雑感が細かくあるのでこれをメモ。
資本主義全史 的場明弘 P240
<
不合理な投資行動
(中略)
「人は、自分自身の幸運に非合理的な確信を抱いている。これに加えて、彼らは従事している事業の成功の統計的確率を過大評価しがちである」(『カジノ資本主義』小林襄治訳、岩波書店)
>
これは株式投資や金融市場に限って言えることで通常の産業社会にはまま当てはまらない。
と言うのも産業社会は世界人口が存在し、そこに生活する人間が存在し、そしてその生活営為で必要な社会運営を回している際に物品が必要、商業が必要と言う状態で成り立っているので、相手のマイナスが自分のプラスになる、と言うことはあまりない(賭博以外)。基本的に売りても買い手も両者が得をするようにバランスされている。
一方において、金融市場は売りても買い手もバランスはしているが、短期スパンの売り買いは、一方の損が一方の得になるようにできている(長期的には成長する)。
この金融市場において上記の戒めは有効だ。つまるところ、株式売買においては、短期スパンの売り買いにおいては、他者が損をする中でのみ自分が得をする、と言う判断で自分の利益が出ると皆が思い込んで売り買いする。その「自分だけが得をするだろうという見込みは幻想ではないのか」と言うのが上記の戒めだ。
そもそも株式の短期売買は私はかなり懐疑的だ。自分が得をすることによって他者が損をするのである。これは・・・
こち亀の大原部長が「うーん、さすがマイホームころがしのプロ」などと言われていたような気もするが、自身が高値で売るのはいいとしても、次の段階ではそれを高値で掴む中古物件探しの新規ユーザーがいるわけで、それはいいのかと思うのだ。
本来であれば社会に対する職業的良心が無ければいけない警察官がその倫理観でいいのかという・・・
同前P240
<
ジョン・ケネス・ガルブレイスも、こうした投機家の性格を二つのタイプに分類しています。一つは「新しがり屋」というような人たちで、今まではうまくいかなかったが、今回はうまくいくと考える人たちです。新しいことを始めるには、これくらいの確信がないと始められないのですが、失敗したという事実から学ぶことはない人たちがいるのです。今度こそ大丈夫だと確信してしまう人たちです。
もう一つは、流れに乗るタイプ、これはある意味賢い人たちです。今株が上がっているから買っておこうという人たちで、こうした便乗組が株価の上昇を加熱させていきます。
>
私は上記の二者ともどもに注記が必要であると考える。
前者は無思考の猪突猛進タイプで、後者は海の潮流の中で流れを見る魚タイプだ。
前者が愚かで後者が賢いと描かれるが、私個人としては、両者ともどもに一長一短があるように思われる。
まず、流れに乗るタイプでの話だが、「今株が上がっているから買っておこう」と言うのは完全アホ、略して完アホである。高値で掴んでどうする、と。
また、積立NISAや暗号資産を買うことがムーブメントになっていた2〜3年前、それの波に乗っかっていた人はどうなったか。軒並み損失を叩き出している。
正解だったのは2009年辺りでNZドルやオーストラリアドルを購入していた人で、ここが利益が爆増した。この人は市場情報を潰さに収集していた人で、波の初手に乗っかっていた人であって、流れを作る前に乗っていた人だ。流れがあったからさあ乗ろうだと完全なる養分になるしかない。一般の我々は、情報を得た時点で波が作られていて、敗者となる構造に組み込まれていることを忘れてはいけない。
一方前者の猪突猛進無思考タイプは、半分アホ、略して半アホである。
確かにアホはアホだが、そのアホを反省し、失敗したという事実から学んで余力と投資体力と人生計画と社会潮流と時代の変遷を以て、再度別の方向からチャレンジすればいい。
進むことは悪くはないが、よく考える必要がある。
自分が盲目のイノシシだったとして、行く手の道の前に見えない岩盤があって通れない時、それに再度傷を負いながら突進をすべきだろうか? それとも迂回したりすべきだろうか?
