ホテルの歴史に関しては和合会のホームページに詳しく載っていましたのでご確認下さい。写真もそこから頂きました。
歴史はともかく当時の雰囲気を伝えて行きたいと思います。
当時の交通ですが、ほぼ車で行っていました。高速道路はまさに開通したばかりの名古屋、神戸間の名神しかなく、あとは延々と国道19号線を走って約12時間(京都から)かかりました。
深夜の木曽路の味わいは何物にも変え難い旅愁を子供に植え付け、まさに島崎藤村だなあ等と思っていました。
当時、小さな看板で薮原スキー場というのが出ているのが気になっていましたが、いまだに行ったことはありません。
深夜ドライブと言えばドライブイン恵那を忘れることが出来ません。確か当時24時間営業だった筈で食堂の他に多数の屋台のようなものがありました。
常に車やトラックで賑わっており、そこで普段は食べられない深夜の食事を楽しんだものです。
車でない時は、夜行急行ちくまで一人で出かけたりしていました。
ホテルに戻りましょう。最初に行った時は木造の本館のみでしたが、すぐに新館が出来、その後しばらくしてから新々館(当時勝手にこう呼んでいた)が出来、その後本館の改装がなされましたが本当のベース部分は不変でした。
しかしこのホテルの一番良かった時期は新館が出来た時までで、増客を見込んだ新々館を建てた時に同時に専用リフトを取り外した時からガタっと常連客が離れて行きました。
そう、経営維持のために団体を入れ出したからでバスが駐車場に泊まり出してからは雰囲気が変わってしまい、従業員の質も極端に低下しました。それまでは志賀高原ホテルのスタッフは、まことに礼節正しくかつフレンドリーで、支配人からボイラー室の方、見事な禿頭(とくとう)の物静かで礼儀正しい老いたハウスキーピングの方まで全てに見事にホテルマンでした。
但し、食事はフレンチでしたがたいしたことはなかった(笑)。
これは当時経営元の京都ホテル(現、京都ホテルオークラ)に非常に責任があり、同時にその頃京都ホテルの経営陣が変わり古い良いスタッフが一掃されてしまいました。
京都ホテルに限って言いますと、まずホテルの顔であるベルキャプテンの確か浅井さん?だったと思うのですが恰幅の良いいかにもベルキャプテンらしい名物スタッフが現場から外されたり、全くホテルと言うものが分かっていない上部に客も憤慨していたものでした。
その結果、京都ホテル本体も客離れが起こり経営危機となって現在のオークラグループに編入されたわけです。結果的にはそれが良かったのかどうかは分かりませんが少なくとも志賀高原ホテルは、壊されたと言うイメージを持っています。
全盛期の志賀高原ホテルは極めて限られた客層でありまして正月はほぼ100%が常連の長期滞在で、多くの日本の有名な会社のオーナー社長クラス、芸術家、外交官が滞在していました。
特に外交官は多く、確かスイス大使館の方だと思うのですが…いつも連れて来ておられた大きな犬はちょっと名物になっていました。余談ですが、この飼い主の初老のよく太った白人はしょっちゅう私たちの部屋に電話をかけて来てわたしの母を誘っていたものです(笑)。で、息子の私が電話に出るとガチャリと切るという何とも愉快な人物でした。
犬はおとなしく泰然としており、普段は暖炉の横に寝そべっているのですが時々ダイニングにふらりと入ってきては飼い主を激怒させておりました。
何故そんな事が許されるの?これには理由がありましてここは第二次世界大戦後、進駐軍に接収されまして一時は日本人は利用できなかったのです。
ですから白人系は特権的だったのですが、勿論ホテルに来ているのは上質な白人ばかりなので、紳士的でお洒落で少なくとも表面上はレイシスト(人種差別主義者)等は一人いませんでした。
駐車場には多くの車が停まり、リンカーン・コンチネンタル等が細い急な雪道を上って来ているのなどを見て驚いていた記憶があります。当時のリンカーンはまさにフルサイズで今の小さなフルサイズ(キャデラックセビルですら今は全長5m、幅1.9mしかありません)等と比べるべきもありません。
