我々が何となく感覚で使用している対義(対義語)とは何か。
例えば、広義において、反対語の大小や遠近などは対義の一部に含まれるということなのだが、それであれば「反対語」と言ってしまった方が通りが良いし、こちらの方が一般的である。
「広い」「狭い」は広さの大小での相対的観念における大小であるし、値段が高い安いは値段における高低である。
だが、半ば抽象度が高まるとこれが「義」が大きく出る。
これは「硬い」「柔らかい」、「眩しい」「暗い」、「はっきり」「ぼんやり」、「良い」「悪い」など、反対の言葉であるものの、数値で表しにくいものは対義的側面が強くなる。
これとは別に、一つの数直線上に正反対のものが2つある、と言う尺度における意味ではないが、何となく社会的語用(義)に、2項が対峙(対峙)する時に、「対義」を使用した方が良い時もある。
例えば、「時間」と「空間」など、まるまる別尺度ではあるものの、物理において両方がそれぞれ独立し、かつ混交して使用される要素、あるいは、一要素における視座の違いによって解釈しうる動作が異なるもの(売り/買い)(男/女)(天/地)(逮捕/釈放)などは対義として考えて良いように思う。
あるいは嫡子/庶子の関係は、プロパーと非プロパーの区分けで対義していると言っても良い。
例えば、広義において、反対語の大小や遠近などは対義の一部に含まれるということなのだが、それであれば「反対語」と言ってしまった方が通りが良いし、こちらの方が一般的である。
「広い」「狭い」は広さの大小での相対的観念における大小であるし、値段が高い安いは値段における高低である。
だが、半ば抽象度が高まるとこれが「義」が大きく出る。
これは「硬い」「柔らかい」、「眩しい」「暗い」、「はっきり」「ぼんやり」、「良い」「悪い」など、反対の言葉であるものの、数値で表しにくいものは対義的側面が強くなる。
これとは別に、一つの数直線上に正反対のものが2つある、と言う尺度における意味ではないが、何となく社会的語用(義)に、2項が対峙(対峙)する時に、「対義」を使用した方が良い時もある。
例えば、「時間」と「空間」など、まるまる別尺度ではあるものの、物理において両方がそれぞれ独立し、かつ混交して使用される要素、あるいは、一要素における視座の違いによって解釈しうる動作が異なるもの(売り/買い)(男/女)(天/地)(逮捕/釈放)などは対義として考えて良いように思う。
あるいは嫡子/庶子の関係は、プロパーと非プロパーの区分けで対義していると言っても良い。