私は学習を忌避していた。
なぜなら、洗脳を受けているような感覚になったためである。
何に使われるか分からない知識を、そのインプットとアウトプットを丁寧に正確にやっていけば、とにかくよく分からないが周囲の大人が意味もなく褒める。
小さい頃はそれが心地良かったものの、成長をするにつれて、それが疑問に変わっていく。
「なぜ苦痛性のある無意味記憶の出し入れを、こちら(子供)の納得感もなく大人が称賛したり罰したりするのだ? 」
「これはこちらのためとは言え、こちらの都合や苦痛も鑑みずに大人が納得するためだけにやっているんじゃないのか? 」
・・・
それで反抗的になっていく。あの学校と言う存在は、児童の苦痛製造装置である。
それを上手く自分自身の納得のいかなさを封じ込めたり、ごまかしたり、自分自身で洗脳したりする人間が上に行くと言うシステムにますます納得いかなくなり、そしてそれができない限界に到達すると、学業において転落という烙印が押される。
よって、学業は独創性のある素晴らしい営為である、ということではなく、刑務所における刑務作業に近いので、必要限度のことしかやらなくなるのだ。
学業とは楽しいことではなく、苦痛であるので、そのノルマを達成する必要最低限のことをやってあとは別のことをする。
意味もなく「ほらテストでいい点とって勉強できたらいい大学に行けていい会社に入れるのよ」ではロボットみたいな人間ができあがる。
はっきり言ってこのシステムは良くない。
ではどうすべきか。児童は児童なりに心理的な発達をするので、それに合わせた「知識による効力」を体験させるべきなのである。
英語の契約文章でぶん殴ったら向こうが言うことを聞く、数学とコンピューターによって仮想通貨が稼げる、物理で実際に計算をしてペットボトルロケットを作ったら1F校庭から後者屋上にぴったり着地させることができた、組み立てでスマホ充電できる手回し充電装置を作れた、映画「ロレンツォのオイル」を見せる、図書室に、Dr.Stoneとはたらく細胞
を置く・・・。