とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

インフルエンザ

2012-11-30 00:56:16 | 最近の出来事
インフルエンザに罹患した。
今週月曜日に熱があったので、就寝前に出来るだけ汗をかいておこうとした。
熱が下がってきたので体温を測ると38.5度。インフルエンザであってもこれで峠は越したと思った。
翌日火曜、医者に行ったらインフルエンザと診断された。
今週一週間は会社に行くなといわれた。

私は状況を少し舐めていた。というのも、今までのインフルエンザの経験からして、熱さえ出してしまえば終わりだったからだ。
熱は一日目で下がっていた。ただ、咳と痰がこれまでにないくらい日を増すごとに悪化している。声帯が枯れて声が出ない。明日医者にもう一度行こうと思う。
抵抗力が低下してきている証拠だ。

というよりはそろそろ体力の限界が見えてきた。
私はこれで死ぬのか。

追記:
症状がおさまった。一安心だがどうなのだろうか。
とにかく緑色に凝縮された痰が30分ごとに出てきたのを思い出す。
嘔吐に似た咳というのは初めてだ。

とにかく弱気になるのは是か否か。ともあれ周囲に心配はかけたくない。
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葬式と人格

2012-11-28 19:17:34 | 会社での出来事
あの人はどういう人だろう、という事を知る為には色々な方法がある。

アントニオ猪木氏は、かつての発言として、そいつがどういう奴なのかを知りたい時には強い酒をたらふく飲ませるか、ギャンブルをさせればいい、という旨の助言をある外交官にした。その時に人間の本性が現れるからだ。

その他、本棚を見ればその人が分かるとも言う。これは否定できない。どうやったって要らない本というのは売るか捨てるかして、本当に必要な書籍だけ自分の手元に残しておくからだ。

イスラエルの情報機関では、その人物が20歳の時に何をやっていたのか、という分析を行う。鳩山首相の場合は数学を専攻していたので、多様な人間の要求を多元方程式のように一つの解に納めようとしていたのではないか、という分析がされていたという。(これは飽くまで極めて湾曲的な表現で、分かりやすく言うと、政治の世界は動的な解がうごめく場所なので、数学的静的解は存在しない、政治家に向かない、もっと言えば無能であったと言う事なのだろう)

さて、そんな方法もある中、私は人間を思考する際の補助線として一つ次の案を提案する。
「葬式の時の行動によって色々な人の性格・人格が分かる」と言うものである。
出来事のみを散文で書くのでどのような人物かを見直す良い指標になると思う。
具体例を交えながら話しを進めたいが、特定を防ぐ為、ある程度の固有名称や日時はぼかして書きたい。

某年某月某日、グループ会社のKさんが40前半という若さで突然亡くなってしまった。性格は快活で人望も厚く、皆に慕われていた。週末は元気だったのに、週明けに職場に顔を出さないので、様子を見に行ったら吐血して倒れていたという。具体的な死因についての情報はついに知らされなかった。社葬をするというので取り急ぎのお金を持って会場に向かう。すると100人以上はいるだろう仕事関係と見られる人間でホールが埋められていた。全てKさんの為に来ているという。私がこの会場で知り合いの女性を見かけた。話しかける。この女性はKさんと数年来の付き合いなので、思う所人一倍だろう。彼女は私と話している時に思わず涙ぐむ。この涙は本物だ。私は涙が出そうになるのをこらえてそのまま気丈に話す。

この他にも少しだけ関係する登場人物は数人いる。
上記の女性と同じく、仕事で数年来の深い付き合いのあったHさんは訃報があった時、その連絡の数十分後、トイレにこもって出てこなかった。Hさんは親分肌の人間で、気丈、明朗快活のスポーツマンであったから、人前で泣くような人間ではなかった。Hさんには申し訳ないが、私なりの推測をすると、今回の事はあまりにもショックであったので、トイレ個室にこもってずっと泣いていたのだと思う。
帰って来たHさんはちょっと元気なさげだったが、少し無理をしてやはり気丈に振舞っていた。けれども、やはり心の底では悲しかったのだと思う。