同前 P241
<
「経済学は、人間科学である。その基礎は人間の行動原理にある。その結果、われわれは、あらゆる経済生活を条件づけている人間行動の心理学への観察をもって始めねばならない。──多くの人間の衝動は、ゲーム精神に同化しようという傾向がある──一度ある種の目的を遂行しようと決めると、それが絶対的な価値となり、それに生活を合わせ、それに没頭するようになる」
>
※上記はフランク・ナイト著「リスク、不確実性、利潤」の引用
正に名文であり、ここに残しておきたい。
例えばその人間社会が枯渇・窮乏し、それの充足に対する渇望が生産であったりサービス提供であったりする。それの売買が商売であり、それの生産が製造やサービス提供である。
インドでは、生活向上の余白や、それを圧迫する法の未整備などにより、今後の発展が見込めるとされる(新興国株と人口サイズの適正)。
誰もがテレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコン、自動車(ないしはバイク)、家を欲しがる。
欲しい割に実生活での非所持であるという空白があり、その空白を埋めると言う渇望がある。それが経済のダイナミズムを有む。
先進国で経済が停滞しているのは、ほぼほぼこれが当然のものとして行き渡り、むしろこうした要素が、これらの商品を揃えなければ「普通の」生活ができないという半ば出費の義務化があり、渇望の充足というよりは、義務による負担感がある。
現在の先進国においてはスマートフォンがこれを担っており、スマホ登場の数年前から、リサーチ会社のコンサル辺りはこれを検知していて「今後はスマホが来る、今後はスマホが当たる」としきりであったらしい。
現在はこの「新モデルのスマートフォン」の渇望をあおる商活動が展開されている。
同前P242
<
人は価格や品質でものを選ばない。ある意味不合理な基準で選ぶ。だから不合理な行動が思わぬ事態を招くと言うのです。
>
OK。
同前P244
<
バブルが起きたのは、どこかで度を越した投資があったとか、不合理なことがあったからだと考えたがるのですが、もしすべてが合理的であったとしても、つねに不合理が生ずるとすればどうでしょうか。これはもっといえば、個々の合理的行動と、全体の合理的行動は違うということを意味しています。
バブルという現象は、決して善なる行為で防げるものではないということです。それぞれが善なる行動で動けば動くほど、全体としては悪へと進みます。日本のバブルにしろ、リーマンショックにしろ、経済を破壊しようと思っている人はいません。自らの利益を上げるための合理的行動が、全体にとっては、とてつもないバブルを生み出し、それが最後に爆発したと考えるのが自然でしょう。
>
違和感がある。と言うのも、個々が行う利益の最大化(株式の売買)が「善」と呼称されていて、その破綻が「悪」と規定されていることだ。
個々が行う利益の最大化やその全体構造の破綻は、誰かが誰かを助け合うと言うような人間倫理での善悪とは何ら関与しない、と言うのが私個人の意見だ。
個々が行う利益の最大化が上手く行ったのであれば「経済活動としての機械行動としての成功」、全体構造の破綻は「経済活動としての機械行動としての失敗」と言うべきではないだろうか。
また、個々が行う利益の最大化の成功は欺瞞にまみれている。
それが例え成功したとしても、それは仮の成功なのだ。
中国の論文で「資本主義の本質は仮象(かしょう)が本象(ほんしょう)を追い抜くことだ」としたものがあったように思う。
その仮象の幻像が崩れた時に破綻が起きる、と言うのが社会事象として近い。
よってその仮や幻を、偽りの成功を構築することが果たして成功であるのか、と言うことをよく考えなければならない。
同前P245
<
自分だけは失敗しないという確信は、人々を楽観的にします。努力をしなくても運があるから大丈夫だと思い込みます。しかし、現実には必ずしも運があるわけではありません。たとえ自分だけに運があったとしても、全体すべてに運がなければ崩壊することもあるのです。
>
うい。
資本主義全史 的場明弘 P240
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不合理な投資行動
