とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

ブサイクは死んではならない

2014-08-09 16:29:23 | 哲学・社会
ブサイクは死んではならない。その前に子孫を残すべきである。
今日はその解説を行う。
遠回りになるがご容赦頂きたい。

私は私の容姿をしてジャニーズ系を名乗る程、面の皮は厚くない。これと反比例する形で腹部の皮下脂肪の厚みはたんたんとその進捗をあげているのであるが、しかして私は美形の類いではないのであると言うことができる。

見た目がどうしてもごついので、野球やってたでしょう、柔道やってたでしょう、酒を結構飲む方でしょうとか言われるのであるが、いやいや、その類いは全て苦手の一手なのであって、全く、私の容姿とその内面は非常に乖離している。

先日などは駅前の寿司屋の前を通るに当たって、店の呼び込みをしている店員が「おいしいマグロ、イカ、ウニ、なんでもありますよ! 」と道ゆく人にセールストークしていたのだが、私が通りかかったら「どうです、まずはビール一杯から! 」と言ってきた。ちょっと待てや、さっきまで寿司オンリーのことしかしゃべってなかったのになんで酒の話しになるんか、そんなに飲みたそうに見えるんか、そんなに飲みたそうに見えるんか、そうですか、そうですよね、すみません、自分の容姿はツッコむべきところ反省すべきところが多々ございまして大変申し訳ございません以後気をつけません。

まあ、ともあれゴツ系の私はそう言う系統の容姿であるが、さて、そうした私は今までのいろんな経緯があって、こんな性格の悪く、容姿もいいとこない人間は子孫を残すべきではないのではないかと思っていた。
皆に迷惑をかけていた今までを振り返って、誰にも迷惑をなるべくかけずに、自分の子孫は自分と同じ運命をたどるだろうからそうした苦労は味あわせてはならないとし、そう悶々とした日々を送って行ったのだが、しかしこの考えを改めるに至っている。

まず、生物学上、優秀な身体能力を持つ生物が生き残ると言うのが常であるが、しかしその例に当てはまらないケースもかなり存在する。

例えば、クジャクなどは、その長い羽は明らかに飛翔能力の低下に繋がっているが、しかし、異性へのアピール能力に特化するDNAを優先的に発現させた結果、その種が生き残ると言う帰結を得た。

ムラサキシャチホコはどこをどう見ても枯れ葉であるが、しかしその飛翔能力よりも形態能力を優先させてそのDNAを発現させている。
立体的な二次元絵であるトリックアートを思い出させる。

メガロドンやその他、古代の巨大生物たちは、その形態を大きくするにつれ、その生存を確保してきたが、しかし、それよりも小型のシャチの登場により、メガロドンは捕食対象となって絶滅してしまった。

物事には適性なサイズや能力がある。
こうした遺伝的浮動と自然選択によって進化の形を為す総合説と言うものが生物進化における学説の主流らしい。
自然に求められる適性というものは、力強さやスピード、重さ、大きさだけでなく、異性への主張能力、捕食されぬよう擬態を施す容姿、最速のスピードが出せる体のサイズ・・・それらは決して一つの基準で選択淘汰されてきた訳ではないはずだ。
何が生き残って何が生き残るべきではないか、と言うのは、自然や地球が決めるのだ。その生物が持っている主観的基準ではない。
多様性を確保したのちに、その後に訪れる変化の試練を受け、それに合格した者のみが生き残るのである。進化の先が合格か不合格かと言う結果は主体的に見ることができない。しかるべき枝は剪定されるまで、伸ばし続けるしかない。それがいかに不器用な枝の巡らし方であったとしても。

その点において、生物が確保すべきという至上命題は、子孫の繁栄のみならず、その多様性の確保なのである。

さて、人口が60億も超えて、その多様性はもう確保されているんじゃないかと言う指摘もあろうが、これにも捕捉をしておく。

人間とは多様か単一か、そのどちらであるかと言う問いを投げかけた場合、その実態は多様でない部分も多い。

分かりやすく例を挙げる。
亀を考えてみよう。ウミガメであれば、その前肢の形状はヒレのようになっているが、しかしゾウガメの前肢のそれは明らかに陸上移動用である。
人間などは、肌の色や顔の形状、髪の毛の色や髪質、身長の傾向が異なるくらいで、手の形がそもそも違うと言う人種が存在しない。

牛も見てみよう。
Ankole-Watusi
African Watusi
Gnu
Highland cattle
bison
Holstein

角のつき方が各種によって全く異なる。人間の爪のつき方は何種類かあるとのことであるが、しかしここまでは顕著ではない。

種としての多様性での高低に関する点においては、多様性の分散系の広がりは亀や牛と同じ値を取らず、分散的指数があるとするならば、その数値は馬、犬、猫、猿、鳥に近いと言ってよいかもしれない。
この点において、人間はもっと多様性を確保すべきなのかもしれない。

それに加え、自分の性格の悪さというものが、もしかしたら生存に関する両条件を備えるかもしれない。
思い出してみよう。カーチス・ルメイは東京を火の海にして10万人の民間人を殺傷せしめた上で、何らの倫理的断罪も受けずにこの世を去った。
このような巨悪が正しいとするならば、私の考えている私自身の性悪なんてちっぽけなものだ。ただ、私は私に関する人にかけた迷惑は忘れずにいようとは思う。比較論でちっぽけであったとしても、忘れてしまってはいけないと思う。

話しが逸れたが、もう一歩先にこの論を進める。
何が生きていいか、何が生きてはいけないかというのは、神様みたいな存在か、あるいは地球そのものが決める。
次の動物を見て戴きたい。

・イルカ(哺乳類)
・シャチ(哺乳類)
・サメ(魚類)
・魚竜(爬虫類)

この四つは脊椎動物の中でも互いに違う綱(こう:○○類)であるのにも関わらず、同じ形状へと進化を遂げた。
つまり、地球の海という環境はその流線的形状へと進化「させた」のである。

その形状は自己の内部的イメージとは異なっていても、環境がそれを選択するかもしれないのだ。決して無駄にしてはならない。

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2 コメント

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同じ事考えてました (ゴロウ丸)
2014-08-12 19:54:31
 私も、自分の子孫なんか残しちゃいけないと思って生きていました。
 今もそれは変わりません。

 なので、すなおに感動しました。
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Unknown (booter)
2023-12-22 23:02:53
この記事に通ずる動画を見つけたので貼り付け。

【タブー視される悪魔の学問】人間の命に優劣をつけた「優生学」とは何か?【科学史・ざっくり解説】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NJ6BKy_RtCE
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