人の情動の定義は様々だが、Wikipediaの説明にならい、ここでは「比較的短期の感情の動き」とする。
この人の情動は様々だ。泣き、悲しみ、悲哀にくれるのもあれば、喜び、笑い、希望に向かうものもある。これらは主に次の二種から発生する。
それは主体的な経験から発せられるか、あるいは他人の経験や物語に自分が共感するかであるが、今回のコラムでは後者に関する雑感を記載したい。
隔週発売のイブニングが、今週発売された。
マンガ「軍鶏」が掲載されている。この中で、主人公は今まで亡くなった登場人物に対して弔いの為か、海岸からロケット花火を打ち上げる。
このロケット花火に火をつけるコマでの主人公の顔が印象的なのだが、どう説明すればいいのか分からない。美しくもなく、豪快な訳でもなく、悲哀にくれるわけでもなく・・・。ただわずかの悲哀と主人公の逞しさ、人生なんてどうにもならないんだよ、などという諦観、死に意味は無い、生にも意味が無い、ただ生きていくしかないのだという強がりなどがこの一コマに詰め込まれているせいだろうか。私はこの一コマに強く共感した。
前々回の連載で、アルコール中毒にかかっている臨終間際の医者の前に、幻覚として小さな喋る象が登場した。これも通常の死生観を突き放して大変美しかった。そして今週の回も無常観を抉り、社会の悲しい真理の確信を付いている。
主要な登場人物は常に三白眼で世の中の理不尽を睨みつけている。このマンガは本物だ。
物質的に豊かになったこの日本でも、まだ人の繋がりがドライである構造が根強く残っている。我々など比較的保護されていない人間からしてみれば、日本の社会構造と、日本の精神面では荒涼とした地肌むき出しの土に生えている雑草のようなものだ。
中国と比べてみよ、日本人であればそこそこ保護されているぞ、と説教する人は、大抵安定した収入、安定した昇進、安定した人生、安価の福利厚生施設などなどが使える人達だ。私のような先の見えない人生と闘っているのとは違う。
そもそもその人生を選択したのはお前の自己責任じゃないかという話しもあるだろうが、孫会社に勤めていて、親会社と同じ仕事で、人一倍の成果を出したのにも関わらず、親会社、子会社から全く評価が無かったというのは、社会構造的問題でなくして一体何なのか。それが解消されたという話しは私は一向に聞かない。これでは福澤諭吉が下級武士の出であって、ただ生まれの差だけで上級武士には一生頭が上がらないと嘆いていたのとどこが違うのか。
保護が欲しいと甘えているだけではないかという話しもあるだろうが、そのような事を言う方は、保護の素晴らしさを分かっていない。保護とは人生の必須インフラである。私が喉から手が出るくらいに欲しているものなのだ。そのような言説で保護という機構をぞんざいに扱うくらいなら不要なのでしょう。今すぐ自分がお持ちの保護を捨てて頂きたい。
余談ではあるが、これと対極にあるのが「島耕作」だろう。
一流企業の社風を見るに、世間の寒風に晒されない温室を見た気になって、これをリアルと捉えている読者がいれば不快だ。現実には発生し得ないであろう中高年読者の理想と少しのリアルが描かれている。私としては、実際に私が体験している殺伐とした人生から見ると、これらの現実離れしたストーリーは剣と魔法で作られたファンタジーを見た気になる。ここには私が共感するリアルが無い。部長が自分の愛人の子に会いに行く為、「ボクシングの電光掲示板の電球にウチの製品が使えないか」という理由をつけて京都へ出張するなどは、さながら魔法の言葉のように思える。一流企業だとこれが普通なのか(通常はこんな話しは通らないだろう)。銀座のママとくっついたりするのは幻想にすぎない。そもそも今の成人男子はバーなんて行く金があるのか? これは東野圭吾の変身を読んだ時にも感じた事だ。末端の工員がどうしてバーに行くのか不自然すぎる。どう考えても一杯飲み屋とか赤提灯じゃないのか。
よく今の若者は現実から逃避し、ゲームにのめりこむ傾向がある、と言っても反論は少ないだろう。今の中高年が一流企業社員の振る舞いがどうであるか、という知識摂取の為に読んでいるのではなく、単に面白いからという理由で読んでいるのであれば、今の若者を非難できないのではないか。島耕作というファンタジーにのめりこんでいるからだ。
しかし、リアルな部分も多々存在する。記憶が不確かだが、この部長は地方の電気販売組合に自社カレンダーを配り忘れたという尻拭いをする為、組合が寄り合いをやっている屋敷へ部下(島耕作)と長い道程、雪を踏んで歩いて行き、辿り着いた先で頭を下げて謝罪をした。この上で組合員からの要望があり、義も理も通す為だけに、一流企業の部長でありながら裸になり、お盆を二つ持って、皆の前で甘茶でカッポレを踊った(この登場人物はやがて社長に抜擢される)。
そうしたキャラクターづけなのだろうが、私はこの登場人物である部長が好きになった記憶がある。
ただ念の為に記載しておくが、私はこれら全てを非難する訳ではない。これを求めている読者や、これに共感したり、納得したりする読者がいるのは事実であって、私は私の体験に基づいた一部の批判をしているだけだ。恐らくこれに共感できるのは大企業に勤めている人達なのでしょう。私は一流企業の恩恵を受けていなかったり、家庭も築けなかったり、破綻した人生を歩んでいるので、温室部分の一部に対して共感ができないだけなのだ。
