とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

学力の定義

2012-08-28 23:01:30 | 雑感
女子大生水上相撲大会という動画があったので見た。
出演している女子大生の出身大学はと言うと、法政、立教、青学と頭の良い大学ばかりだ。私はこんなんよりも頭が悪かったのかと思うと、父ちゃん情けなくて目からションベン出てくる。

ちなみに法政大学の女の子が色っぽくて良かった。
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恋とは何か、愛とは何か、死とは何か、生とは何か

2012-08-26 21:33:49 | 哲学・社会
お題の通りである。
恋とは、愛とは、死とは、生とはそれぞれ何であろうか。

このよくありがちなお題に対して、うまくまとめた文献が無い。私からすればプラトン辺りにその答えが載っていそうな気がしたのだが、未読の現状での私の意見をまとめて書かせて頂く事にする。

上記の四つの要素に関しては、ある一定の共通項が見られる。結論は最後になってしまうが、出来るだけ分かりやすく書いていこうと思う。

まずは死から。
死とは一体何であろうか。
キリスト教の研究によれば、死の本質とは関係の喪失だという。誰々が死んで悲しい、というのはその構築していた人間関係を恒久的に失ってしまったからだ。

そして恋とは何だろうか。
恋とは特定の異性に対して通常の関係を越えた特別な人間関係を持ちたいという期待値ではないかと私は見ている。
恋の予感、などの言葉がこれをよく示している。

続いて愛とは何であろうか。
愛とは、特定の者と特別な人間関係を築いたという実績の事だろう。この話しの中では、こう仮定する事にする。
愛を育む、という言葉を鑑みれば良い。

そして生とは何か。

生に喜びを見出せない私にとって、この回答は難解だった。
あえておぼろげながら「こうではないか」と私の頭の中に浮かんでくる考えを書くと、生とは新しい人間関係の産出に喜びを見出す事ではないか、と想像する。私自身はそれを感じた事が無いが、事実、私の周囲を観察するとそのように見える。

そしてこれら恋、愛、死、そして生に共通するものは何かというと、人間の関係の構築による喜びと喪失よる悲しみに他ならない。
これを応用すれば、例えば失恋などは特別な人間関係を構築する期待値の消失であるから、擬似的な死と近似であると言えなくも無い。
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馬肉

2012-08-22 23:44:21 | 映像作品
人間が口にするものは大抵大体は元は生命のあるものなのだから、むやみに殺してしまうのはご法度だ。やむなくそれを口にするなら残してもいけない。
馬肉などは貴重の逸品だ。我々人間の血肉にするには、人間の心情に近すぎる。ただ、これを食べるというのであれば絶対に粗末にしてはならない。

こうした事を考えている最中、ふと、20年くらい前にやっていたドラマのワンシーンを思い出した。

お金持ちの30後半細身の中年女性が登場人物のドラマで、この女性は美人だが、金持ちの女性らしく少々わがままでお高くとまっているのが鼻につくような雰囲気だ。女優さんはこんな役柄を演じている。

ドラマの中で、プロットは次のような展開をした。その女性の肩がこったかはったかで、お手伝いさんか誰かに馬肉を買いに行くよう言いつけたのだった。
お手伝いさんらしき人は「馬肉、ですか? 」となぜ馬肉なのかを問う。
そこでこの女性は言う。
「ほら、スポーツ選手とかでも肩を痛めたりした時、馬肉をつかって冷やすでしょ。」
と。

ドラマの中の出来事ながら私は憤慨した。馬肉とは馬を殺して得る肉である。
スポーツ選手などの特別な人間であるならまだしも(それでも許せないが)、この女性のどこが特別なのであろうか。それも食用に買うのではなく、ちょっとした肩の痛みを直すためだけに買って来いという。
贅沢という演出をするならば、このシーンは相当に成功した。
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こころとは何か

2012-08-20 21:21:08 | 哲学・社会
抽象概念の再定義・言語化が楽しいので、たまに頭の中で思考実験をしている。
この中で、「こころとは何か」というお題が出てきたので、これの言語化に挑戦してみる。

こころとは、情動、欲望、意思、理念の複数が混ぜ合わさっている状態、というのが簡単な説明になるが、もう少し詳しく書くと、この状態を保持して入れておくような、器の抽象概念がよく「こころ」と呼ばれる。人間の基本的な行動理念も「こころ」と呼ばれるが、方向性を持つ「こころ」は「こころざし」と言った方が近い。「こころ」とは何かと問うた時、方向性や性質を言うよりも、状態と言った方が、より「こころ」に近いであろう。「心の置き所」という言葉を使えば理解しやすい。ただ、今回はこの状態が「こころ」の主要要素であるにしても、副次的要素として、その方向性も含む事とする。
また、上記の要素のみでこころの概念を為しているかというと少し違う。「心を閉ざす」という言葉にあるように、こころとは第二者への会話を伴わないコミュニケーションの要素を含む時もある。

さて、このこころの言語化だけでは面白くないので、他に応用してみる事にする。「喜び」「悲しみ」「怒り」「悩み」「心が疲れた」とはどういう状態なのだろうか。

まず「喜び」であるが、自己が持つ心の志向性が、自己を取り巻く周辺社会と同調し、その行動原理が「こころ」として増幅する事を指す。
例えば、スポーツ大会で優勝した際、周囲の人間が祝ってくれるのは、自己の志向性と周辺社会の潮流が合致している為、自己の体感現象としてプラス方向への感情が増幅する。
次に「悲しみ」であるが、自己が持つ心の志向性が、自己を取り巻く周辺社会と同調する事ができないが、周辺社会の流れも理解できる。このような場合、自己の志向性と周辺社会のベクトルの違いにより、マイナス方向への感情が増幅する。だが、それを直す事を多くの人はしない。
例えば、自分が愛する人を失った時に、生き返って欲しいとは思うものの、それをどうする事もできないケースがこれに当たる。
そして三番目の「怒り」であるが、これは「悲しみ」と同様、自己が持つ心の志向性が自己を取り巻く周辺社会と同調する事ができないところまでは同じである。しかし、周辺社会の流れの理解よりも、自己が持つ正義を基とし、自己の心情を優先する事が「悲しみ」と異なる。
以前記載した漫画「軍鶏」の主人公が世の中の理不尽に三白眼で睨みつけるなどは、自己の信念や正義が崩れ落ちていない証拠だ。
四番目「悩み」とは、自己の既存の判断基準と世の中の判断基準、乃至は二つ以上の判断基準やモラルのあいだで行われる葛藤の事だ。
五番目、「心が疲れた」というのは、情動、欲望、意思、理念の複数が混ぜ合わさっている状態が疲弊して活動低下しているという事になる。


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雑感

2012-08-16 21:39:51 | 雑感
自分の頭に日々浮かんでは消えていく雑感を、備忘的にいくつか書いておこうと思う。

1.疑問:警視庁乃至は警察の外郭団体とは具体的に何か。
  パチンコ? ビル管理? 

2.雑感:健康診断を専門に行っている病院はおいしい。
  安定した収入と定時間内の労働。

3.怒り:上記の健康診断を専門にやっている病院へ診断に行った事がある。
  過労で疲労困憊であったにも関わらず、メタボリック解消の為ジョギングを奨められた。私は医者のすすめを無視して静養・療養に専念した。あの時、医者のアドバイスを実践していれば、私は確実に過労で死んでいた。アドバイスを実践しなくて本当に良かったと思う。私が死んだらどうするのか。恐らく何もしなかっただろう。あそこは私を守ってくれる病院ではない。


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