とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

音楽と世情

2012-02-20 01:25:32 | 哲学・社会
一般的に子供の頃というものはどのような音楽を聴いていただろうか。
美空ひばりか。タイガースか。
あるいはジュリーか。キャンディーズか。
もっと行くとセーラー服を脱がさないでを歌って大人に怒られたか。
パラダイス銀河を幼稚園のバスの中で歌っていたか。
モーニング娘か。AKBか。

いずれもその時代を反映した歌が歌われているし、歌が世情を反映した部分もある。皆が皆、それらの時代のそれらのヒット曲に納得するだろう。
全てに力がみなぎっている。
弱弱しい曲が流行ったとしても、それは弱弱しい曲でなければならないという負のオーラに満ち満ちている。

ただ、現在の流行りの歌は決してテレビの中だけのものでないらしい。
未成年を中心にインターネットで好まれている歌がある。

ニコニコ動画を見れば、ボーカロイドソフトで音階のついた声をつけ、ソフトに歌わせているものが目立つ。これは素晴らしい作品が沢山あるのと同時に、時に何故このような奇怪な曲があるのかというものもある。そしてそれらがまたヒットしているのだ。

聴いて頂ければ分かると思うが、それらがゆがんだ心情を表現するかのような音階と音で構成されている。
例えば、
・【GUMI】十面相【オリジナル曲PV付き】
・【オリジナル曲PV】マトリョシカ【初音ミク・GUMI】
・初音ミク オリジナル曲 「アンハッピーリフレイン」
・初音ミク・巡音ルカ オリジナル曲 「ワールズエンド・ダンスホール」
などなど・・・。
私はこれらの曲が嫌いではないが、好んでヘビーローテーションで聞く訳ではない。しかし、これを好んでお気に入りとしている人の心情は大変よく分かる。
これらが流行っている理由は何か。なぜ聴いている人はこれをセレクトしたか。そしてこれらの曲を肯定すべきか、否定すべきか。その辺りを書いていきたい。

これらの音楽が病的だと断ずるにはまだ早い。確かに音楽は病的かもしれないが、一歩進めて考えてみたい。それは、これらの音楽をセレクトさせる社会的背景が病的ではないか、という事だ。現代には人間が動物として持っている本能を抑制しなければならないシーンが度々発生する。衝動は動物として必要であったが、社会に生きる人間としては抑制せねばならない。こうしたジレンマを抱えた私達は自然とフラストレーションを抱える事になる。この時、どこにも吐き出せないフラストレーションを吐き出す場所や方法があった方が社会としては健全だ。これをどうやって吐き出すかと言えば、その一つに、音楽への共感や自意識への客観的認識によって心理的な自己強化を行ったり、あるいは構造的不備を抱える社会への批判メッセージに同調する事を周囲の人間へ主張し、自分がそうした事への批判者である事のアピールをしたり、あるいはメッセージそのものに同調する事で、社会に対する代理攻撃を行っているのではないか。私の場合はユーロビートであったが、自らが抱える矛盾や不満を自分の周辺では吐き出す事ができず、そうした自らの狂おしさ、せつなさを音楽が代弁するので、これを利用していたが、現代における上記の曲を選んでいる人達も同様に、自身の持つフラストレーションの解消や社会の病理に対する攻撃手段としてその曲を選んでいるのではないかと想像する。
そして社会が高度化、複雑化してくるに伴い、そのフラストレーションの形態も一様に捉えきれない様相を示すのではないか。
仮にそうだとした場合、そのフラストレーションの解決策がこれらの音楽のように比較的健全で無くなって来ている。
比較的健全でない、という言葉を使ったが、これらは作者やリスナーを批判したいのではない。
時代は新しい技術とともに、前時代の人間からは眉をひそめられたが、それはその時代の要望にあったものだった。よってこれらは否定すべきではないし、そこから社会の病理を解明する必要がある。