私の先輩であるSさんは他の人と同じく数年来の付き合いだったが、葬式には参列しなかった。このSさんはどういう方かというと、私が過労で机に突っ伏していた時に「姿勢が悪い」と言って無理やり引き起こしたり、私が人の15倍の仕事をしている時にそれを本社に全く報告しなかったり、ルールを守っていない仕事を私に引き継がせようとしたりする人物である。私が生意気で仕事をガツガツやっていて嫌われていたので、嫌な仕事を押し付けられていたのではないか、という見方もあるだろう。それも一部正解だと思うのだが、メインの理由は違うと思う。この人の仕事ぶりを具体的に見てみると分かる。その一部を抜き出すと次のようになる。「仕事上でメールを出す際にはいくつかの注意点があってそれがルールとして定められている。その一つにメールにファイルを添付してはいけないというものである。仮にメール添付しなければならない状況になった場合には、グループ会社課長の許可が必要である。この許可なくファイルを添付するのは、1kbのファイルですら一切してはいけない。これはセキュリティとサーバ負荷低減の為である。と言った状況のさなか、Sさんは暗号化も圧縮もPDF化もしていない30MBのファイルをグループ会社課長の許可も取らず、いきなり添付して展開した」。この方はこのようなルール完全無視の規格外の人物である。ちなみにそのメールのアクションのあとに「あっ、やばいっ」と言うセリフを言った後、圧縮しなおした10MBのファイルを添付して再度同じ人間に展開し、「これで大丈夫だろう」と言い放った。計40MBものファイルを展開しておいてどこが大丈夫であったのだろうか。そもそもメールを添付してはいけないというのは、セキュリティの為とメールサーバ負荷低減の為である。いきなり帯域を好き勝手に使われたインフラ使用者の気持ちはいかばかりか。セキュリティの面については論外である。全く仕事を理解していない。彼の心に顰蹙や批難などは届かないのであろうか。こうした仕事に対する遵法意識が非常に低い人物であった。特定の嫌な仕事を私に振るのではなく、全てがヤバイ仕事をしていた為、引き継ぎや協力をする際に、近くにいる人間は常に火の粉を被る状態になっていた。というのが正しい。
話しを戻す。繰り返すが、Sさんは他の人と同じくKさんと数年来の付き合いだったが、葬式には参列しなかった。
何年関わったからどうだとか言うわけではない。その意味で行けば、私はKさんとは1年ちょっとしか仕事で関わらなかった。しかし非常にお世話になったので葬式には出なければならないと思った。
尚、Sさんの奥さんは受付で見かけた。奥さんが出席すれば旦那は出席しなくていいという礼儀がどこかにあるのであれば教えて欲しい。

そして親会社に当たる会社に勤めるFさんは、葬儀の前日のエピソードがある。
それまで私とFさんは会話をした事が無かったが、訃報のあと、たまたま帰るタイミングが一緒になり、短い道中少し話し込んだ。私が「何で死んじゃったんでしょうね」とうつむいて言った。Fさんは鼻で一回笑ったあと「仕事のし過ぎなんじゃねーの」と言った。ちなみにこれがFさんと私が喋った最初の会話だ。その場は何事も無く一緒の道中まで過ごして、その後分かれたが、私の中に腑に落ちないものが残った。人の死は鼻で笑っていいのか? 
Fさんと私は同い年だが、私は以後、Fさんとの会話で敬語を崩していない。Fさんはその理由に気づいているだろうか。

[追記]
何も葬式に出ないというのが罪であるという訳ではない。色々な人に様々な事情があるし、死んだ人間の側からすれば、来なかったからお前を恨み倒すよ、というような事でもない(そもそも親しい人が行くものであって、恨みを持たれている人はハナから行かないだろう)。

私も学生時代の同期で、親父さんを亡くされた人がいたけれども、その葬儀に出なかった。脱水症状か何かで自分の体が動かなかったからだ。完全に自己都合だったが本当に申し訳なく思う。

また、上記のKさんの葬儀でやらかした私の失敗の事も書いておかないとアンフェアになるような気がしたので記載しておく。
とにかく参列した人数が多いので、流れ作業的に焼香が行われた。焼香を行った後は、食事を行う別室に通される。
そこには、形式的に桶に入った寿司がずらりと並べられていた。当然、皆一切手をつけていない。そこへきて私は思った。「どうしてめでたくも無いのに寿司なんか出すんだ。こうした慣習はおかしいんじゃないか。」と心の内で怒りを感じた。怒りと悲しみが混ざり合って、コノヤロコノヤロとばかりに寿司をこれでもかと口に放り込んで食べた。すると横に座ったTさんから「○○さん、ここではそんな風に食べない」とたしなめられてしまった。