(中略)
「人は、自分自身の幸運に非合理的な確信を抱いている。これに加えて、彼らは従事している事業の成功の統計的確率を過大評価しがちである」(『カジノ資本主義』小林襄治訳、岩波書店)
>
これは株式投資や金融市場に限って言えることで通常の産業社会にはまま当てはまらない。
と言うのも産業社会は世界人口が存在し、そこに生活する人間が存在し、そしてその生活営為で必要な社会運営を回している際に物品が必要、商業が必要と言う状態で成り立っているので、相手のマイナスが自分のプラスになる、と言うことはあまりない(賭博以外)。基本的に売りても買い手も両者が得をするようにバランスされている。
一方において、金融市場は売りても買い手もバランスはしているが、短期スパンの売り買いは、一方の損が一方の得になるようにできている(長期的には成長する)。
この金融市場において上記の戒めは有効だ。つまるところ、株式売買においては、短期スパンの売り買いにおいては、他者が損をする中でのみ自分が得をする、と言う判断で自分の利益が出ると皆が思い込んで売り買いする。その「自分だけが得をするだろうという見込みは幻想ではないのか」と言うのが上記の戒めだ。
そもそも株式の短期売買は私はかなり懐疑的だ。自分が得をすることによって他者が損をするのである。これは・・・
こち亀の大原部長が「うーん、さすがマイホームころがしのプロ」などと言われていたような気もするが、自身が高値で売るのはいいとしても、次の段階ではそれを高値で掴む中古物件探しの新規ユーザーがいるわけで、それはいいのかと思うのだ。
本来であれば社会に対する職業的良心が無ければいけない警察官がその倫理観でいいのかという・・・
同前P240
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ジョン・ケネス・ガルブレイスも、こうした投機家の性格を二つのタイプに分類しています。一つは「新しがり屋」というような人たちで、今まではうまくいかなかったが、今回はうまくいくと考える人たちです。新しいことを始めるには、これくらいの確信がないと始められないのですが、失敗したという事実から学ぶことはない人たちがいるのです。今度こそ大丈夫だと確信してしまう人たちです。
もう一つは、流れに乗るタイプ、これはある意味賢い人たちです。今株が上がっているから買っておこうという人たちで、こうした便乗組が株価の上昇を加熱させていきます。
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私は上記の二者ともどもに注記が必要であると考える。
前者は無思考の猪突猛進タイプで、後者は海の潮流の中で流れを見る魚タイプだ。
前者が愚かで後者が賢いと描かれるが、私個人としては、両者ともどもに一長一短があるように思われる。
まず、流れに乗るタイプでの話だが、「今株が上がっているから買っておこう」と言うのは完全アホ、略して完アホである。高値で掴んでどうする、と。
また、積立NISAや暗号資産を買うことがムーブメントになっていた2〜3年前、それの波に乗っかっていた人はどうなったか。軒並み損失を叩き出している。
正解だったのは2009年辺りでNZドルやオーストラリアドルを購入していた人で、ここが利益が爆増した。この人は市場情報を潰さに収集していた人で、波の初手に乗っかっていた人であって、流れを作る前に乗っていた人だ。流れがあったからさあ乗ろうだと完全なる養分になるしかない。一般の我々は、情報を得た時点で波が作られていて、敗者となる構造に組み込まれていることを忘れてはいけない。
一方前者の猪突猛進無思考タイプは、半分アホ、略して半アホである。
確かにアホはアホだが、そのアホを反省し、失敗したという事実から学んで余力と投資体力と人生計画と社会潮流と時代の変遷を以て、再度別の方向からチャレンジすればいい。
進むことは悪くはないが、よく考える必要がある。
自分が盲目のイノシシだったとして、行く手の道の前に見えない岩盤があって通れない時、それに再度傷を負いながら突進をすべきだろうか? それとも迂回したりすべきだろうか?