これらの曲群は、現代の時代に見合った奇妙な新形態なのであり、我々が否定、肯定する範疇ではないと私は考える。アマゾンの河川が時代の経過と共に湾曲が激しくなり、流れも変わり、最終的に三日月湖を残すように、選曲も時代と共に我々の意識に存在しなかった新形態のものが選択されるようになるのではないだろうか。

時代の変遷とは、ある評価尺度の数直線を行ったり来たりするものだけではない。過去にあったものが融合し、それらが新機軸の評価尺度を生み出す。
その評価尺度を自己の中で認めうる事ができない場合、我々の目に奇妙だと映るのだ。

追記:
尚、ボーカロイド曲についてフォローを入れておくが、全てが病的な曲である訳ではない。次のような爽やかな曲も多数あって、それらが人気の曲である事も申し添えて起きたい。

・「Re:package」 Hatsune Miku - Packaged
・【巡音ルカ GUMI】 ハッピーシンセサイザ 【オリジナル曲】
・【MMD-PV】エレクトリック・ラブ
・【調教すげぇ】初音ミク『FREELY TOMORROW』(完成)【オリジナル】
・【初音ミク】 livetune (kz) - Tell Your World - Full size Ver

ボーカロイドの難点はアリシア・キースやMary j Brigeのように歌にコブシがきかせられない事だろう。だがこれも後々に改善されるはずだ。
日本企業から黒人女性のようなR&B歌唱モデルが出る日が待ち遠しい(需要は無いだろうが・・・)。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正義の定義

2012-02-19 00:32:08 | 哲学・社会
私のような人間が正義を論ずる立場に無い事は百も承知だ。
しかしここで書いておく必要がある。
正義とは何だろうか。

不勉強だが、私の思考実験をつらつらと書いていく。
仮定を積み上げている作業なので、以下の論には一つ一つ検証が必要である事を前以って明記しておきたい。

この国には正義の定義が定まっていない、と書いてあったのは何の小説だったろうか。
私は、日本における正義とは「人の考える正しいルール」の事ではないかと作業仮説を立てて考えている。
日本において、この「人の考える正しいルール」は明文化されておらずあやふやだ。
ここで日本における、と書いたが上記の正義=「人の考える正しいルール」は欧米には当てはまらない。

欧米では、上記の「人の考える正しいルール」ではなく、「正しいルール」として定義しているのではないか、と私は思っている。「人の考える」が抜けているのだ。建前上、欧米における正義とは、人ではなく神が規定する。
無論、欧米人は正義の反対はまた別の正義というのは理性によって理解している。だが、彼らの行動原理は根本に神を規定すればそこから発するのではないかと私は考えている。

キリスト教による一神教が価値観の基盤となれば、神を探求すればそこには永遠普遍の真理が含まれている。人の介在する余地は無い。欧米が基礎工学などが強い背景には、永遠普遍の一つの真理を探ろうとする根源的な欲求があるという事情が背景にある為ではないだろうか。

翻って日本は多神教なので、様々な神様がいて、様々な価値観と尺度がある。永遠普遍の真理を探るにしても、他者に強要できる絶対の尺度ではなく、個人の内部理解における真理の探究へと向かうのだ。
日本が多種多様な文化を持って、技術的にも応用に強い面はここから来ているのではないだろうか。
そして多種多様な価値観を認めるに当たって人の倫理観は流動しがちだ。

かつては殺人の犯罪率が多かったが、年々減ってきている。
それと引き換えに殺人に関するタブーや倫理観が薄れてきているのが皮膚感覚で分かる(きちんと数字を取ったわけではない)。
私はこの辺をいまだ整理しきれていない。

公論を通して倫理道徳面での認識を浸透させる事により、社会の運用を強化する事を狙う側面から言うのであれば、日々薄まりつつある私達自身の中にある道徳観を言葉にして明示する必要がある。
簡単に言い換えれば、社会を強化する為に正義を規定するのだ。

それには下記の条件が必要だ。
1.単純であること
  難解であればあるほど理解してくれる人は少なくなる。
  尚且つ真理は単純だ。単純であれば理解や同意が得られやすく、広範に浸透しやすい。
  高尚な思想も結構だが小数の人間のみ理解できる思想はここでは不要だ。極論を言えば、小学生にでも分かる理屈であるべきだ。

