昨今の日本社会の感覚として「日本は運が良い」などという言説によってそこがクローズアップされているような主張を度々みかける。
私はこれに危惧を覚える。
仮に運だけで社会運用しているような国家があった時、それは稀に来る不運に対して果たして対処できるのか疑問なのである。
運・不運と言うのはランダムに発生するマクロ的社会事象に対し、ミクロの小粒の人間たちがそれを主観的に判断している判断材料と基準の概念に過ぎない。
日本は幸運と不運に度々見舞われてきた国だ。
しかしそれを俯瞰的に認識し、幸運はそのままラッキーを活かして歯車の回転に拍車をかけ、逆に不運は統計と実力で勝負しなければならない、そうした整理と棚卸しが必要で、それぞれの事象に対して舞い上がることも落ち込むこともせず、淡々と事務的な作業をするようにそれぞれ対処すべきであると私は考える。
国家の運営においては、人々を精神的につなぎとめるニカワとしてはそれを持ち出しても良いかもしれないが、実態の運営は神・宗教・感覚に頼らず、理論・統計・設計によってなすべきなのだ。
私はこれに危惧を覚える。
仮に運だけで社会運用しているような国家があった時、それは稀に来る不運に対して果たして対処できるのか疑問なのである。
運・不運と言うのはランダムに発生するマクロ的社会事象に対し、ミクロの小粒の人間たちがそれを主観的に判断している判断材料と基準の概念に過ぎない。
日本は幸運と不運に度々見舞われてきた国だ。
しかしそれを俯瞰的に認識し、幸運はそのままラッキーを活かして歯車の回転に拍車をかけ、逆に不運は統計と実力で勝負しなければならない、そうした整理と棚卸しが必要で、それぞれの事象に対して舞い上がることも落ち込むこともせず、淡々と事務的な作業をするようにそれぞれ対処すべきであると私は考える。
国家の運営においては、人々を精神的につなぎとめるニカワとしてはそれを持ち出しても良いかもしれないが、実態の運営は神・宗教・感覚に頼らず、理論・統計・設計によってなすべきなのだ。