とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

雑記

2013-03-31 14:42:17 | 雑感
・現在の職場のとある文言が「努力は無駄」のような感じがしてとてもイヤだ。確かにそんな職場のような気がするが・・・。それもまあ、今日で終わりだ。
・ステーキの付け合わせのアスパラとニンジンとコーンのまずさは何とかならないのか。
・ヴィンランド・サガはやはりいい。あの悲しい物語にどうしても引き込まれてしまう。
・悲しい物語は現実にあってはならない。それでは我々が生きる現実の社会ではどうすればいいか。
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仕事の愚痴パートX

2013-03-31 10:05:11 | 会社での出来事
さてはて、「三月一杯までのお話でヘルプに入る」と言われれば、通常は一月前の二月末より引継ぎに入り、最終週に資料片付け、最終日に挨拶回りをして定時に帰るか飲みに行くと言う感じであると思うし、業種によって違うのかも知れないが、まさか休日まで使って仕事はしないだろうとは思う。そして、今迄そのようにして来たので、本来であればおとといそうなるはずだったのだが、昨日今日と出勤となってしまった。理由は上が最後の最後まで仕事を引き受けてしまったから。風邪を引いてからだがだるい。熱がある。出勤したくないが、そうもいかないだろう。
これはどうしてこうなったか。
原因は四つあると見ている。
一つ目は既に破綻した計画の後始末てあるということ。上流の会社は下流に委託したが、計画履行が破綻した。責任は破綻した委託先にあるので、その委託元としては尻拭いを極力したくない。ので、期限ギリギリまで委託先に働かせる。要は委託を受けた者の責任だ。
二つ目に委託しようがしまいが、破綻するような背景や性質が、既に受注元のこの仕事に醸成されている。
この仕事は最終顧客がいて、最終顧客が外注し、外注を受けた会社がそれを更に外部へ委託しているような形となる。この最終顧客からの注文をうまく断れていないので、それ以降より下の人間がワリを食っている形だ。
通常は交渉をうまくやって、マンパワー以上の仕事を引き受けないのが普通である(但し、マイナスが取り消しになるくらいのプラスが将来的に見込めるのであれば、別の判断も下されるだろう)が、この職場では普通に投入人数以上の仕事を引き受けてしまっており、そしてそれが慢性化してしまっている。よってこの仕事が採算と言う観点で陽の目を見ることはない。意識不明で倒れた人と入れ替えの形で私達が入ったが、根本的な対策を打たない限り、この職場はまた誰かがバタバタと倒れる可能性は存分にある。
三つ目に受注元、受注先の接点となる、私達の上長が、交渉に負けてしまっていると言うことだ。当初の負けを取り返すのに頑張っているのは分かるし、そもそもこの人も代理なので大変なのは分かるのだが、それにしても交渉での負けが多すぎる。出来ない注文は断って欲しいのだ。
四つ目だが、受注時の契約、所謂サービス仕様書をきちんと締結していなかったのも重要な原因の一つである。これだから飛び入りの作業をどんどん頼まれてしまう。そもそも撤退直前まで締結していないというのはどういうことなのだろうか。

以上が私が思う見立てであるが、さて真相はどのような事象が絡み合ってこのような結末を迎えたのだろうか。
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仕事の過酷度というものは、常にマイナスにしか振り続けないものか?

2013-03-30 20:08:40 | 会社での出来事
嘘か本当か分からないが、ネット上で次のような文章を見つけた。

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「求む男子。至難の旅。僅かな報酬。極寒。暗黒の日々。絶えざる危険。生還の保証なし。
成功の暁には名誉と賞賛を得る」

1914年に探検家のアーネスト・シャクルトンが人類初の南極点到達を目指した探検隊の募集広告です。
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私はこのような環境よりもずっとヌルいところで働いているが、しかしもう限界に近い。そして栄光も賞賛も受けない。

世の中仕事の内容がつらいというのは共通で、どちらかしか無いのだろうか。安全、安心というものが無いのだろうか。どうして、自由闊達に仕事が出来ないのだろうか。

別に清く正しく明るく面白くで更にお金を稼いでみんなハッピーみたいな体制があってもいいんじゃないか。むしろこうすべきなんじゃないか。
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ワールド・トレンド・エンターテイメント

2013-03-30 10:44:14 | 哲学・社会
現在のエンターテイメントにはよくよく観察してみると、ある種の傾向があることが分かる。これは昔からあったことなのだが、現代には更にその傾向が高まってきたのではないかと私は考える。その傾向とは何かの考察をここに書こうと思う。

現在のテレビ業界は日本だけでなく、世界的に衰退の一途を辿っているとされる(それでも巨大な牙城の一部が崩れているだけで、まだまだ巨大な組織だと思うのだが)。しかし、テレビのコンテンツのエッセンスの多くは、ほぼインターネットに蚕食されて久しい。が、それではテレビという存在はエンターテイメントから完全に無くなるかと言うとどうもそうでないらしい。ロンドンエコノミストの分析によると将来にかけては違う観測がなされている。そこではテレビはイベント性のあるものが生き残るとしている。どういうことか。簡単に言えば、生中継であるか、リアルタイムの放送であるかどうかということである。生中継であればテレビの独壇場だ。
もう少し細かく考えてみよう。これらはどういう違いがあるのかというと、コンテンツの視聴者から見て先が見えるか見えないかの差異ということになる。例えば、映画は悲劇であろうと喜劇であろうと、予め結末が決まっている。なので、録画したり、あるいは版権元企画によるインターネットでの無料放送を利用したり、あるいはDVDを買ったり、借りたりして見ればいいが、サッカーの日本代表戦などはそうもいかない。サッカーの日本代表戦などを録画で見たい、あるいはDVDを買って見ようと思う人はそうそういないのではないだろうか(しかし、これらのイベント性があるコンテンツには弱点があり、それは、映画やドラマのように、再放送が出来ないこと、DVDの販売が出来ないことだ)。別の角度から言えば、一回見ればいいものがテレビで見られ、何回も繰り返して見たいものが、テレビ+ネットやDVDでの供給の傾向となる。

