とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

貴乃花はなぜ協会から怒られるのか? マフィアと検察と海保と私の考察

2017-12-30 10:55:48 | 雑感
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ミシェルへの反論 「資本主義の世界史」の序文に添えて

2017-12-30 10:19:54 | 貨幣・財政・会計・経済
資本主義の世界史 ミシェル・ボー ⅱページ


この世紀の転換点にあって、我々はその振幅からして、約束も脅威をももたらすと同時に、また無数の可能性を開くまさに"世紀の「大反転」"とも呼ぶべき例外的変化を日々生きている。
これらの変異は数世紀にわたる進化のプロセスの最後を飾るものである。


これは少し文章が悪い。
「進化のプロセスの最後」と表現しているが、あたかも現段階の変化が起きた後は、変化や進化が起きないかのような書き方だ。これは良くない。
おそらくは、lastに当たるフランス語を最後と訳したのか、それとも元々著者のミシェル・ボーがそのような文意で記載したのかは分からないが、ここは「最後」ではなく「最新」の方が適切ではないだろうか。

資本主義による資本集約と、それの再投資による技術革新の好循環作用はこれまであったように、未来にかけても止まることなく、我々の生活様式、社会様式を徹底的に破壊し、再創造する。
よって現時点での時代が最後ではない。
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人類史における社会動態(経済含む)における例外的変化とは何か

2017-12-30 10:12:33 | 貨幣・財政・会計・経済
資本主義の世界史を読むと一文一文に触発されて、頭がパンクしそうになるので、整理と吐き出しがてら、これを書くことにした。

ミシェル・ボー 資本主義の世界史 ⅱページ

この世紀の転換点にあって、我々はその振幅からして、約束も脅威をももたらすと同時に、また無数の可能性を開くまさに"世紀の「大反転」"とも呼ぶべき例外的変化を日々生きている。


この文章は何を指し示しているのか、可能な限り、丁寧に追って行きたい。

上記の文章が表現したいところは、私なりに咀嚼すると次のようになる。

「中世から近代にかけてのみならず、通常の人間と言うものは、生活が恵まれているならば、日々平穏に変わらぬ生活を送りたいと欲するものだった。そんな姿が我々人間の一般的イメージだと考えることができる。今まで通りの食事をし、今まで通りの服を着て、今まで通りの住宅に住んで、やっている仕事も一生同じもので、同じところに住み続けて、雇用やエネルギーの心配もなく・・・
 だが、昨今に至ってはその希望は叶えられなくなるようになってしまったように見える。技術の革新とそれに伴う雇用の喪失、経済の停滞やエネルギーの不足問題、民族集団の不満、そしてそこから派生する戦争・・・。世の中は激動の潮流に飲み込まれ、そこで生活する人間も、上述したように本来は変化しない社会があり、その変化しない生活を平穏に送りたいというささやかな渇望を保持していたはずであった。だがしかし、人間は自分の作り出した変化に、自分自身が対応せざるを得なくなった皮肉が発生した。」と言うことが、上記の文章で示したいことになるように思う。
人間が生きていたいと言う心理的な”定常”とは別に、人間自身が「資本と科学技術の発展から激しく変化する居住社会」を生み出してしまったがために、元々あった欲求心理とは異なる”例外”を生きざるを得なくなったと言うアイロニーを、この文章ははらんでいるのである。

確かに我々は、定常を求めながらも、その社会潮流に対応するため、日々変化に対応せざるを得ない生活を送っている。我々の社会様式、行動様式、思想様式、経済、生活、人生そのもののあり方まで、それらに対する変化の法則が一切見えず、先の見通しが立たない社会を生きている。

さて、社会の中で変化していると言うそれは、具体的に言うならばそれは一体何か。
日毎に革新されていく技術、それによって失われる従来の産業や誕生する産業、そしてそこから派生する雇用の喪失と創出、生活の不安定性・・・

