とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

デザインとは何か

2018-06-30 22:02:43 | 哲学・社会

http://nandemo-reviwe.hateblo.jp/entry/2015/12/24/181857

残った形状は『必要』そのもの。
『要求』そのものを形状に残したもの。機能だけが形状になっている。


そう、デザインとは何か。

皿であれ、家具であれ、衣服であれ、言語であれ、保険や年金の設計、自動車、飛行機、エンジン、船・・・

それらは必要があって設計され、加工され、実装されるのだ。


人間の認識における必要とは何か。

経験から来る利便性の要求の実装か。
理念から来る理想の要求の実装であるか。


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自己肯定感を奪った企業が憎い

2018-06-30 20:13:03 | 会社での出来事
現在の日本社会では、労働環境が国際的に比して悪化している、と言う問題を抱えている。
言わば「ブラック企業」のことであって、この単語が通じるのは日本含む、東アジアでしか通用しないのではないかと思う。
つまり儒教精神に従ったら、個人の生命や人生を削り取るまで奉仕せねばならないのだという社会契約概念まで至ってしまった問題だ。

さて、そんな中、私個人の体験を言うと、まず最初に入った会社がひどい会社だった。
とにかく怒鳴る&怒鳴る&怒鳴る。
社屋は雑居ビルの5Fと6Fに入っており、そこでは大きなワンフロアを、床から天上まで渡らせる薄い壁となったパーティションで区切られていて、通常の会話は隣の部屋には聞こえない。
ただ、そこで行われていたのは怒声と罵声のオンパレードだったので、隣で何が叫ばれているのかはよく分かった。
月曜9:00よりスタートする重役会議は、業績が良かろうが悪かろうが常に怒鳴るスタンスだった。
そしてそれがいつしか普通の光景になった。

入社してから何年目であっただろうか、今の場所が手狭なので別の場所に引っ越そうとなった時、今度はパーティションで区切られた部屋ではなく、会議室が設けられた。

平社員がいる普通の執務室とは別に、一枚の分厚い鍵つきのとびらがあり、そこから数メートルの絨毯の廊下を渡ると、会議室の分厚い扉があり、その中で会議が行われるとのことだった。

いざ引っ越しを終え、通常の業務をし、月曜朝の怒鳴り声はもう聞こえないだろうなと思っていた矢先、それでも聞こえてくる、と言うのがこの会社の実態である。


そんな会社を退職し、今度は別の会社に転職をした。

ここの企業体はどこの職場でも8割方くらい、おおよそ人は良かったように思え、ここはなんて天国なんだろうと思ったことがある。
が、最初入った部署は天国だと私は思ったが、他の部署の人に後日聞いてみると、その部署は地獄で評判とのことだった。

八割方の人は間違いなく性格がいい。それでいて少し踏み込んで言えば、少し陰湿な部分があった。
こちらが間違いがあればきちんと謝罪をするのは当たり前だが、向こうが悪くても謝罪をしてくれないのである。

そしてそれが積み重なり、気づいた時には自己否定で潰される感じとなるのだ。

私は当時の組織とうまくやれなかった。仕事ができなかった時分は仕方もないのだが、仕事で成果を出してもそれがまっとうに評価されない制度と仕組みと機構と構造はどうにかならなかったのか。

私はこの点で怒りにまみれている。なぜ評価して下さらなかったのか、と。
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サザエさん胸糞脚本の裏

2018-06-30 19:37:47 | 雑感

今週のサザエさん、あまりにも胸糞すぎる

1: 2018/06/17(日)19:20:42 ID:Her

カツオがマナーを重んじ部屋に入る際にノックをするようにと要求

いちいちしてられないなぜそんなことをしないといけないとなぜか断固拒否するサザエたち

耐えかねたカツオがホテルのドアに掛ける就寝中の表札のようなメッセージプレートを部屋の扉に張るようになる

波平がアイスを買ってくるもタラオの悪戯のせいで寝てると思い皆が食べる中カツオをハブる

こんな事はもうやめろとカツオを責め立てる磯野家一同

ワカメが家族を煩わしく感じるなんておかしいといいだし、ノックの拒否どころか波平が子供部屋の扉は常に開けるようにと命令

カツオの「我が家にはプライバシーもマナーもないのか」発言で締める



35: 2018/06/17(日)19:31:02 ID:9t1
どうせ雪室脚本回だと思ってみたら案の定だったわ
大方子供か孫の部屋ノック無しで入って怒られたから腹いせで描いた回なんだろうよ



そこまで裏を読むかwww
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宇宙の始まりの疑義

2018-06-30 17:41:21 | 哲学・学術・教育
現代物理学においては、137億年前に宇宙が誕生し、そこから物理法則と化学反応が始まったのだとされる。