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備忘:テレビは何故見られなくなったか 交渉の観点からの考察

2012-11-24 20:03:38 | 哲学・社会
昨今テレビの視聴率の低下が激しい。

10年程前までは視聴率が20-30%というドラマなどが賑わっていたが、最近は軒並み大体10%前後である。
これはなぜだろうか。今まで疑問に思っていたが、ふと交渉の立場からの考察が頭の中に浮かび上がってきたので、忘れない内に記載しておく。

要は選択肢が増えたから、というのが理由なのだが、これをきちんと考えてみたい。

交渉とは何だろうか。それは二人以上の人間が互いに相手にやって欲しい事について意見を述べ、双方に同意をもたらし、そして後に双方がその約束を履行する。その前段のコミュニケーションであると作業仮説を立てておく。

これは商取引においても、売り買いで客と店主がお互いの認め合う値段で商取引がなされるという側面において、その行為を一部だけ見られる。。
ただ、交渉の特殊性は何かと言えば、双方が合意できる点が静的、数理的な観点により到達すべき目標が事前に用意されている訳ではなく、動的に互いに自らの最善点を探りあうという点だ。
交渉には様々な形がある。
強者Aと弱者Bが一方的に約束を取り付ける形(不平等条約など)、対等に議論を交わして双方の納得を取り付ける形(商取引など)が存在するが、今回は後者の対等の形を考える。

これら双方が最善点を探す際、有利となる条件を探索、あるいは用意しておき、不利となる材料を潰しておく事が必要となる。

これらの行為は具体的に何をすれば良いか。

まず、自らの選択肢を増やしておく事だ。A店で売っていた1000円の品物が、同じ商品なのにB店で800円で売っている。ならばB店で買った方が安いという自らの取りうる選択肢状況を増やしておく事が交渉の有利に繋がる。

そして次に相手側の選択肢を、こちら側からの提案として増やす準備をしておく事である。A店では1000円、B店で800円の品物を購入する場合を考えてみる。求める商品とは別の商品で、A店にとってはさして価値の無いものでただ同然で売っているものが、世間相場から見て500円するものがあるとする。本来払うべき最低の市価は800円+500円の1300円だが、A店では併せて売っても1000円で売れれば良いと思っている場合、その中間地帯の1100円で併せて買いますよ、と言えば双方の最善点を達成する事になる。
富とは常に偏りがある。山奥ではさして価値の無かった岩石などは、金持ちの邸宅の庭石として高値で売れる。
この偏りを見極めて商取引をすればある程度の成功を収める事ができるのではないだろうか。

さて、この選択肢は交渉においてバトナと呼ばれる。バトナが多ければ多いほど、交渉の際には有利になる。

現行翻ってみて、テレビの視聴者とテレビ局はどうだろうか。
テレビの視聴者は娯楽や情報収集の場としてテレビを選択している。この情報収集と娯楽のうち、娯楽の方を考えてみよう。インターネットの登場で、娯楽の供給元が大幅に広がった。つまりは、視聴者側のバトナが爆発的に増えている事を示している。対してテレビ局は、テレビ局なりのインターネット社会に拮抗できる娯楽供給のバトナを数量的に供給できていない。また、視聴者側への代替となるバトナを提案すべきだが、長い間のテレビ局気質がその提案を生み出す基礎体力を失わせしめてしまった。ネット時代でのエンターテイメントの供給は、テレビは一元的であるのに対し、インターネットでは視聴者サイドであった膨大な人達があっという間に供給側へ回り、その数は多元的、そして同時並行で供給される為、数量において打ち勝つ事ができない。特に日本人は、ゼロから基点となる何かを生み出すのは苦手だが、材料を加工する事に非常に長けている。そして映像や音楽を加工する事も廉価なパーソナルコンピュータの登場で、個人の環境が整えられてしまった。また、元来そうしたゲリラ的に攻撃してくるインターネットコンテンツに対しては、圧倒的な物量を以って--たとえば大物タレントの起用や莫大な予算を使っての番組編成などで--迎え撃つのがテレビ側で取りうる戦略だったが、昨今の不況とスポンサー離れが目立ち、そうした作戦を取る事が難しくなってきた。これはベトナム戦争でのアメリカの敗北に似る。これらにより、もはや娯楽提供の量において、テレビ局がインターネットを量的に押さえ込む事ができない状況となった。