そしてそれと同時に違和感も残る。我々は保護されていない。なぜ彼らだけが保護されているのだ? と。
この人の情動は様々だ。泣き、悲しみ、悲哀にくれるのもあれば、喜び、笑い、希望に向かうものもある。これらは主に次の二種から発生する。
それは主体的な経験から発せられるか、あるいは他人の経験や物語に自分が共感するかであるが、今回のコラムでは後者に関する雑感を記載したい。
隔週発売のイブニングが、今週発売された。
マンガ「軍鶏」が掲載されている。この中で、主人公は今まで亡くなった登場人物に対して弔いの為か、海岸からロケット花火を打ち上げる。
このロケット花火に火をつけるコマでの主人公の顔が印象的なのだが、どう説明すればいいのか分からない。美しくもなく、豪快な訳でもなく、悲哀にくれるわけでもなく・・・。ただわずかの悲哀と主人公の逞しさ、人生なんてどうにもならないんだよ、などという諦観、死に意味は無い、生にも意味が無い、ただ生きていくしかないのだという強がりなどがこの一コマに詰め込まれているせいだろうか。私はこの一コマに強く共感した。
前々回の連載で、アルコール中毒にかかっている臨終間際の医者の前に、幻覚として小さな喋る象が登場した。これも通常の死生観を突き放して大変美しかった。そして今週の回も無常観を抉り、社会の悲しい真理の確信を付いている。
主要な登場人物は常に三白眼で世の中の理不尽を睨みつけている。このマンガは本物だ。
物質的に豊かになったこの日本でも、まだ人の繋がりがドライである構造が根強く残っている。我々など比較的保護されていない人間からしてみれば、日本の社会構造と、日本の精神面では荒涼とした地肌むき出しの土に生えている雑草のようなものだ。
中国と比べてみよ、日本人であればそこそこ保護されているぞ、と説教する人は、大抵安定した収入、安定した昇進、安定した人生、安価の福利厚生施設などなどが使える人達だ。私のような先の見えない人生と闘っているのとは違う。
そもそもその人生を選択したのはお前の自己責任じゃないかという話しもあるだろうが、孫会社に勤めていて、親会社と同じ仕事で、人一倍の成果を出したのにも関わらず、親会社、子会社から全く評価が無かったというのは、社会構造的問題でなくして一体何なのか。それが解消されたという話しは私は一向に聞かない。これでは福澤諭吉が下級武士の出であって、ただ生まれの差だけで上級武士には一生頭が上がらないと嘆いていたのとどこが違うのか。
保護が欲しいと甘えているだけではないかという話しもあるだろうが、そのような事を言う方は、保護の素晴らしさを分かっていない。保護とは人生の必須インフラである。私が喉から手が出るくらいに欲しているものなのだ。そのような言説で保護という機構をぞんざいに扱うくらいなら不要なのでしょう。今すぐ自分がお持ちの保護を捨てて頂きたい。
余談ではあるが、これと対極にあるのが「島耕作」だろう。
一流企業の社風を見るに、世間の寒風に晒されない温室を見た気になって、これをリアルと捉えている読者がいれば不快だ。現実には発生し得ないであろう中高年読者の理想と少しのリアルが描かれている。私としては、実際に私が体験している殺伐とした人生から見ると、これらの現実離れしたストーリーは剣と魔法で作られたファンタジーを見た気になる。ここには私が共感するリアルが無い。部長が自分の愛人の子に会いに行く為、「ボクシングの電光掲示板の電球にウチの製品が使えないか」という理由をつけて京都へ出張するなどは、さながら魔法の言葉のように思える。一流企業だとこれが普通なのか(通常はこんな話しは通らないだろう)。銀座のママとくっついたりするのは幻想にすぎない。そもそも今の成人男子はバーなんて行く金があるのか? これは東野圭吾の変身を読んだ時にも感じた事だ。末端の工員がどうしてバーに行くのか不自然すぎる。どう考えても一杯飲み屋とか赤提灯じゃないのか。
よく今の若者は現実から逃避し、ゲームにのめりこむ傾向がある、と言っても反論は少ないだろう。今の中高年が一流企業社員の振る舞いがどうであるか、という知識摂取の為に読んでいるのではなく、単に面白いからという理由で読んでいるのであれば、今の若者を非難できないのではないか。島耕作というファンタジーにのめりこんでいるからだ。
しかし、リアルな部分も多々存在する。記憶が不確かだが、この部長は地方の電気販売組合に自社カレンダーを配り忘れたという尻拭いをする為、組合が寄り合いをやっている屋敷へ部下(島耕作)と長い道程、雪を踏んで歩いて行き、辿り着いた先で頭を下げて謝罪をした。この上で組合員からの要望があり、義も理も通す為だけに、一流企業の部長でありながら裸になり、お盆を二つ持って、皆の前で甘茶でカッポレを踊った(この登場人物はやがて社長に抜擢される)。
そうしたキャラクターづけなのだろうが、私はこの登場人物である部長が好きになった記憶がある。
ただ念の為に記載しておくが、私はこれら全てを非難する訳ではない。これを求めている読者や、これに共感したり、納得したりする読者がいるのは事実であって、私は私の体験に基づいた一部の批判をしているだけだ。恐らくこれに共感できるのは大企業に勤めている人達なのでしょう。私は一流企業の恩恵を受けていなかったり、家庭も築けなかったり、破綻した人生を歩んでいるので、温室部分の一部に対して共感ができないだけなのだ。
そしてそれと同時に違和感も残る。我々は保護されていない。なぜ彼らだけが保護されているのだ? と。