従来社会であっては、成人になるに当たって、人がその人間の職業を決める時には、その職業の仕事をして一生を過ごせるはずであった。
しかし現在の昨今は、まず工業などの産業トレンドが30年で切り替わるのに対して、人間の就業年数が40年なので、人が産業社会で生きるならば、それはかならず会社自体の事業変更や、あるいは、就業者本人の転職を余儀なくされることを意味している。
半導体技術や原発技術、パソコン技術で食っていた大企業は、その採算性から経営母体から事業を切り離したり、合弁会社で乗り切らざるを得ないような形になっている。

日本においては、この船に乗って人生を捧げますとか言わなければ許されない雰囲気だし、そうでなければ人としてのモラルがないとまで言われそうな感覚なのであるが、川の長さが40〜45mあるのに、その船は30mしか渡れないと言う状況で、明らかに乗り継ぎの準備をしなければいけないところだろう。こと、日本の企業にスポットを合わせて言えば、日本の企業と言うものは、会社に一生在籍することを意識の上でも制度の上でも従業員に対して暗黙的に強制する。「この船で川を渡り切ります」とセリフを言わせた上で、30m(あるいはそれ以下)しか渡れない船に乗せた上で、45mの川を強制的に渡らせるのだ。日本の企業経営とは、その従業員の人生を全く保証しないと言うサディズムを発揮し、それに気づいていない暗愚で愚鈍のままか、もしくは気づいていてそうした抑圧性を黙認している。ノブレスオブリージュの真逆を行く組織からの虐待性を暗に是認しているのだ。

もう少しだけ言うと、日本においては「この会社に骨を埋めまする」などと言う殿様家来の時代から続く旧態依然の思考慣習と、それによる採用と人事、組織構築を行なっているがために、組織をフレキシブルに構成できず、実力ある人間を中核に据えることができないまま会社組織が継続している。これでは海外に負けて当然だ。

人に一生の忠誠を誓わせている割には、その人の一生を保証しないと言う奴隷労働さながらの惨状が、問題意識もなく横行しているのが日本の社会病理なのだ。

最初の話題、「変化を感じたくないが、変化の波にさらされざるを得ない社会要素」の話に戻ろう。技術や雇用、生活基盤やその構成のやり方の他、人によっては、株式の変動や、ビットコインなどの金融派生商品の取捨選択などもあって、こうした社会の副次的、高度的な媒体も含めていいだろう。
まさに生き馬の目を抜く社会にあって、人は自分の生活や人生、あるいはそれを取り巻く社会を倫理的にどうすべきだろうか。

ただ、現代社会に生きる我々は人間の根幹に根ざした考察を行う余裕がない。



先が見えないと言うのは、法則が定まっていないように見えたり、あるいは、法則が定まっていても、それが一般的に知られていないからそのように思えるのである。しかし、海の上は波が荒れていても、極大的な視点で見ると世界は変わらぬ社会法則で動いていることが分かる。

そうした法則や傾向が見えれば、我々も心の準備が、あるいは来るべき変化に備えて迎え討つ準備が、あるいは未来に向けての理想への助走ができるかもしれない。
これを考えていこう。

人間社会の社会法則とは、私が考えるに次の要素からなる。

・集合し、群れを成すと言う、集団結合欲求
・言語を使い、生物個体における体験や経験、考え方を、次の世代に残すと言う、社会文化、民俗習慣的な二次的行動特性(これは俗に文化や、あるいは風土と呼ばれる)
・道具を作り、生存に利便性や娯楽をもたらす。
・食糧やエネルギーが不足した際には、他集団を襲う。ニューギニアの先住民が農地を争って槍を投げあうのも、湾岸戦争前のイラクや現在の中国が地下資源を巡って他領土へ侵攻するのも、アメリカがイラク石油省を抑えたのも同根である。


ミシェルが言及している、「世紀の大反転」とは何を示しているのだろうか。
これを私個人が考えうるには次のように整理できるので、記述しがてら整理し、書き出していこう。
本来であるならば、人間は集団社会を建築・構築し、そして一定の近代までに見られた生活様式からは逸脱できない繰り返された生活と、そこから得られる安定した生活・人生があって、そこでは思考や行動様式が変わらないはずであった。