それではそれ以前にあったのは何だったのであろうか。
人間はよくものごとの終わりと始まりを規定して、そしてその間の中にある状態を論じるのだが、私が思うに137億年前の「始まりが始まる前」について、そこにはよく、時間も空間もない、無であった、と言うような説明がなされるのだが、「始まりが始まる前」の物理観測はそれでいいとして、時間そのもの、つまり数直線のゼロの向こうの「時間なき時間」はどう捉えればいいのだろうか。

私が思うに人間の認識の欺瞞がそこに潜んではいないかということになる。

物理学上の時間とは何であろうか、と論ずる時、それはまだ定義の決着を見ていないが、私の論に従う場合、それは「変化経過における、相対的な変化の度合いの尺量・度量衡」と言うことになる。
Aが〇〇だけの周期で変化した時、Bがどうなった、と比較変化を論ずる、人間の基本認識の目盛りの概念が時間なのである。

とすると、それが正しい場合、「時間なき時間」、時間の目盛りのゼロの向こうにおいてはどうであろうか。
そう、「基準となる変化そのものが発生していません」と言うことになる。

爆発前の無の空間では、有への揺らぎが存在し、そしてそれがはじけた時に宇宙が開始された。
おそらくは基準となる変化そのものが開始せしめていなかっただけなのであって、ゆらぎ状態の継続そのものは続いていたのではないか、と言うのが私の作業仮説である。

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日本に「日本礼賛」の番組や書籍が増えた背景

2018-06-30 11:04:53 | 雑感
日本国内で日本礼賛のTV番組や、あるいはその類の書籍が増えて、何やら楽しさも感じる一方で、その量が増えすぎたことによるうんざり感が出てきているのが昨今の現状である。

そもそもこの日本礼賛の媒体が増えたのはなぜなのか? これを今回は考える。

人間の幸せとはなにか? と言うと、それはお金持ちになることだったり、美味いご飯を食べられることだったりするのも一つの解答だが、本質的に重要な解答の一つとして「どれだけ人間関係のコネクションが本数が多かったり、あるいはそのパイプが太かったりするか」がその答えとなる。
ハーバード大学の心理学においてそのような追跡調査がなされた。

親子の関係もそうだし、夫婦・恋人や友人の関係、果てはペットとの信頼関係が築けるのもこの類だ。

そこへ来て、人間の歴史の中でも、日本人と言う人種は傷を負った。
「WW2で倫理的にお前は悪だったのだ」とアメリカより徹底的に刷り込まれたのである。
どう考えても、米国の言い分である「原爆を落とさなければ更に死者が増えたのを抑止した」と言うのは詭弁だ。
それならば、戦線を引いて講和をすればいいのである。

そして米国の指導の基による戦後教育での刷り込みにおいても、戦勝国が行う正義としてやりすぎのものがあったであろう。
あるいは原爆投下後にヒロシマへ医師団をアメリカは派遣したが、彼らは治療を任務としていなかった。
薬を与えたが、それは偽薬であり、飽くまで彼らの目的は経過観察、すなわち原爆を使った人体実験をヒロシマでやっていたのである。

そうした欺瞞を全て覆い尽くされ、あるいは情報のシャットダウンをされ、正義の陰に隠れた犠牲や嘘を日本人は知らされず、そしてひたすら「自分たちが悪かったんだ」と思い込んで戦後の世界を走ることになる。

人間は自己肯定感がなければ健全に生きていけない。
日本は良いことをしていなかったのだ、と言う贖罪を基に、罪悪感を抱えながら生きていて、国際関係上は孤独であった。
つまり、人間としてのコネクションとしてそれらが全く皆無であり、この外部との関係が肯定的に存在しないことで、人間として幸せではなかったのだった。

そこへ来て、普通の外国人が普通の日本人と接して、「なんだ、日本人は普通じゃないか」「ここが素晴らしいじゃないか」と比較文化の上で褒めてくれる。これが傷を負った日本人には何より嬉しかったのだろう。
確かに悪い気はしないし、褒めてくれる部分は事実だし、あるいは日本を批判するにしても、飽くまでそれは日本を愛してくれるからこその裏返しとして、「ここはこうした方がいい」と言ってくれる。

日本という国を先入観から嫌っている人もいるにはいるが、圧倒的大多数は日本を普通の国として扱うのである。
そして「自分の国は世界にとってマイナスの存在だったんだ」と言う過剰な自己否定と先入観を持って暮らしていた日本人にとっては、普通に扱われるのが非常に嬉しいのだろう。


私が思うに、日本人は、過剰に自己否定をせず、卑屈にならず、もっと健全で勇壮に、そして屹立して敢然に生きていくべきだと思う。
そのような国際史観の関係史を整理し、きちんと悪かったところは反省し、そして良かったところは伸ばしていく、そういう世界を生きていくべきではないのか、と思う。



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