これの画像なのであるが、「感覚派より多くを言語化できる人間の方が頭がいい」と言う話に読める。
さらに言えば、それが何か、人間としての優劣、人生の充足度合いを決めるようなメッセージとして読めるのだが、本当にそうなのだろうか?
例えば旅行に行った時に、
Aさんは「紅葉がきれい、滝がきれい、あの人と食べた羊羹がおいしい。そういえばその時からかわれて怒ったけれども・・・」と思い出した。
Bさんは「あの種はイロハモミジで色が変わったのは、温度が変化した○月○日、滝は○○が命名、羊羹はカロリー○kcalくらい。」と思い出した。
旅を満喫できているのはどちらだろうか?
同様に、人生も理論や言語で割り切れない部分がある。
単に知識が大量にあるだけではダメなのであって、人間は、その主体的観測を以て、その人自身の人生の味を充足させなければいけないのである。
少し辛辣な言い方をすれば、この画像のメッセージは極めて安直だ。
知識の多寡は、確かに人生を充足させる手段になりうるが、しかしだからと言って、その対象に対する単純で純粋な感受性を置き去りにしていい訳ではない。
絵画や音楽、映像作品や映画やゲームなどの感動と言うのは、言語化して分析できない。
感動するからこそ、理性に押し込められないのであり、理性で割り切れない要素であるからこそ感動するのだ。
全て分析対象として理解に努めていれば、それは知体系の運用として役に立つだろうが、しかし無味乾燥の砂漠を人生で味わっているにすぎない。