とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

アリゲーターガーの実際の釣りシーン

2023-10-02 23:30:26 | 雑感


https://www.youtube.com/shorts/y8I70iX04aw

淡水魚でここまでデカくなるとは・・・
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感覚の者から理論の者へ

2023-10-02 23:05:54 | 雑感

形而上学 第一巻 アリストテレス
(一)知覚・経験・技術・学間的知識 ― われわれの求める〈知恵〉とはどのようなものか

 〈経験〉は、それ自体がすでに、学問や技術とほとんど同様のものと思われるのであるが、しかしじつは、学間や技術は、〈経験〉を介して人間にもたらされるのである。けだしポロスのいうように、「経験は技術をつくったが、無経験は偶然をつくった(#1)」のであるから。
〈技術〉が生じるのは、経験の与える多くの想念にもとづいて、そこから、相似た事柄について一つの普遍的な把握が生まれるばあいである。すなわち、「カリアスがこの病気にかかったとき、この処方が効いたし、ソクラテスのばあいにもそうだったし、同様に個々の多くのばあいにもそうだった」という判断をもつことは〈経験〉に属する。これに対して、一つの種的特質により区別されてまとめられるような、しかし、かの体質の人びとがこれこれの病気にかかったばあいには〔たとえば、粘液質の体質の人びと、あるいは胆汁質の体質の入びとが熱病にかかったばあいには〕、そうした患者のすべてにこれこれの処方が効いた、と判断することは〈技術〉に属する。さて、実際の行為に関しては、〈経験〉は〈技術〉ど比べて少しも劣らないように思える。のみならず、むしろ経験家のほうが、理論的説明だけを心得て経験を有しない人びとよりも成功することが多いのである。その理由は、〈経験〉は個々の事柄に関する知見であり、〈技術〉は普遍的な事柄に関する知見であるが、しかるに行為や生成はすべて、まさに個々の事柄にかかわるからである。


私の家は、高祖父、曽祖父、祖父の三代に渡って、建具屋と言う職人の家の家系であった。
(その後息子が生まれず、父を婿養子として迎えたが、父は普通の会社員などをやった)。

よって、高祖父は建具屋の他、様々な事業を手がけていて、若干の蓄えを為したという。
そこに市内で一番の美人と言う娘を授かった。
そこに遊び人の男が転がり込んできて、娘とくっつき、為した財を食いつぶしたと言う。
それが曽祖父になった。
曰く、男ながらに華道をやり、市内に3台しかない自転車を乗り回していたらしい。
子供がなんと7〜9人いて(私も記憶していないがそれくらい)、子沢山になった。
その息子は借金だけになってそれでも食いつないで地道に黙々と自分の仕事をしていた。
それが私の祖父である。
そこの家では娘しか生まれず、外から婿養子を迎えた。それが私の父である。
父は人よりも困難な道をとにかく自分の気持ちと人間性を押し殺して淡々と自分の人生を進ませた。
人の一生を自転車乗りに例えるならば、漕いでいかずともなだらかな下り坂ですーっと進んでいく人生もあれば、平坦な道で自分で漕がないといけないものもあるだろう。
多くの人はちょっとした上り坂になっていて、それをちょっとずつ少しずつ重いペダルを漕ぎながら進んでいく、と言う人生を行くのではないだろうか。
私の父は何であるかと言うと、間違いなく、自転車を漕がずに、それを担いで、山の麓から山頂までを登山して登った。そういう人生だった。

私はDNA的にそういう遺伝子を引き継いでいるらしい。

その一片として、建具屋3代の遺伝子は確実にある。
これは理論化と言うよりもおおよそ経験家に近い。感覚を旨とし、精巧な細工を施すのには向いている。
この経験を生業とする人間は弱点がある。言語化できない、体系化ができない、よって人との交渉ができないし、そして統率もできないし、論理立てて話すことができないのである。