2.少ない事。
  私の作業仮説を基に話しを進めると、正義とは人の決めた正しいルールの事なので行動に制約する部分が出てくる。多くても憶えられないし、理解や同意も得にくい。

3.日本人にしっくり来る事。
  日本人古来からの心情が言葉にしなかったが為に失われつつあるものがある。これを再度、言語化すれば良い。
  また、外来の思想は加工し吸収すれば良い。

これらを総合すれば正義の定義を規定できるのではないか。
若干の心配を言えば、今まで実行していたが、わざわざ言う必要の無いものが出来上がるのだと思う。しかし、ここでは言語化する事に意味がある。

それでは少しずつ書き出してみよう。

Ⅰ.他者に害をなすべからず。人に親切施すべし。

  簡単に言えば、人に迷惑をかけない、親切にしなさい、という事だ。
  ただ、人の力には限界がある。自分のできる範囲で、できなければ他者の力を借りて行うべきだろう。
  これを崩れる事の無い原理原則として規定したい。

Ⅱ.御礼、懲罰は正確にすべし。万機公論に決すべし。

  日本という国は他国に比べ、非常に正確で清潔な国だ。
  電車は一分の誤差もなく、水道水の飲用で水当たりする事は希で、工業製品の日本ブランドは揺るがない。
  日本の警察は優秀で、一片の融通も効かない(なのでこちらも誠意を持って対応した方が効率的だ)。国内的にはこれで良いだろう。
  ただ、現行の世界を見ると日本内部はそうだが、外部はそうではない。
  多少の誤差どころではなく、ありもしない事件を仕立て上げ、日本に対して糾弾を行う。

  国とは何かを尋ねた場合、国とは富を再編成する決定機関の事となる。この決定を自主せしめうる要素は立法、行政、司法など様々あるが、内閣支持率を世論調査と見る向きからすれば、行政の上に世論、その上に世論を構成するマスコミや、最近ではインターネット上での世論形成が影響は少ないながらも存在する。この世論に対して当該国国民の同意無く情報工作を行う諸外国機関があれば、その行為は自主権に影響を及ぼす準戦争行為だ。日本に住む人間の正確で正当な行動を誤ったものに導いているのである。
  これに対して日本はきっちり反論し、良い事であれ、悪い事であれ、第三者の客観的同意を主体的に獲得せねばならない。

  どのように反論し、何を理想とすべきかは「Ⅰ.他者に害をなすべからず。人に親切施すべし」を基に論陣を展開すれば良いと思う。

Ⅲ.独立・発展すべし。

  日本という国は独立国だろうか。多くの人は独立国だというだろうが、私は違うと考える。
  上記の国とは何かについて再度の引用になるが、国とは何かを考えた場合、国とは富を再編成する決定機関の事だ。
  独立国には様々な権利の決定権があるが、行政は他国の歴史認識的なプロバガンダ情報攻勢により侵略の土台を組んでしまえるような余地を与えてしまっている。昨今ではTPPが貿易における関税の決定権がなくなるような動きがある。これが本当に独立国の姿だろうか? 

  ある会社を想像して欲しい。とある会社Nは貧乏だったが、従業員の皆が大変な努力家であった為、急造ながらも力を蓄えてきた。
  ところが大資本の会社Rが市場独占と買収攻勢をかけてきた。買収されるのも一手かもしれないが、ここまでやってきた意地がある。大変な苦労をして自前で開発してきたものをみすみす渡してなるものか、と会社の人間は考えた。そこで近くの零細企業Kを引き入れて対抗手段を打った。Kは大資本の会社Rとの提携の話しもあったが、Rとの話を蹴ってこちら側に来た。このKには環境改善や出資をして赤字だったが、間違いなくKの労働環境は改善された。Kの発展ぶりは著しかったが、利益は上がらず、Nの持ち出しが多かったのでNとしては赤字だった。
  また、老舗の大企業Cは昔からある大会社だったが、こちらは強攻策に出た。文字通り力技で服従させたが、元々Cは従業員を鎖で繋いで労働させていたり、泥棒や横領が横行していたり、時には工場規模の事故があって、その場にいた従業員を全員死亡させていたりしたので、このCの体質を改善していった。その途上でやはり死者や事故は発生したが、こちらも間違いなく環境は改善されていった。そして何よりこの時代で被吸収企業に対し、このような処遇はありえない。時代のルールに反してはいない。

