私が昔から違和感を抱いていたのは、競争を推奨される社会であった。
競争を推奨するのはまだいいが、ひどくなるとそれを押し付けるようになり、社会の義務になり、かつ、それをしていないと普通の人間として見られないと言うようなことまで起きる。
そうした「現在あるべき資本主義的競争」のある社会から一歩引くことができた私の今の現状から考えるに、それらの全ては合理的ではあっただろうが、人間として不健全であった。
曰く「ライバルには負けないようにしなければいけない」だとか、曰く「敵とは仲良くするな」だとか、曰く「競争は勝たねば意味がない」・・・。
ふむ、その主張は分かったのだが、思うに「自分とは意(い)を異(こと)にするそうした相手」はどこにいるんだろうか?
それは不必要に敵愾心を煽って、他者の協力が産めてない状態になっていないか?
あるいはそうした敵ばかりの社会は本当に人間の社会として健全なのだろうか。
押し付けられたその社会情勢から得られる帰結は精神の疲労である。
ギスギスした人間関係が本来求められるべき社会なのか? そうではないだろう。
全てが全て仲良しこよしであっても社会は回らないが、完全ドライなビジネスライクな関係も社会を構築する要素としての、健全な人間関係とも言い難い。
私は騙されていた。それらは作られた敵だったのだ。
一方、私はそれとなくライバル視と言うか目標もできた。
これは現在の本業の方ではなく、また着手をしている事業のことでもない。
一部の人にだけこっそり言った、とある将来やりたいこと、の内容であったが・・・
その目標を考えるに、私は自然と内発性の動機から、その人は凄いなあと思い、一方において欠点もよく見えてしまい、かつ、それだったらこうすれば超えられるのではないのか、と言うような改善案と自分なりの創出をもするようになった。
そしてその人と競り合いたいとも思ったし、仲良くなりたいとも思った。
その「やりたいこと」のジャンルについて深く語りたいとも思った。
これが本来あるべき人間のライバルであって、敵であって、そして競争相手であろう。
決してそれは憎むべき何かではなく、自己の研鑽を積むための目標と成りうる健全な人間関係のことであるのだ。
競争を推奨するのはまだいいが、ひどくなるとそれを押し付けるようになり、社会の義務になり、かつ、それをしていないと普通の人間として見られないと言うようなことまで起きる。
そうした「現在あるべき資本主義的競争」のある社会から一歩引くことができた私の今の現状から考えるに、それらの全ては合理的ではあっただろうが、人間として不健全であった。
曰く「ライバルには負けないようにしなければいけない」だとか、曰く「敵とは仲良くするな」だとか、曰く「競争は勝たねば意味がない」・・・。
ふむ、その主張は分かったのだが、思うに「自分とは意(い)を異(こと)にするそうした相手」はどこにいるんだろうか?
それは不必要に敵愾心を煽って、他者の協力が産めてない状態になっていないか?
あるいはそうした敵ばかりの社会は本当に人間の社会として健全なのだろうか。
押し付けられたその社会情勢から得られる帰結は精神の疲労である。
ギスギスした人間関係が本来求められるべき社会なのか? そうではないだろう。
全てが全て仲良しこよしであっても社会は回らないが、完全ドライなビジネスライクな関係も社会を構築する要素としての、健全な人間関係とも言い難い。
私は騙されていた。それらは作られた敵だったのだ。
一方、私はそれとなくライバル視と言うか目標もできた。
これは現在の本業の方ではなく、また着手をしている事業のことでもない。
一部の人にだけこっそり言った、とある将来やりたいこと、の内容であったが・・・
その目標を考えるに、私は自然と内発性の動機から、その人は凄いなあと思い、一方において欠点もよく見えてしまい、かつ、それだったらこうすれば超えられるのではないのか、と言うような改善案と自分なりの創出をもするようになった。
そしてその人と競り合いたいとも思ったし、仲良くなりたいとも思った。
その「やりたいこと」のジャンルについて深く語りたいとも思った。
これが本来あるべき人間のライバルであって、敵であって、そして競争相手であろう。
決してそれは憎むべき何かではなく、自己の研鑽を積むための目標と成りうる健全な人間関係のことであるのだ。