私はこれらの道とは全く相反する道に入ろうとしている。
それが成業するかどうかについては、もう完全に時間が足りない。

理論によってなされる純粋数学は、建具屋のそれとは全くことなる。
私は分のない戦いをしようとしていて、成功する公算が殆ど無い。
戦略的にはすべきではない話だ。
そして自分と言う軍隊の参謀は自分であるのだから、完全に参謀失格である。

ただこれに入らざるを得ない。
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9/30、10/1、10/2動静

2023-10-02 23:05:46 | 行動記録
9/30に、ダイソンの掃除機のバッテリーを換えた。
先日赤ランプ点滅でカスタマーサービスに連絡したところ、バッテリー交換が必要ということを伝えられた。
で、それを即日発注して、金曜日に着到致す。
やり方は説明書が添付されているのでそれを見れば分かるとのことだったのだが、いや言葉が全く書いおらず、完全イラストだけなのよ。逆に不安になったが、無事換装完了。

で、旧バッテリーパックは回収に出さなければいけないのだったが、それを電器店に持ち込んで回収も完了。
これをやる時に、自分の中で「店のものを買わなければいけない空気になったらどうしよう」だとか「回収を拒否されたらどうしよう」などとの不安もあったが、それらは無事クリア。
と言うかこういうリスクが発動したらどうしようという引っ込み思案の心理は、私の幼少期に刷り込まされて形成された呪いのような心理だ。こういうものは取り払わなければいけない。
仮にリスクが発動してもそれを払い除けても別になんということもない訳じゃないか。
人はいずれ皆白い骨になるのだ。
それをコードレス掃除機のバッテリー回収で二の足を踏んでいた私はどうかしている。


その後9/30と10/1は、完全とまではいかないが、8割方寝ていた。
これが寝たきり老人かとも思った次第である。

だが、これが功を奏したのか、10/2は調子がいい。
朝イチで野菜売り場へ。開場と共に売り場に突進。
大根を探すもない。あったとしても昨今のは小ぶりなのが250円超。小さい上に高い。

で、他にめぼしいものはないかなあと探していたらナスが3本で138円。安い上に大きい。
ではこれをと、その2点セットを買い上げた。

これで味噌汁作れば無敵じゃあ〜! 
揚げびたしはできぬが味噌汁は作れる。百人力じゃあ〜! 
と言うことでおんしら、引き揚げじゃあ〜! 

と言う形で次の店へ。
諸々買い出しをして終わった。

ここまで調子が良くなったのは久々だな。
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労と言う先行

2023-10-02 23:05:37 | 労働
私は労働と言う言葉において、2つの語義にて使い分けて用いる。

一つは人権を抑圧する、現代資本主義社会で肯定される搾取の営為。
もう一つは、人はその組織に対して真になさしめる人として為すべき行為だ。

今回はこの内の後者について言及する。

上位の者から下位の者に任されるのは、現場の実働力である。これがなければ大事は為せない。

ただそれは指示される内容をきちんと踏襲できているかでその実働が異なる。

最低のラインとしては、指示も聞いていない、実働もしないラインである。
ここから先は漸次的に良くなっていくレベルを書いていく。
次に良くなるのは、指示は聞いていないが、実働を消極的にするラインである。
次に良くなるのは、指示は聞いていないが、実働を積極的にするラインである(一番被害が大きい)。
次に良くなるのは、指示は聞いていたが、認識に誤りがあり実働を積極的にするラインである(確認すればよし)。
次に良くなるのは、指示は聞いていて認識に誤りなく、実働を消極的にするラインである。
次に良くなるのは、指示は聞いていて認識に誤りなく、実働を積極的にするラインである。

最後に一番いいのは、これらを全てつつがなくこなした上で、納期を守り、むしろ先行し、そして上位者への次なる提案における材料を推測し、持っていること、あるいは既に獲得済みのことである。

