した事が無いから偉い事などは言えないけれども、ただ日本人の一般における芸術性の限界がここに集約されているような気がしてならない。日本でのロングセラーにも関わらず、海外のアニメマニアからはとんと見向きもされないのは、この作品における先進性、芸術性、あるいは表現へのチャレンジや努力が皆無だからなのではないか。
ふと気付いた事があったのでこれも書いておくが、かなり昔、「まんが日本昔ばなし」というアニメでの「三枚のおふだ」という作品が作られたが、上記のアニメと絵柄が良く似ている。「三枚のおふだ」も私は好きだが、それはその当時のアニメ技術の最先端だった事が見受けられるからだ。上記のアニメに戻って言い換えれば、この数十年間高視聴率を記録していたにも関わらず、技術的には何もしていなかったので、絵柄に関しては「三枚のおふだ」の時代より何の進歩もしていない。この作品が日本のロングセラーと外国の方が聞いて、日本人はクレイジーだ、あるいは、このクレイジーが良い方に突き抜けているという意味でのクレイジーではなく、本当の意味で頭がおかしいと言われても私は反論ができない。
と、低評価を下してみた。上記の作品はもう見る気はしない。
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上記とは別途、最近の作品はどうなっているのだろうと言う興味はある。昨今人気と言われる作品を見てみた。
結果、私は失望した。内容がそもそも無い。いや、エンターテイメントであればアニメの姿としてはこれで正しいのだと思うし、世間はこうしたものを求めているのだろう。
しかし私自身は次の事が不満だ。まず、設定やキャラクターが魅力的であるというのは作品にとって必須でヒロインはそれを満たしているが、主人公の性格は良いか悪いかと言えば悪い。キャラクターづくりが練られていない。そして、その後のストーリーや中身が無い。原作から取ってきたであろうセリフ回しが非常に安直、陳腐、どこかの作品の使いまわしとおぼしきものでも、視聴者はそれを何にも言わない事。オープニングもありがちで単調だ。
しかし、基本はパロディーや他作品のネタ盛り込みが何なのかというのを探っていく点についは非常に秀逸なので、ツボに入る人には入るだろう。
私が不満なのはそうしたコアな層を対象にしているのにも関わらず、コア以外の層も盲目的に賞賛している点だ。
そして肝心のストーリーと登場人物のセリフが、主人公危機→謎の美少女登場→主人公助ける→翌朝→「それより夕べの事を詳しく説明してくれないか?」「そんな事よりなんで僕が追われて」「大体お前何者だ?」これがどこかのパロディであるなら仕方が無いが、よくあるストーリーにあったセリフの使い回しで手抜きにしか見えない。
こうした汚点が全て優れた作画と声優によってカバーされてしまっていて、問題の本質が見えてこないのも問題だ。そもそも主人公の性格が最悪なのはなぜだ。主人公自信の個人が持っているポリシーとその周囲に登場した新しい環境のギャップによるジレンマを描ききれていない。キャラクターづくりがうすっぺらでNGだ。
ふと思ったが、ひょっとして美少女ものは全てこんなノリなのだろうか。だとすればもうこのジャンルは見る事は無い。美少女を出しておけば資金回収できるという発想のみで作られ、監督やその他製作チームの心意気が感じられないのであれば鑑賞する事は時間の無駄だ。
が、この作品を愛する人は気を悪くしないで頂きたいのです。細部に渡って職人芸が光るこの作品は男気というものが存在します。
しかし、ここで言いたいのは美味いパフェを食べて美味しいと言いたいのか、美味いカレーを食べて美味いと言いたいかくらいの違いしかなく、酒飲みはどれだけ超絶的な技巧を凝らしたパフェを食べても美味いと言えないのです。
であるので、この最近のアニメとした作品は、私の趣味の範疇ではなかったが、それでも拍手を送りたい。これは大変良い作品だ。
そして一番最初にけなした手抜きであるにも関わらず、高視聴率・ロングセラーである、ある種カップラーメンのような作品は、やはり私にはそのくらいの価値しかない。何よりも職人技のように作られた技巧のラーメンのような存在であった原作を、カップラーメンのような大量生産品まで落とし込んだ罪は海よりも深く、原作を冒涜するが如きの所業に対して、怒りを覚えるのは到って正常だと思うのだがいかがであろうか。
いや、カップラーメンはそもそも経済的に困窮している層に対し、その飢餓を満たすのに有用であった。そしてそれは一種の社会的革命であり、社会的貢献であった。カップラーメンを引き合いに出すのは、カップラーメンに対してある種の失礼かもしれない。
カップラーメンのようなアニメを見ていて満足している層を見れば、文化的な映像作品の供給に困窮しており、実は大衆レベルで言えばそんなに高級なものを提供しなくても良いという芸術の境界線が見えきっているというのがわが国の現状ではないだろうか。
このカップラーメンが高視聴率を記録している話は残念ながら常に聞く。視聴率が下がったと言う話は絶対的に聞かない。このカップラーメンを恒常的に欲している国民性が実に悲しく思えてならない。