同前 P241
<
「経済学は、人間科学である。その基礎は人間の行動原理にある。その結果、われわれは、あらゆる経済生活を条件づけている人間行動の心理学への観察をもって始めねばならない。──多くの人間の衝動は、ゲーム精神に同化しようという傾向がある──一度ある種の目的を遂行しようと決めると、それが絶対的な価値となり、それに生活を合わせ、それに没頭するようになる」
>
※上記はフランク・ナイト著「リスク、不確実性、利潤」の引用
正に名文であり、ここに残しておきたい。
例えばその人間社会が枯渇・窮乏し、それの充足に対する渇望が生産であったりサービス提供であったりする。それの売買が商売であり、それの生産が製造やサービス提供である。
インドでは、生活向上の余白や、それを圧迫する法の未整備などにより、今後の発展が見込めるとされる(新興国株と人口サイズの適正)。
誰もがテレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコン、自動車(ないしはバイク)、家を欲しがる。
欲しい割に実生活での非所持であるという空白があり、その空白を埋めると言う渇望がある。それが経済のダイナミズムを有む。
先進国で経済が停滞しているのは、ほぼほぼこれが当然のものとして行き渡り、むしろこうした要素が、これらの商品を揃えなければ「普通の」生活ができないという半ば出費の義務化があり、渇望の充足というよりは、義務による負担感がある。
現在の先進国においてはスマートフォンがこれを担っており、スマホ登場の数年前から、リサーチ会社のコンサル辺りはこれを検知していて「今後はスマホが来る、今後はスマホが当たる」としきりであったらしい。
現在はこの「新モデルのスマートフォン」の渇望をあおる商活動が展開されている。
同前P242
<
人は価格や品質でものを選ばない。ある意味不合理な基準で選ぶ。だから不合理な行動が思わぬ事態を招くと言うのです。
>
OK。
同前P244
<
バブルが起きたのは、どこかで度を越した投資があったとか、不合理なことがあったからだと考えたがるのですが、もしすべてが合理的であったとしても、つねに不合理が生ずるとすればどうでしょうか。これはもっといえば、個々の合理的行動と、全体の合理的行動は違うということを意味しています。
バブルという現象は、決して善なる行為で防げるものではないということです。それぞれが善なる行動で動けば動くほど、全体としては悪へと進みます。日本のバブルにしろ、リーマンショックにしろ、経済を破壊しようと思っている人はいません。自らの利益を上げるための合理的行動が、全体にとっては、とてつもないバブルを生み出し、それが最後に爆発したと考えるのが自然でしょう。
>
違和感がある。と言うのも、個々が行う利益の最大化(株式の売買)が「善」と呼称されていて、その破綻が「悪」と規定されていることだ。
個々が行う利益の最大化やその全体構造の破綻は、誰かが誰かを助け合うと言うような人間倫理での善悪とは何ら関与しない、と言うのが私個人の意見だ。
個々が行う利益の最大化が上手く行ったのであれば「経済活動としての機械行動としての成功」、全体構造の破綻は「経済活動としての機械行動としての失敗」と言うべきではないだろうか。
また、個々が行う利益の最大化の成功は欺瞞にまみれている。
それが例え成功したとしても、それは仮の成功なのだ。
中国の論文で「資本主義の本質は仮象(かしょう)が本象(ほんしょう)を追い抜くことだ」としたものがあったように思う。
その仮象の幻像が崩れた時に破綻が起きる、と言うのが社会事象として近い。
よってその仮や幻を、偽りの成功を構築することが果たして成功であるのか、と言うことをよく考えなければならない。
同前P245
<
自分だけは失敗しないという確信は、人々を楽観的にします。努力をしなくても運があるから大丈夫だと思い込みます。しかし、現実には必ずしも運があるわけではありません。たとえ自分だけに運があったとしても、全体すべてに運がなければ崩壊することもあるのです。
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うい。