それでは情報収集の方はどうだろうか。私から見ると、「インターネットの情報は信用できない」「インターネットは危険である」これが翻って「テレビは一次情報源として信用できる」というテレビ局側のネガティブキャンペーンや印象操作は成功しているように見える。
これは、インターネットという選択肢を取るとデメリットがありますよ、というテレビ側からの否定的なバトナの提供だ。本来テレビ局は、報道機関の一つとして、インターネットはこうした功罪があります、その功の部分を使って私達の意見もセカンドオピニオンによってちゃんと吟味して下さい、と言うべきはずだが、そうしていない。自分達が情報での攻撃をして社会を正す事に慣れてはいても、攻撃されて自らを正す事に慣れていないのだろう。あるいは一部の局において、正義の名を語りながら偏向的視点に立ち、歪曲に富んだ報道をしていた事実や慣習に抵抗する手段を持たないのかもしれない。今まではテレビ局含む限定されたメディアが情報統制を行っていたので、局所的に見える正義を振りかざす事ができたが、視聴者側のバトナがインターネットによって爆発的に増えたため、その正義を執行する事ができなくなってしまった。そしてテレビ局の主張をつぶさに見てみると、インターネット社会との融和が図られていない。当然である。情報を商売としてきた彼らにとって、セカンドオピニオンによる自らの研磨は、組織の生命維持や存在理由を極端に脅かすからだ。この為、インターネットに拮抗できる主軸の情報を提供できないテレビ局からは最終的にインターネット=悪というレッテルが貼り付けが行われている。健全とは言えないが、テレビ側での戦略がこれしかないのであれば、こうするしかない。

現在は、視聴者側のエンターテイメントのバトナがインターネットによって大量に用意された。この社会構造は不可逆であり、立ち戻る事はできない。
その量の差が視聴率の低下に反映されているのではないか、というのが私の意見である。

それではテレビ局はどういう手を打てば良いか。いくつか表向きの案はある。
(1)ネットに対抗できるようなバトナを数量的に提供する事。
(2)バトナを数量的に提供する事が不可能であれば、ネットを凌駕するテレビ局ならではの質を提供する事。

上記以外にもネットに勝ちうる本質的な構造の発展的変化の案もある。
ただこれは能動的に満たす条件は満たせても、社会環境、社会構造、社会状況の観点で満たすべき項目の難易度が非常に高いので恐らく不可能だ。
これを仮にテレビ関係者が読んだとして、ああ、お金があれば良いのね、好景気になればいいのね、と思ってしまっていたとする。そう思っていたならもはやテレビに未来は無い(これはNHKであっても同様である)。「金が無ければ面白いものが作れない」という構造的欠陥に陥ってしまっているし、そうした思考そのものがテレビ業界にとって悪なのだ。
ヒントはここまで。
これは私の胸の内にしまっておいて、あとはテレビ関係者に考えて頂く事にしたい。きっと良い案が出る。エンターテイメントとしてもテレビが娯楽の逆襲をする事を期待している。
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資本と労働と売春

2012-11-24 09:14:49 | 哲学・社会
私はこれまで労働は美しいものだと思っていた。
働いた分だけ、社会の何かに貢献できるものと思っていたからだ。
だが、それも幻想なのだと思い始めつつある。

社会発展に貢献できるのは労働単体ではなく、資本による事業計画とその履行そのものだ。
社会発展と共に利益を得たいと思うのが事業理念であり、その計画が事業計画であり、その履行が事業である。そして労働はその事業に身売りをしているだけに過ぎず、労働単体での理念はあるかもしれないが、俯瞰的に見れば、労働からの観点による理念などは社会からすれば存在しないに等しい。それはひたすら事業理念に依拠しているものである。

ここで一つのニュースがある。

ベトナム人少女たちの生き地獄、中国の売春宿に潜入
http://news.2chblog.jp/archives/51721507.html


 一人の少女を買うのに3000万ドン(約12万円)かかっても、少女一人につき30億ドン(約1200万円)を稼ぎ出せる・・・
売春ビジネスはマフィアの麻薬売買並に儲かるブラックビジネスのようだ。中国広西省東興市サムカオ地区のとある町、
高層ビルの間に埋もれるようにみすぼらしい家が軒を連ねている。我々が車から降りてくるのを見ると、
女が手を振りながら笑いかけてきた。ここは色欲にまみれた退廃の町。

