私が不思議に思うのは自己肯定感と否定感についてである。
私がついぞ今まで自己否定感に悩まされてきて、それでいて日本人の多くは同じような悩みに苛まされていると言うことはよく聞く話だった。
だが、疑問に思うのは、「そういう自己否定に悩まされている当人に対し、その当人は自発的にそうした訳ではなくて周囲からの注意やら小言やら否定やらでそうした人格が作られてきたのであって、そうした否定的行動を享受せしめてきた環境が今更になって『自己肯定感を持とう』とか言い出しているのはおかしくないか? 」と言うことなのである。
これではまるで、白人が奴隷売買をしてきたのに、「奴隷売買はいかん」とか言い出して正義ぶっている欧州諸国と大体一緒なのではないか? と。
いや正確には部分集合がそうしているのだろう、悪い人が初動をし、良い人がその修正を与える、と。
ともあれ、自己否定はすべきではないが、尊大になってもいけない。
良いところには健全な自負を持ち、そして悪いところにはその反省をして今後はしないようにするという中庸がいいのだろう。
コンゲームにおける今世紀最高と評価されるアニメ「コードギアス」であるが、私はこのオープニングの曲にちょっとだけ救われる思いがした。
「迷いながら 悩みながら 悔やみながら 決めればいいさ」
と言う歌詞があって気が楽になるのである。自分の内情を含め、これはどういうことなのだろうか。
私個人が考えるに、基本的に迷い、悩み、悔みと言う自分自身の弱さに対して、世間は糾弾をするし、自分も罪悪感を覚える。しかしそういうことは人間として自然なことなのだから、それらを抱えていって生きていっていいんだよ、と言う歌詞の構成になっているのではないか、と。
自分の悪いところも、変な所も、ダメなところも全て自分自身の人間としてあるべき所作なのであって、それは世間の誰からも批評されうるものではない。
それを指摘する当人たちは良かれと思って、自らの正義感やその正しい尺度を元にこちらに修正を求めてくる。
曰くこれをやってはダメ、曰くこれをやっては変、曰くここまで届かないといけない・・・
それらはある種の正しさなのかもしれないが、しかしその後にやってくる当人への成長への阻害と言うところを全く勘案していない。
これでは人間が育たないのも当然のことではないか。
なので、そうした人達の言葉から構造的に、あるいは物理的な距離的に逃れ、関与しないところで自分を自分らしい正しい人間へと育てることが大事なのである。