この傾向は、現代の漫画にも当てはまる。昔は巨悪に対して主人公が苦労、挫折、努力をし、そして最終的な勝利を収めると言う図式であったが、現在ではこの傾向が少々異なる。ガンツ、テラフォーマーズ、進撃の巨人、ハンターハンター、ドリフターズ、バキ、予告犯などなどいずれも決まった一点への収束では無く、「生放送でのスポーツの試合のように」先が見えない。デスノートもこれに含めて良いだろう。但し、漫画はテレビと違って金を出して購入するものであるし、そもそもワンピースや鋼の錬金術師、ドラゴンボールやダイの大冒険、うしおととらなどの決まった一点への収束をする王道漫画もある。また、昔にどこへ着地するか分からないと言ったマンガが無かったかと言うと、そうではなく、楳図かずおの14歳や私は真悟などがあったから、完全にトレンドが切り替わったかというとそうではない。
もっと遡れば、更に先が見えない、物語の決勝点が見えないと言う点では、三国志の時からそうであったのではないか。しかし、「ゴールを目指して頑張って、苦難を努力によって乗り越える」的なマンガは現在のトレンドから外れているように見える。

今度はゲームに目を向けて見る。昔テトリスが流行った頃は、何回も中毒患者のようにゲームをやる者がいた。その後、ゲーム機が高性能になるにつれ、長編RPGなど一回だけやればいいや、というものが増えた。更に現在ではまた原点回帰し、、中毒性のあるソーシャルゲームが流行っている。
ネットゲームはよく分からないのだが、これはイベント性を重視したものになっているのだろうか(つまり、再度同じプレイをしたくなるか否か)。

更に今度はテレビに目を向ける。ドリフ大爆笑のコントは決まった結末があったが、八時だョ全員集合はどこへ転げるか分からないイベント性、ハラハラ感があった。家政婦のミタは私は見ていないので何とも言えないのだが、しかし、結末がどこへ向かうか分からなかったのではないか。たけしの元気の出るテレビはどこへ向かうか分からなかったし、電波少年のアポ無し○○も録画ではあったがハラハラした。
ただ、これらは野球中継なサッカー中継のように生で見られるだけでなく、録画で見ても面白いので、完全なイベント性に偏っているとは言えない。
だが、「既成にあった決まった枠組みが無い、どこへ向かうか分からない面白さ」が、この番組にあったことは否定できないと思うのだが如何だろうか。
その昔、「悪魔のKISS」というストーリープロットも覚えていないようなドラマがあったのだが、笑っていいともか何かに出ていた奥山佳恵が放送中の番宣の為に「脚本とかもまだ未決定で制作進行中なんです! 」と言って盛り上げようとしていたが、冷静に考えると適当に作っていたのがバレてしまっている。こういうと悪い印象なので少し角度を変えた形で言うと、ストーリー性よりもイベント性を優先した結果こうなったのだと私は考える。人間性の核心に迫るような純文学的展開はしていないので、「ストーリーや展開が良かったからもう一回見たい」とか言う人はあまりいない。
宇多田ヒカルの歌で「秋のドラマ 再放送」と言う歌詞があって、この辺のけだるさに共感を覚えるのは、リアルタイムのイベント性に起因するんじゃないだろうか。

エンターテイメントの分類手法とその仕分けには、結論するにはまだまだ材料が不足している。
しかし、中間的な結論としてイベント性のある作品群と、非イベント性である作品群に仕分けた場合、現在のテレビのトレンドはイベント性に傾くだろうか。昔からあった手法がますますその傾向を強めていくだろうか。

テレビ局の再編、予算の削減、スポンサー離れ、そしてあまり言いたくないが、大衆から見たテレビの不信感。イベント性の展望と非イベント性の閉塞。これらが結合してどう展開していくのか、誰にも予測はできない。
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ウェッジ・スレイブリー

2013-03-29 21:24:11 | 会社での出来事
怒りにまかせて書く。
これは奴隷労働だ。

曖昧な契約範囲に基づく契約外作業、無計画な計画延長。これらがあるから長時間の残業を強いられるのだし、そこに人間的な思いやりがどこかにあれば、過労などというものは防げる可能性は大いにあるのに、その片鱗さえ見えはしない。

現場とは、計画と実装の両輪で成り立つ。簡単に言えば、指揮官と兵隊だ。
兵隊がサボっているのは論外だが(無論、それでも適切な休憩は必要)、指揮官が適切な布陣を敷かず、指揮官自身が兵隊が死ぬのは兵隊の責任だ、俺のせいじゃないと言っているのは組織として極めて論外である。
そしてそれが今の職場だ。兵隊に無限の体力があると思っている。そして、そこから脱落する者は、ただ倒れたのを見守られるだけだ。場合によってはその先に本当の死が待つかもしれない。
ここのどこに人間が構築すべき社会があるのだろうか。これは何故許されているのだろうか。いや許すべきではない、
人を守らない社会状態などは、断固として糾弾すべきであるのだ。

と、ここまで書くと、私がワーカーホリックを否定するように見えると思うが、実は私はワーカーホリックを否定しない。但し条件付きだ。家族食わせなければいけない場合。自分の仕事が使命性・特命性を帯びている場合。純粋に仕事が面白くてやっている場合などだ。

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