  この後、大資本Dと提携し、大資本Aと戦ったがこれに敗北する。
  敗北してからしばらく経った後、誰に吹き込まれたか、零細Kと老舗Cは会社Nがひどい労働環境で仕事を強要させられたと訴えた。Kは技術はなかったがプライドが高い会社だ。Nの敗北と同時に悲しんだものがいたが、吸収されたのをかなり根に持っていて、敗北を喜ぶ者も少なからずいた。更には元々A陣営についていたのだという者も現れた。Nにしてみればたまらない。こちらは時代のルールから逸脱していないし、むしろ赤字であった。Kの同意も得ていたのにどうしてというのが本音だ。Cに至っては、Nが吸収する前の過去の事故による死傷者もNのせいにする始末である。確かにNにも吸収時・吸収後の従業員処遇に関する落ち度はあった。だがそれを拡大して全体に適用するのは是か非か? 

  この会社は未だ過去の清算に追われている。それもこれもNがKとCのどちらにもきちんと論陣を張って、拒否する姿勢を見せないからだ。このNとはお分かりの通り日本の事だ。

  また、現代に生きているある一組の夫婦を想像して欲しい。夫が昼間に仕事をし、金を稼いで家計に入れ、質素倹約をしているが、妻はその昼間にその金で豪遊する。この妻のしている事は正当だろうか? そして、その夫に甲斐性はあると言えるのだろうか? 
  逆のパターンもある。妻が一生懸命稼いで家に蓄えた金を夫がパチンコですってくる。これは正当だろうか? 妻は泣き寝入りをすべきなのだろうか? 

  アメリカがイギリスから独立したように、日本もアメリカから独立すべきだ。それは経済的にも、言論的にも。日本からは戦争を意図するものではないが、アメリカ自身はそれらが強力行為(戦争)によってのみ成立すると重々理解している。
  戦争を可能な限り避ける事は、一番影響を与えるタイミングに妙手のカードを差し込む事で状況を変えていく、そんな事は不可能だろうか。

  日本とは元々弱い国である。そうした世界情勢の流れを変える力はわずかしか存在しない為、その少ないカードに最大の力を与える機会を逃してはならない。そして真の独立を果たす。これが現代の民主国家に与えられた使命だ。

  そしてそこから発展を為すべきだ。発展の確保に何をすべきかというのは自ずと分かるはずだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バレンタイン

2012-02-19 00:21:41 | 最近の出来事
私はバレンタインに縁が無い。
チョコと言えばおふくろの味である。

毎年悶々と過ごす中、今年の2/14は、とある駅内のコンコースを通りすがった。
中央に雛壇がかざられている。3/3の雛祭りも近いのだ。

天晴れJR。商業主義的な欧米の価値観に惑わされず、日本の心意気を示すや良し。
文化とは政治決定に直結する。
かつてプロイセン人がプロイセン語を話さなくなり、ドイツ語を話すようになった時に、プロイセンはあっという間にドイツへ同化した事例を引用せば、この政治母体となりうる集団は共通の文化を礎とする。
バレンタインに浮かれていると欧米に足を掬われてしまわないか。
そしていずれや政治決定のイニシアティブを奪われてしまわないか。
その危機感にJRが、バレンタインの当日であるにも関わらず、雛壇を駅コンコース中央に陣取るという毅然とした態度を示したのである。

私は家路への帰路で、甘味が欲しくなったので大福を買って帰った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする