世の中には大抵は一般常識の範疇に納まる人達で占められるが、時としてそうでない人達もたまにいる。
宝くじに当たったら貯金すると回答する人が大半だが、その反面、実際に当たった人の中でごく短期間に使い切ってしまう人も存在する。この考え方はいわゆる「普通」ではないが、まだ許容できる。
さて、そんな中「考え方」というようりも本能的な行動に関して分類される性癖について特殊な人達がいる事について考えたので、ここに記載しておく。
前以て記載しておくが、これらの性癖を持つ人達への差別や人権侵害ではなく、飽くまで分析と仮説である事だけ申し上げて於きたい。もしそれらのような印象があればお詫び申し上げると共に、そうした意図は一切無いと申し添えておく。そうした単なる人間社会における分析であるという事は、文章を追って読んで頂く事で分かって頂けると思うので、できればまず通読をお願いしたい。
これを読む方は個人心情として理解できぬ部分もあるかもしれないし、私も理解が及んでいない。だがこれに踏み込んだ考察を書いていきたい。
さて、一般的ではない、社会的には異端であるという意味での異常性癖には私が知りうる限り下記のようなものがある。
同姓を対象とする、小児を対象とする、獣を対象とする、死体を対象とする、排泄物を対象とする・・・etc。
芸人である井手らっきょさんは70すぎの高齢女性と性交渉したらしいが、これも一般的でない範疇に含めて良いだろう。
こうした事はなぜ起こるのか。そうした本能的な衝動がその人にはあるから、というのに私は少し疑問がある。
これについての考えを述べる前に、事前の考察として下記のものから記載しておきたい。
誰しも、幼少の頃は排泄物の幼稚語に該当する「うんち」や「うんこ」などの言葉に笑ってしまったり、あるいは親から怒られる事を承知で面白がって、これらの言葉を多用していた経験はあると思う。
これらの言葉をなぜ幼児は使いたがるのだろうか、あるいはそれらに笑ってしまうのだろうか。
人間は行動可能範囲の確保に喜びを見出す。例えば年収1000万であれば、一般と比較して色々なものが購入できる。こうした相対的比較に喜びを見出すのが人間であるが、元々行動不可能範囲であった所へ移動できたり、あるいは不可能な事柄が自らの能力でできたりする事--つまり行動範囲の拡大に関しても、喜びを見出したり、当初はとても自分なんかが活躍できない舞台に努力が認められ抜擢された、あるいは、努力が実り作品に賞を貰った、スポーツ大会で優勝した・・・、こうした「決められた枠線」に関して、それらを飛び越える動的な能力を自認すると、人間は喜びを見出すのではないか、と私はこのように作業仮説を立てて考えている。
話しを戻すと、幼児における「うんち」「うんこ」の多用もこれに該当するのではないか。社会のルールにおける禁止用語があるが、それを飛び越える能力(「うんち」「うんこ」の発声可能)を自認した時にその喜びを感じているのではないか。
そして更に翻って異常性癖について考えてみると、それらが一般的ではないからこそそれの一線を超えようという意識や感情が働くのではないか。一般的に手に入れにくいもの程、価値が社会的に与えられる。それを得ようとして禁忌を犯すのではないだろうか。
ただ、この理論には穴があるので補足をしておくと、この希少性としての価値のあるものの入手という行為には、一般的に「あの人はあれをできる手段を手に入れた」と言ったような周辺の個体からの認識や承認もその価値に一旦に含まれる。
性癖における希少性とは、それを手に入れた場合はその社会からの承認はプラスになるどころかマイナスになる。この意味で希少性の入手には真逆の効果が働くが、異常性癖を持っている人達は、それらの社会からの承認、認識よりも、自己満足のみで構成されていたり、自己内での承認が完結していたりする人なのではないだろうか。
宝くじに当たったら貯金すると回答する人が大半だが、その反面、実際に当たった人の中でごく短期間に使い切ってしまう人も存在する。この考え方はいわゆる「普通」ではないが、まだ許容できる。
さて、そんな中「考え方」というようりも本能的な行動に関して分類される性癖について特殊な人達がいる事について考えたので、ここに記載しておく。
前以て記載しておくが、これらの性癖を持つ人達への差別や人権侵害ではなく、飽くまで分析と仮説である事だけ申し上げて於きたい。もしそれらのような印象があればお詫び申し上げると共に、そうした意図は一切無いと申し添えておく。そうした単なる人間社会における分析であるという事は、文章を追って読んで頂く事で分かって頂けると思うので、できればまず通読をお願いしたい。
これを読む方は個人心情として理解できぬ部分もあるかもしれないし、私も理解が及んでいない。だがこれに踏み込んだ考察を書いていきたい。
さて、一般的ではない、社会的には異端であるという意味での異常性癖には私が知りうる限り下記のようなものがある。
同姓を対象とする、小児を対象とする、獣を対象とする、死体を対象とする、排泄物を対象とする・・・etc。
芸人である井手らっきょさんは70すぎの高齢女性と性交渉したらしいが、これも一般的でない範疇に含めて良いだろう。
こうした事はなぜ起こるのか。そうした本能的な衝動がその人にはあるから、というのに私は少し疑問がある。
これについての考えを述べる前に、事前の考察として下記のものから記載しておきたい。
誰しも、幼少の頃は排泄物の幼稚語に該当する「うんち」や「うんこ」などの言葉に笑ってしまったり、あるいは親から怒られる事を承知で面白がって、これらの言葉を多用していた経験はあると思う。
これらの言葉をなぜ幼児は使いたがるのだろうか、あるいはそれらに笑ってしまうのだろうか。
人間は行動可能範囲の確保に喜びを見出す。例えば年収1000万であれば、一般と比較して色々なものが購入できる。こうした相対的比較に喜びを見出すのが人間であるが、元々行動不可能範囲であった所へ移動できたり、あるいは不可能な事柄が自らの能力でできたりする事--つまり行動範囲の拡大に関しても、喜びを見出したり、当初はとても自分なんかが活躍できない舞台に努力が認められ抜擢された、あるいは、努力が実り作品に賞を貰った、スポーツ大会で優勝した・・・、こうした「決められた枠線」に関して、それらを飛び越える動的な能力を自認すると、人間は喜びを見出すのではないか、と私はこのように作業仮説を立てて考えている。
話しを戻すと、幼児における「うんち」「うんこ」の多用もこれに該当するのではないか。社会のルールにおける禁止用語があるが、それを飛び越える能力(「うんち」「うんこ」の発声可能)を自認した時にその喜びを感じているのではないか。
そして更に翻って異常性癖について考えてみると、それらが一般的ではないからこそそれの一線を超えようという意識や感情が働くのではないか。一般的に手に入れにくいもの程、価値が社会的に与えられる。それを得ようとして禁忌を犯すのではないだろうか。
ただ、この理論には穴があるので補足をしておくと、この希少性としての価値のあるものの入手という行為には、一般的に「あの人はあれをできる手段を手に入れた」と言ったような周辺の個体からの認識や承認もその価値に一旦に含まれる。
性癖における希少性とは、それを手に入れた場合はその社会からの承認はプラスになるどころかマイナスになる。この意味で希少性の入手には真逆の効果が働くが、異常性癖を持っている人達は、それらの社会からの承認、認識よりも、自己満足のみで構成されていたり、自己内での承認が完結していたりする人なのではないだろうか。