そうした原始共産制に似た一定の文化様式の生活、及びそこから派生する地域社会と国家、あるいは世界のありようや世界の成り立ちこそが、人間の本来あるべき世界であると言う心理的背景を、この文章の前提としてミシェルは論述しているのだろうと類推できるが、人間が守るべき文化的行動ラインを守り、永続的に進むであろう周期的慣習を保持すると言うその絶対法則が、今や反転も反転、「大反転」とも言うべき様相を見せ、人間が自ら守っていた、宗教的であり、伝統的であり、慣習的であり、本能的な傾向と法則ですらも超越した新しい社会が、社会学的に人間社会の必然として到来することを予期している文章となっている。

以上である。


余談だが、この著作の一文一文に刺激されて、いちいちこんな文章をまとめているのは労力がいることではあるが、しかしこれは必要なことであり、そして、こうした読み方こそが本来本を読むのに正しい姿勢だと思う。



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愛憎乗り越えて討つ決意もまた必要

2017-12-30 00:20:58 | 雑感
人生に目標がある人間は、その抱える課題もまた様々だ。

自己実現であったり、あるいは平和な家庭を持つことであったり・・・
極稀に職務遂行であったり、あるいは復讐などのために人生を委ねる場合もある。

それらはおおよそ一括して、「天命のまっとう」と言うものに集約される。
自分にしか乗り越えられない課題であるからこそ、運命的にそうした使命が授けられたのだと解釈して理解し、遂行する。

仮に復讐を成す場合、それは別に相手にあだなすことだけが復讐ではない。
公に裁判を求め、公正な情報を残し、歴史に判定を委ねることでもそれは可能だ。
それを後世の日本人のみならず、海外にも広く知ってもらい、永遠不変に文書として残す。
それが人間社会にとって一番有用であり、そして個人として献身すべき活動の内容だ。

そうした時、仇のある相手に対し、戦っている自分自身が相手の生活や人生を慮り、手心を加える心情も出てくる。
これで失脚したならば、当人は別にどうでもいいとしても、彼の家族に罪はないのに、そこはどうなる、と心配をしたりもする。

ただ、そうした心配をするからこそ、愛憎乗り越えて討つ決意もまた必要である。
罪のない人たちに被害を被らせる被害を最小限にし、巌に裁判を求める。

そうでなければ、また、自分のような被害者が広範に生まれてしまう。
それであるならば、全ての公的な裁きはどう転んだとしても、全力でやらなければならないのだ。
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フジテレビに出た勝間和代がテレビを批判! 「テレビは時代についていけない60代のもの。 高齢者向けのメディアになっている。」

2017-12-29 20:59:46 | 社会・テレビ・広告・既存市場動向
久々にこのカテゴリーのどストライクの記事。


フジテレビに出た勝間和代がテレビを批判! 「テレビは時代についていけない60代のもの。 高齢者向けのメディアになっている。」
2017年12月29日
http://netgeek.biz/archives/109364

フジテレビの新報道2001に出演した勝間和代が生放送中にとんでもない爆弾を落としてネット上で絶賛されている。
テレビ局から受け取るギャラに依存していない勝間和代だからできるテレビ批判。

―勝間さん、世代のギャップって感じます?

勝間和代「物凄く感じます。上の世代と下の世代が違う国に住んでいるんじゃないかと思うぐらいライフスタイルが違うんですよ。例えばこのテレビ見ている人って何歳だと思います?平均年齢が。私の予想は60代です」

※出演者たちが首と体を斜めに傾け、不機嫌そうにしているのが映る(そう見えるだけかもしれないが)

勝間和代「10代、20代の人たちは地上波を見る習慣が全くないんです。もうテレビをつけたときにはせいぜいビデオサービスを見るか、YouTubeを再生するか」

言っていることは極めて正論で今の若者のライフスタイルを的確に捉えている。スマホを使ってYouTubeを開けば好きなタイミングで動画を見始められるという大きな利点があり、今やテレビの前に座って番組を待つのは苦痛に感じられるようになってしまった。
勝間和代はその後、自身のブログにて話を発展させて大手企業がベンチャー企業に負ける理由についての考察を展開した。

生放送の地上波でこんなコメントをする人はほとんどいないので、SNS系ではよく言った、という声が上がっていて逆に驚きました。私は、もうずっとそれを感じているからです。

