
と言うことであるが、これについて私の考えを述べる。
結論から言えば、
1.これは検閲に当たらない。
2.NHKの主張は自己の正当性を認識しすぎて、行き過ぎた対応を取っているか、もしくは、自己の組織内での行動営為の不始末をこうした自己正当化の理由を盾に防御していて、プライドが高いので格下の講談社に謝れないかのどちらかである。
となる。
これについて書いていく。
まず検閲とは何かと言うと、政府筋が報道内容に関してその内容を事前閲覧することによって、報道停止の前段となる検討をするという営為である。こうしたことが行われると、本来の報道ができない。
よって、報道局は検閲を受けぬようにして、自己の報道内容の担保と、その組織運用の独立性を高めるべきである。政府などが勝手を行うことによる悪の手からは独立せねばならない。
これがNHKともなると、「自分が報道したいことは誰にも口を出されたくない、邪魔されたくない」と言うのが基準線として存在するため、ここまで強権に発言をすることができる。
では今回の作品の内容の変更に対して「放送局として、我々が作る編集内容に関して第三者が口を出せるということを認めてしまうこと自体が認められない。ほとんど検閲に当たります」と言うNHKの主張は筋が通っているだろうか?
ここで私からの考えておきたい。
そもそも放送局とは何か? 音声つき映像を放送する機関組織である。
では音声つき映像とは何か? これは「報道」と「娯楽」に分けられる。
ではその報道内容はどういう内訳になるか? それは政府発表と民情の現実を伝達することである。
この時、報道局の独立性が謳われ、そして保持が発生する。ここに検閲があってはならない。
一方、それがなされることによって何がどう良くなるのだろう?
つまりは「報道とは何のために存在し、正義を名乗ることができるのか」と言うこと、短くすれば「報道とは何か? 」と言うことである。
デジタル大辞泉(小学館)では「告げ知らせること。また、その内容。報知。」「新聞・ラジオ・テレビなどを通して、社会の出来事などを広く一般に知らせること。また、その知らせ。ニュース。」とある。
私はこれで正解だとは考えるものの、もう少し深く踏み込めるとも考える。
私は報道とは次のことだと考える。
報道とは、情報を広く早く連携せしめることによってなされる大衆社会の防衛のことだ。
地震が発生したり、津波が来た時には、その報道によって大衆が守られる。
事件が発生して、近くに通り魔がいる場合には、その報道によって大衆が守られる。
国会議員の汚職を報じることで、税金の配分がおかしい時には、その報道によって間接的に大衆が守られる。
天気予報をすることによって、雨の日の野菜出荷や出漁をやめる形で、大衆が守られる。
株式の報道で、投資家が守られる。
この大衆を守ると言う線が引かれるからこそ、報道は正義なのであって、そしてそれに対しての検閲が為されるべきではないのだ。
ありがちなのは、政府が好き勝手を行うことによって大衆が守られない時であり、その時こそ報道が社会の是正システムとして大衆を守るがために機能する。よってここに検閲を設けるべきではない。
では今回の作品改変の話は?
そう、作者が口を出すのは検閲には当たらない。むしろ作者の側は守られるべき大衆の側である。
編集権の独立性を盾に、娯楽作品の改変は、むしろNHKが大衆社会の防衛をしているどころか、大衆に損害をもたらして責任を取らぬと言うような、報道機関が批判をしていたかつての政府と同じことをやっている。
よって、冒頭に記載した結論の
1.これは検閲に当たらない。
2.NHKの主張は自己の正当性を認識しすぎて、行き過ぎた対応を取っているか、もしくは、自己の組織内での行動営為の不始末をこうした自己正当化の理由を盾に防御していて、プライドが高いので格下の講談社に謝れないかのどちらかである。
となる。