とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

異常性癖はなぜ起こるか? 

2012-06-17 14:56:51 | 哲学・社会
世の中には大抵は一般常識の範疇に納まる人達で占められるが、時としてそうでない人達もたまにいる。

宝くじに当たったら貯金すると回答する人が大半だが、その反面、実際に当たった人の中でごく短期間に使い切ってしまう人も存在する。この考え方はいわゆる「普通」ではないが、まだ許容できる。

さて、そんな中「考え方」というようりも本能的な行動に関して分類される性癖について特殊な人達がいる事について考えたので、ここに記載しておく。
前以て記載しておくが、これらの性癖を持つ人達への差別や人権侵害ではなく、飽くまで分析と仮説である事だけ申し上げて於きたい。もしそれらのような印象があればお詫び申し上げると共に、そうした意図は一切無いと申し添えておく。そうした単なる人間社会における分析であるという事は、文章を追って読んで頂く事で分かって頂けると思うので、できればまず通読をお願いしたい。

これを読む方は個人心情として理解できぬ部分もあるかもしれないし、私も理解が及んでいない。だがこれに踏み込んだ考察を書いていきたい。

さて、一般的ではない、社会的には異端であるという意味での異常性癖には私が知りうる限り下記のようなものがある。
同姓を対象とする、小児を対象とする、獣を対象とする、死体を対象とする、排泄物を対象とする・・・etc。
芸人である井手らっきょさんは70すぎの高齢女性と性交渉したらしいが、これも一般的でない範疇に含めて良いだろう。

こうした事はなぜ起こるのか。そうした本能的な衝動がその人にはあるから、というのに私は少し疑問がある。
これについての考えを述べる前に、事前の考察として下記のものから記載しておきたい。

誰しも、幼少の頃は排泄物の幼稚語に該当する「うんち」や「うんこ」などの言葉に笑ってしまったり、あるいは親から怒られる事を承知で面白がって、これらの言葉を多用していた経験はあると思う。

これらの言葉をなぜ幼児は使いたがるのだろうか、あるいはそれらに笑ってしまうのだろうか。

人間は行動可能範囲の確保に喜びを見出す。例えば年収1000万であれば、一般と比較して色々なものが購入できる。こうした相対的比較に喜びを見出すのが人間であるが、元々行動不可能範囲であった所へ移動できたり、あるいは不可能な事柄が自らの能力でできたりする事--つまり行動範囲の拡大に関しても、喜びを見出したり、当初はとても自分なんかが活躍できない舞台に努力が認められ抜擢された、あるいは、努力が実り作品に賞を貰った、スポーツ大会で優勝した・・・、こうした「決められた枠線」に関して、それらを飛び越える動的な能力を自認すると、人間は喜びを見出すのではないか、と私はこのように作業仮説を立てて考えている。

話しを戻すと、幼児における「うんち」「うんこ」の多用もこれに該当するのではないか。社会のルールにおける禁止用語があるが、それを飛び越える能力(「うんち」「うんこ」の発声可能)を自認した時にその喜びを感じているのではないか。

そして更に翻って異常性癖について考えてみると、それらが一般的ではないからこそそれの一線を超えようという意識や感情が働くのではないか。一般的に手に入れにくいもの程、価値が社会的に与えられる。それを得ようとして禁忌を犯すのではないだろうか。

ただ、この理論には穴があるので補足をしておくと、この希少性としての価値のあるものの入手という行為には、一般的に「あの人はあれをできる手段を手に入れた」と言ったような周辺の個体からの認識や承認もその価値に一旦に含まれる。
性癖における希少性とは、それを手に入れた場合はその社会からの承認はプラスになるどころかマイナスになる。この意味で希少性の入手には真逆の効果が働くが、異常性癖を持っている人達は、それらの社会からの承認、認識よりも、自己満足のみで構成されていたり、自己内での承認が完結していたりする人なのではないだろうか。





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人間社会の未来と私の将来

2012-06-13 22:20:22 | 会社での出来事
私は今悩んでいる。それは仕事が上手くできない事だ。
とは言っても、新人社員によくある、「どうやって段取りを組めば良いか分からない」「どうやって仕事をすれば良いか分からない」と言った類の悩みではない。むしろ私は仕事をそつなくこなしてきた。

無論、いつもそうであった訳ではなく、今から十数年前に入社し、その入社した数年後に退社した職場では完全にお荷物だった(今考えれば、理論を人に分かるように展開し、それを実装に落とすというような事はせず、末端にどなって終わりという、会社自体の組織の運用や管理・マネジメント手法などが未熟であり、組織運用を考慮しておらず、全てを現場の末端に投げ振っていた組織の体制に問題があったが、私がその中で上手く立ち回れなかったのも事実なのでこう書いている)。ここは退職する人が口を揃えて言う。「地獄だった」と。その後、別の会社、別の職場に入り、9ヶ月仕事をさせて頂いた。この時の仕事はかなり大変なものだったが、9ヶ月という短い期間にも関わらず、私はとてもとても大切な事を学んだ。その後部署を異動し、今度は大変に厳しかった前の職場と比較して温情味のある所で仕事をする事になった。結果としてここに三年と三ヶ月在籍する事になる。私から見ての意見なのだが、私とその職場の方向が大変マッチした。私はその組織の為と思い、仕事を文字通り一生懸命し、それに応え、職場の上役は私にどんどん仕事を振った。だが、一生懸命働きすぎて体にガタが来ていた。それにも関わらず、私は仕事を件名に行った。あるときの作業量の単純比較で、私は他のメンバーの15倍の作業量をこなしていた。

