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人間は精神である。しかし、精神とは何であるか。精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか。自己とは、一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である。
あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。
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私の意見は見解がやや異なる。もう少し丁寧に深堀していくべきではないか。
私が考えるに次のようなものになる。
人間および高等生物と言うものは、必ず認識と言うものをする。
それはあのパンはおいしいと思う認識であったり、あの人は優しいと思う認識だったり、あるいはあいつはやな奴なので近づかないようにしたいという認識であったりと言うものだ。
この認識はあらゆる対象に対して行われ、上記の対象は自分自身に対しての外部の何かしらのものや人物に対して行う所作であったが、この自分の認識と言うものについては、全てのものに対して行われるので、自分自身にも再帰的に行われる。
この認識と言う所作をしている主体が、その主体そのものへの認識を再帰的に行う時、それが自己と呼べるものになる。
ただ、人間とは悲しいかな、絶対的な価値観や尺度を手に入れることはない。常に人間が感じたり考えたりするのは相対的尺度である。
例えば、平日は22時前に帰れて幸せ! などという社員は、そういったまずい過去の経験が認識の基準になっているので、その基準よりも良ければ幸せなどというのだ。
なので、自己と言うものについても同様で、自己の規定は他者との相対的比較によって行われる。
自己認識は自分自身への単なる認識というものの中で完結することはなく、他者との比較で自己と言う認識を確立してしまうのである。
人間は精神である。しかし、精神とは何であるか。精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか。自己とは、一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である。
あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。
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私の意見は見解がやや異なる。もう少し丁寧に深堀していくべきではないか。
私が考えるに次のようなものになる。
人間および高等生物と言うものは、必ず認識と言うものをする。
それはあのパンはおいしいと思う認識であったり、あの人は優しいと思う認識だったり、あるいはあいつはやな奴なので近づかないようにしたいという認識であったりと言うものだ。
この認識はあらゆる対象に対して行われ、上記の対象は自分自身に対しての外部の何かしらのものや人物に対して行う所作であったが、この自分の認識と言うものについては、全てのものに対して行われるので、自分自身にも再帰的に行われる。
この認識と言う所作をしている主体が、その主体そのものへの認識を再帰的に行う時、それが自己と呼べるものになる。
ただ、人間とは悲しいかな、絶対的な価値観や尺度を手に入れることはない。常に人間が感じたり考えたりするのは相対的尺度である。
例えば、平日は22時前に帰れて幸せ! などという社員は、そういったまずい過去の経験が認識の基準になっているので、その基準よりも良ければ幸せなどというのだ。
なので、自己と言うものについても同様で、自己の規定は他者との相対的比較によって行われる。
自己認識は自分自身への単なる認識というものの中で完結することはなく、他者との比較で自己と言う認識を確立してしまうのである。