そしてこのような情報ギャップやジェネレーションデバイドが、大企業では若年層が活躍ができないという鬱屈感をもたらしていると考えています。幹部は、若年層がやりたいことをネイティブで理解できません。また、古い既存の顧客を大事にしすぎているため、新しいことができません。

なぜ新興企業系、特にIT系の企業の成長率が高いかと言うと、社内にも、顧客にも、成長を阻害するようなオールドジェネレーションがいないからです。

http://katsumakazuyo.hatenablog.com/entry/2017/12/24/101231?platform=hootsuite

文中でマイルドに「オールドジェネレーション」と表現している箇所は要するに「老害」ということだろう。若者の感覚が理解できず、また知ろうともしない老害が古いやり方に固執するから事業は衰退していく。テレビ局はまさにその渦中にあるように思える。

今やテレビは時代についていけない60代のもの。老害の老害による老害のためのメディアだ。


いつでも見られると言う利点においては、ここの過去の記事でも言及している。
別に勝間さんと競争しているわけじゃないけど、向こうの指摘の方が早かったのだとしたらちょっと悔しいな。


映像進化史とメディア(テレビとYoutubeの比較をどう捉えれば良いか) - とめどもないことをつらつらと
2016-02-13 12:05:36
http://blog.goo.ne.jp/booter/e/bcb1736ddf4e98907bfed38f887106b6

映写機が登場した時には、映画館でしか動画映像を見ることが出来なかった。
その内一般家庭にテレビが設置されるようになった(観覧場所からの解放)。
その内再生専用ビデオテープが回るようになった(視聴回数制限からの解放)。
その内、家で録画できるようになった(自己保存ができないという制限からの解放)。
デジタルで録画できるようになった。
Youtubeの登場で、好きな映像を好きな時に好きなだけ見られるようになった。

追記:
それと動画の好きな場所からピンポイントで再生できるのも大きい。


いわばテレビとは音楽で言うラジオの位置なのであって、ネットを通じた配信がなされると太刀打ちできない旧社会の技術インフラ形態なのである。

ただ、災害時にラジオが役立つのと同様、重要な情報がラジオで流れるのと同様、社会の中核的な存在、激動の世の中の一要素として残っていくことは予想される。




新曲が売れない時代性 - とめどもないことをつらつらと
2014-02-15 00:28:25
http://blog.goo.ne.jp/booter/e/f24b843e7dea1e61b6b783a6056fda82

現在はネットの時代に移行した。
昔からの傾向であるが、商業音楽は音質や雰囲気よりも、簡便性と値段の廉価性へと修練する傾向がある。

昔昔の大昔、レコードプレーヤーの無かった時代は音楽と言えば必ず生演奏だった。楽器を演奏できる人を集め、特定の場所で特定の時間にお金を払い、ちょっとこぎれいにして聞いており、今よりもずっと希少価値は高かった。
それが蓄音機の登場となり、家庭でも気軽に聞けるようになった。レコードは当時としては最新のものだった。
それがコンポの登場で更に簡便性が増した。レコードよりも音質は増した。
それがウォークマンの登場により、更に簡便性が増した。CDよりもテープは音質が悪かった。
それがMDウォークマンの登場により、携帯音楽は更に小さくなり、媒体単価も低下した。音質は下がったが、気にするものはいなかった。
それがMP3ウォークマン、ipod、iphoneの登場により、更に小さくなり、簡便性は増した。音質は下がったが、気にするものはいなかった。

昔はテレビを見なければPVは見られなかったが、現在ではyoutubeで公式pvが自分が好きな時にいくらでも見られるようになっている。

要は曲単価が下がってしまったのではないかと見られる。

それに次の二つの理由による曲売り上げの絶対数低下だ。

一つはインターネットでフリーの良質曲があふれて既存の音楽が売れなくなってしまったこと。
もう一つは昔の良曲が残り、トレンドが移り変わらないことで、新曲を出しても、どんどん狭くなるパイにしかならなくなってしまったことだ。

これは現代社会における傾向、価値観の多様化にもつながる。



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