それでいて、私の評価と給料は一向に上がらなかった。結果が評価に一致しない。どうしてだろう、なぜだろうと考え込む内に、私は言葉が上手くしゃべれなくなった。
その1年弱後くらいに私は異動した。元々私が希望していたのもあるが、事実上の左遷だ。

客観的に見れば、私の周囲がどう見えていたのか、という事については私は分からない。ただ、私の主観から見れば、働くだけ働き、絞られるだけ絞られて捨てられた、という印象を持つに到った。

私は悩んでいる。この歳になって、現在の仕事はごく簡単なものしか割り振られていない。ただ、一生懸命働いてチームでの貢献をした所で、過去のように、自分の体調を崩し、言葉がしゃべれなくなり、給料は上がらず、評価も上がらず、自らの人生の幸せを得られないという事になってしまいはしないかと恐怖する。
もしくは幸せになりたいという考え自体が、人にとって傲慢な願いなのだろうか? そう願ってはいけないのだろうか。人生をあきらめて、悲しい運命を受け入れなければならないのだろうか。


ここで人間社会の事をふと考える。
全ての組織は矛盾や問題を抱えているという。また、人事の1/3は失敗なのだという。

これは人間の社会が未だ不完全な形態である事を示す。




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お笑いについて

2012-06-09 16:32:47 | 哲学・社会
昨今のお笑いについてだが、今一つ理解できない。
職場の若い方に勧められたのだが、世の中のお笑いの中で「キリンスマッシュ・キリンレシーブ」なるコントが面白いのだという。
早速見てみたが、シュールすぎてどこで笑うべきか分からない。
(その方にはちゃんと「よく分かりませんでした」と回答した。)

だが、お笑いの形態がなぜこのようになったのかを考えてみるのは大変面白いので、ここに考察を書く事にする。

その昔、ビートたけし氏が「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というような社会モラルに反するギャグをやっていた時は、世の中のスタンダードな見解と180度異なる方向のものがギャグになっていた。

それが、ダウンタウン松本人志氏が「冷蔵庫の上に妖精が~」とやっている時期になって、ギャグの方向が転換し始めた。180度異なった反体制ではなく、スタンダードとも、反体制や皮肉、日常的な認識のズレとも取れない、90度くらいの方向でのギャグをやりだした。そしてそうした既存のお笑いとは違う角度の「微妙な点をつく」というギャグに、ダウンタウンを先頭として、その価値が置かれた。そしてそれらの芸人を先導として、視聴者側にもその価値が置かれた。そこからだと思う。段々そのお笑いの取る角度が先鋭化していき、次第に45度違う点をついてみました、30度違う点をついてみました、とエスカレートして行ったのは。そして最近は、上述の「キリンスマッシュ・キリンレシーブ」のように、微に入り細を穿つ角度に到達したのではないか、と私は考える。視聴者側はその先鋭性を認めながらも、その笑わせる技巧が余りに細かすぎて素直に笑えないのだ。
これは私個人の意見だけでなく、その時コントをやっていた芸人が「僕らも何でこれがウケているのかよう分からんです」と言い、ダウンタウン松本人志氏は「それは言うな!」とコメントを入れていたので、技巧的にはよくぞそこをついたという事なのだろうが、観客や試聴者だけでなく、芸人にとっても分かりにくい、素直に笑えないというのがこのコントに関する一般論なのであろう。

と自己分析は入れたものの、これをして現在のお笑いについてどうこう言うつもりはない。元々私はお笑いのプロでなんかないし、見ている方としては、面白い/面白くないを単純に判定するだけだ。お笑いや(あるいはお笑いだけでなく、人の生きる道というものには、)こうすべきだ、というルールは無い。もし有るか無いかを選択する場合には、社会には極力そうしたものは無い方が良い。トップダウンでルールを縛るケースよりも、必要最低限のレールのみを用意し、ボトムアップで個人個人にそうした活動を任せるのが良い社会が構築される、と私は考えている。

苗の植え方から、食糧の保存方法までを全て金正日の指導の元によりトップダウンで行っていた北朝鮮体制と、経済活動を個人に任せ、自由に切磋琢磨させているアメリカなどの自由主義国を見れば良いだろう。

あるいはトップダウンでやっている「K-POP」と、ボトムアップでやっている「初音ミク」を比較しても良い。

本当に活気が出て、本質的に文化や社会産業へ根付くのはどちらの方であるか。
それを考えた場合、これは否定して淘汰するではなく、どのようなものでも肯定して残しておいた方が良い。多様性の確保は文化の醸成に必須である。私はこの「キリンスマッシュ・キリンレシーブ」には笑う事はできなかったが、私の感覚など絶対ではない。むしろ私の感覚は普遍的でない、突飛で得意な方向に、先鋭的に向かっている。そして別の方向へ向かうある種の先鋭が認められるこの方向性を、面白いと思う人達によってより進化させた方が、社会にとってより良いものを作り出せるのではないだろうか。
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日常:

2012-06-09 15:04:26 | 最近の出来事
先日木曜日は非常に運が良かった。
バスを掴まえられ、電車も座れた。ぷらっと寄った駅前のCDの即席売り場で、よさげなJAZZ関係のCDがあったのでこれを三枚買った。


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