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ディズニー作品は何がいけないのか 日本アニメの観点から

2023-10-02 23:04:41 | 映像作品
と言うことでファンの多いディズニーであるが、昨今の興行収入や、あるいは日本特有に売れたり売れなかったりする要素があって、ディズニーはこれに何らの対策を打っていないように見える。
(後述するがそれがディズニーなりの資本主義での映像消費社会における最適解の選択をしている)

日本アニメの立ち位置から見る違和感と、これは一体何であるのか、と言う理由、そしてそれでも尚、ディズニーがそれを選択し続けなければいけない理由と言うのを書いていく。

まず具体例から上げていく。

1.顔の表情にアクがある。


まずここから。「ミラベルと魔法だらけの家」。

よく指摘はされるだろうが、しかし改めて書いておく。
(1)左右非対称の眉(目の場合も同じ)。
 日本人が不快に感じるポイントその1。
 これは人をバカにする時にやる表情なので、日本アニメではこれを基本やらない。
 むしろ人をバカにする時や、相手に対してフォーマルな態度を取っていませんよ、と言う時には日本アニメはこれを選択するが、それはその状況にマッチしているため、日本アニメでのこの表情の採用は特に問題ない。

(2)見下し型の三白眼+笑顔で見せる歯
 日本人が不快に感じるポイントその2。
 これも人をバカにする時にやる表情or悪役がこれからこの世界を支配してやるぞ、と言うものなので、日本アニメではこれを基本やらない。
 こちらも(1)と同様、そう言うシチュエーションの時にはこういう表情を選択する。

2.素材の調理が良くない。

 褐色メガネ少女だったらもっとやりようがあっただろうに・・・と。
 日本アニメから見れば、全てが間違った選択をしているように見える。

 私だったらこうする。
 20代前半のスラッとしたインド人女性を出す。
 ↓こういうの




 オフィスで文書をタイピング。昔はああだったな・・・と思い返させる。
 →インド洋の孤島での生活
 など。

 とにかくディズニーは用意された食材に対する調理が下手だ。


3.大げさなアクション

 これは日本アニメも本当に反省せねばならないが、大げさなアクションに違和感がある。
 普段の生活ではそんな風に動かないだろと言うような動きを見せる。
 例えばこっそりと何か小瓶をテーブルから盗む動作は、手を伸ばす時に単純にそこへ手を伸ばした後に更にウェーブを腕全体にかけるような仕草である。

 日本アニメの場合も別のジャンルでこれをやることがあって違和感がある。
 例えば、嬉しい時に両手を水平に広げて身体を一回転させる、やる気を出す時に両腕を力こぶを出すようにしてポーズする(ラピュタのパズーが「やるぞー! 」とか言ったシーン)など。
 これは分かりやすいアイコンではあるものの、私個人の意見ではあるが、本来ではやるべきではない。


4.ディズニーと言う観客も制作側もかかっている呪い

 ディズニーには観客も制作側もかかっている呪いがあるのだ。
 それは「アニメとはこうあるべし」と言う呪いである。

 キャラクターデザインはできるだけ醜くかつリアルに、眉や目は非対称に表情付けをし、逆に動作はリアル味を出さずアニメーションのアイコンを出すなど。

 いかに出来合いが悪かろうが、消費者がこれを選択し続け、その市場が形成され続ける限りは、これを選択し続ける他ない。


5.アメリカ標準における黒人を出さなければいけないという縛りプレイ

 上記の選択資本主義的映像産業の呪いの上に、2020年頃からスタートしたBLMなどに代表されるポリティカル・コレクトネスの話が、政治的な選択せざるを得ない選択肢としてのしかかる。

 本来「黒人を出せ」「アジア人を出せ」までなら分かるのだが、なぜそれらを美醜的偏差値が低い人間を出す必要があるのだろう? それであるならば、美人の黒人、美人のアジア人を出せばいい。そうでない理由は何か? 

 私が思うに、これもまた、政治思想的に課せられたアメリカ特有の呪いであるのだと考える。

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