明らかに疲れきった少女が、多すぎる客の相手をしている。我々が取材目的で来た客だと分かると、しきりに支払いをして欲しいと懇願する。
支払いがなければ女主人にしごかれるのだという。よほど女主人を恐れてか、何を聞いても生返事しか返ってこない。
結局3回分の支払いを先に済ませるとようやく安心したような表情を見せた。
 部屋は女主人のいる部屋からは離れているが、それでも彼女は随分用心深く、こっそり自分の名前を明かした
。彼女の名前はガー。中国に来たのは自らの意思なのかを尋ねると、長い溜息とともに語りだした。
「2年前ハノイである女に騙されて中国に連れてこられました」彼女は1年ほど売春宿で働かされた後、
他の売春宿を転々とし、今の場所に流れ着いたという。
 この宿の女主人もまたベトナムの紅河デルタ地方ナムディン省出身で、かつて同じように売られてきた身だ。
その後、少女を売る身に転じたのだという。サムカオ地区は以前、農業と煉瓦造りの町だった。
稼ぎは厳しく、生活のために売春に走る者が多かった。規制が厳しくなってくると多くは別の町に移っていった。

ここで働く女性の多くは、他所から移ってきた者たちだ。騙されて売春宿に売られた者も多く、
みな故郷に帰りたがっている。中には病気にかかっている人や家族に病人を抱えている人もいて、
他の半額にも満たないはした金で、自分を売ることに甘んじている。

この町に滞在した数日間、我々はさらに数人の女性たちに話しを聞くことができた。
ここの他にも雲南省や広西省などに同じような地区があるという。どのホテルも売春婦を確保していて、
同伴する女性がいなくてもホテル側が女性を都合してくれる。我々が昼食をとったホテルも、
上の階にベトナム人女性を10数人キープしているとのことだった。他にも、床屋やマッサージ屋が立ち並び、若い客引きが呼び込みをしている。
 ガイド役を頼んだ地元の男が馴染みの場所に立ち寄ると、中国人の女主人が我々の手をとって中に引き入れた。
机と椅子が置いてあるだけの簡素な部屋は、まさにそのための部屋だ。ネズミの穴ほどの大きさで、
それよりはいくらか清潔というレベルの部屋は、どれも埋まっているようだった。
 この町に着いて車を降りるとすぐに女たちが群がってくる。売春宿を見つけるのに10分とかからない。
分け入れば分け入るほど性産業の実態が目に入ってくるが、全容をあらわにはしない。一人っ子制作の影響で女性不足が深刻になり、
欲求を解消するための方法が必要とされていることも、ベトナム人女性がこの地獄に足を踏み入れる原因となっている。

我々は次なる目的地、広東省へとバスで向かった。リンコン町ではたくさんの売春宿がひとところに集まり、歓楽街を形成している。
ホテルに行く金のない客は、床屋やマッサージ屋がひしめく通りに行く。朝の7時だというのにきれいな若い娘たちが着飾って客を待っている。
ここにいるベトナム人女性の殆どは騙されて売られて来た。散々働かされた後流れ者となった彼女たちは、
もう厳しく管理されているわけではないので、故郷に帰ることもできるはずだ。しかし、彼女たちの中には売春を仲介する側に回った者もいる。
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売春という身体的苦痛を除けば、彼女らの搾取とその苦境は良く分かる。私も突き詰めれば時間いくらで働いて搾取されている存在に過ぎない。
我々の上の世代の生涯収入○億を維持・補填する為に、現在の我々の年収から削り取られている。現在という時代は、そういう構造なのである。

世代によって得られる収入が違う。それを維持するのに搾取が行われる。これはアンフェアではないか? 
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プロレス

2012-11-20 22:15:28 | 雑感
やはり私がプロレスを語るべきではなかった。プロレスとは理屈ではない。

しかし、弁明をさせて欲しい。
世の中プロレス愛好家がいる一方で、プロレスを理解できない人間達が常に一定数存在する。この人間達は、常に理性による理解を求めている。

なぜ打撃をよけずに受けるのか。
なぜ事前の打ち合わせがあるのか。
なぜショーの性格を帯びているのか。
これらの回答が、プロレス熱が冷めている今の世の人達に必要であったりする。

プロレスとは言葉ではなく、内在的な感覚だ。
だが、それを言葉で表現・分析したとしてもその色はあせる事は無い。
ここの場でそれらを表現する事を許して頂きたい。
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