とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

漫画・おじいちゃんキャラ(特に執事)

2023-10-11 19:55:27 | マンガ
似てる似てるとか言われているようだが、最終的には執事キャラとか収斂進化して大体こうなるねんと。

ワンピース・ガンフォール


スパイファミリー:ヘンリーヘンダーソン


ビッグオー:ノーマンバーグ


ヘルシング:ウォルター・クム・ドルネーズ

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気づいたら下書き含めて全34008件書いてたらしいです。

2023-10-11 19:49:00 | 雑感
しかも本人は苦ではないと言う。
(書かない方が苦しい)
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自己肯定感と否定感について

2023-10-11 19:48:00 | 雑感
私が不思議に思うのは自己肯定感と否定感についてである。

私がついぞ今まで自己否定感に悩まされてきて、それでいて日本人の多くは同じような悩みに苛まされていると言うことはよく聞く話だった。

だが、疑問に思うのは、「そういう自己否定に悩まされている当人に対し、その当人は自発的にそうした訳ではなくて周囲からの注意やら小言やら否定やらでそうした人格が作られてきたのであって、そうした否定的行動を享受せしめてきた環境が今更になって『自己肯定感を持とう』とか言い出しているのはおかしくないか? 」と言うことなのである。

これではまるで、白人が奴隷売買をしてきたのに、「奴隷売買はいかん」とか言い出して正義ぶっている欧州諸国と大体一緒なのではないか? と。
いや正確には部分集合がそうしているのだろう、悪い人が初動をし、良い人がその修正を与える、と。

ともあれ、自己否定はすべきではないが、尊大になってもいけない。
良いところには健全な自負を持ち、そして悪いところにはその反省をして今後はしないようにするという中庸がいいのだろう。

コンゲームにおける今世紀最高と評価されるアニメ「コードギアス」であるが、私はこのオープニングの曲にちょっとだけ救われる思いがした。
「迷いながら 悩みながら 悔やみながら 決めればいいさ」
と言う歌詞があって気が楽になるのである。自分の内情を含め、これはどういうことなのだろうか。

私個人が考えるに、基本的に迷い、悩み、悔みと言う自分自身の弱さに対して、世間は糾弾をするし、自分も罪悪感を覚える。しかしそういうことは人間として自然なことなのだから、それらを抱えていって生きていっていいんだよ、と言う歌詞の構成になっているのではないか、と。

自分の悪いところも、変な所も、ダメなところも全て自分自身の人間としてあるべき所作なのであって、それは世間の誰からも批評されうるものではない。

それを指摘する当人たちは良かれと思って、自らの正義感やその正しい尺度を元にこちらに修正を求めてくる。
曰くこれをやってはダメ、曰くこれをやっては変、曰くここまで届かないといけない・・・
それらはある種の正しさなのかもしれないが、しかしその後にやってくる当人への成長への阻害と言うところを全く勘案していない。
これでは人間が育たないのも当然のことではないか。

なので、そうした人達の言葉から構造的に、あるいは物理的な距離的に逃れ、関与しないところで自分を自分らしい正しい人間へと育てることが大事なのである。
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「そんなの聞いてないわよ」と言う女性の謎のセリフ

2023-10-11 19:47:48 | 雑感
女性起点でとある人間をどうこうする→その対象の人間がそれをトリガーにひどい目に遭う→それを聞いた女性が「そんなの聞いてないわよ」と言う。

ここまで無責任なのは珍しい上に、かつ、世間にさらっと認めさせていてかつ世間も何となく認めていると言うような、精神的なサディズムとグロテスクさと言うのを兼ね備えた発言だ。
わずかに暗がりを示す日本の闇と言うべきか、あるいは反社に小指一本分踏み入れたような言葉で正直きっしょい。

本来であるならば、そういうことが起きたならば、その諸々の悪影響を全部ひっくるめて自分の責任なので、あいつはそういう目に遭うとまでは思わなかったが、しかしそれをやった自分は間違ってはないし、それを含めて私の責任であり私の悪であると言うべきところだろう。
こういう悪の所業を背負うことを放棄して、自分は悪くないムーブをする女性は一体何なのかねとは思います。
(しかもそれでありながら、世間には何となくこの言動が認められていると言う)。
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CM経済圏の範疇外であった我が家

2023-10-11 19:47:36 | 思い出
私が大人になった後での感想と、子供の頃に体験した経験には齟齬があって、時々「おや? 」と思うことがある。

その内の一つがCMだ。

普通の人々の視線に寄り添って理解しやすいように言及すれば、次のようになる。
普通はテレビのCMを見て「おっ、あの商品欲しい! 」と思うことだろう。
そしてそれの効果が発揮され、そのCMを見たことによって、それを購入する人が増え、かつ、スポンサーたるCMの広告主はそれを見込み、あるいは実績として発生したことがあるので、次なるCMを出す。
これによってテレビ業界はそれなりに潤ってきたはずだ。

一方において我が家の状態はそれとは異なった。
CMに出ている製品は絶対に買わない。それはなぜか? 理由を言えば、CMに出ている商品はそれなりに「ちょっと高い」からだ。

なので、我が家はそれではなく、ちょっとロゴが似ているぱちもんだったり、あるいはCMを出せない企業での安い商品を買うことになる。

当然、私の幼少期はテレビの洗脳にかかっていた訳で、そこに流れる商品も買いたくはなったが、それを購入できる実態としてのお金がないので、いつの日か、「CMで紹介される商品」=「基本的に買わないもの」として自分の認識が定着した。

なので、昔の味噌のCMとか見ると「あんなものは買わなかったなあ〜」「でもなぜそれがCMで流れていたんだ? 」とかなり疑問に思うのである。
答えは簡単で、周囲の一般的な家には、そういうCMで流れる商品を買える金があったのに対し、私の家は単純にそれを買える金が無かったのである。

で、私の中に齟齬が生まれる。
「CMって言うものは購買意欲を増進させるために打つ広告戦略なんだろうけれども、なぜ買わないものを広告するんだろう? 」と。
それの正体が分かったのは、大人になってから随分後になってからであった。
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