他に記憶によく残っているのは、私が今まで見た最高の美人がここにいたことです。
それはイラン大使館のティーンエイジャーの娘さんで(当時イランはパーレビ国王時代で西側諸国に属していました)、その背の高い、エキゾッチックな顔貌は中学生男子の憧れの元でした。
一緒に滑ってはときめいていたものです。年齢の近い男子としては私より2学年ほど上だと思うのですが朝吹さんの息子さんとも偶に滑らせて貰っていました。彼は非常にスキーがうまく当時で既にSAJ一級を持っておられました。今の感覚で言うと中学生がテクニカルを持っているようなものです。
ちなみにヴォーリズ設計の旧:朝吹邸は港区に東芝高輪倶楽部として保存されています。
あと島津貴子(昭和天皇の末娘)さんも来られていました。やんちゃなお二人の息子さんもご一緒に。
まあ豪華なメンバーでした。でもそれは今から思えばのことです。当時はそういうものかなと思っていましたから。そういう時代だったと言うことです。
鬼籍に入られた方も多いと思いますが、当時お世話になった方たちは今ごろどうしておられるのでしょう。
想い出は淡いパステル画のようです。
歴史はともかく当時の雰囲気を伝えて行きたいと思います。
当時の交通ですが、ほぼ車で行っていました。高速道路はまさに開通したばかりの名古屋、神戸間の名神しかなく、あとは延々と国道19号線を走って約12時間(京都から)かかりました。
深夜の木曽路の味わいは何物にも変え難い旅愁を子供に植え付け、まさに島崎藤村だなあ等と思っていました。
当時、小さな看板で薮原スキー場というのが出ているのが気になっていましたが、いまだに行ったことはありません。
深夜ドライブと言えばドライブイン恵那を忘れることが出来ません。確か当時24時間営業だった筈で食堂の他に多数の屋台のようなものがありました。
常に車やトラックで賑わっており、そこで普段は食べられない深夜の食事を楽しんだものです。
車でない時は、夜行急行ちくまで一人で出かけたりしていました。
ホテルに戻りましょう。最初に行った時は木造の本館のみでしたが、すぐに新館が出来、その後しばらくしてから新々館(当時勝手にこう呼んでいた)が出来、その後本館の改装がなされましたが本当のベース部分は不変でした。
しかしこのホテルの一番良かった時期は新館が出来た時までで、増客を見込んだ新々館を建てた時に同時に専用リフトを取り外した時からガタっと常連客が離れて行きました。
そう、経営維持のために団体を入れ出したからでバスが駐車場に泊まり出してからは雰囲気が変わってしまい、従業員の質も極端に低下しました。それまでは志賀高原ホテルのスタッフは、まことに礼節正しくかつフレンドリーで、支配人からボイラー室の方、見事な禿頭(とくとう)の物静かで礼儀正しい老いたハウスキーピングの方まで全てに見事にホテルマンでした。
但し、食事はフレンチでしたがたいしたことはなかった(笑)。
これは当時経営元の京都ホテル(現、京都ホテルオークラ)に非常に責任があり、同時にその頃京都ホテルの経営陣が変わり古い良いスタッフが一掃されてしまいました。
京都ホテルに限って言いますと、まずホテルの顔であるベルキャプテンの確か浅井さん?だったと思うのですが恰幅の良いいかにもベルキャプテンらしい名物スタッフが現場から外されたり、全くホテルと言うものが分かっていない上部に客も憤慨していたものでした。
その結果、京都ホテル本体も客離れが起こり経営危機となって現在のオークラグループに編入されたわけです。結果的にはそれが良かったのかどうかは分かりませんが少なくとも志賀高原ホテルは、壊されたと言うイメージを持っています。
全盛期の志賀高原ホテルは極めて限られた客層でありまして正月はほぼ100%が常連の長期滞在で、多くの日本の有名な会社のオーナー社長クラス、芸術家、外交官が滞在していました。
特に外交官は多く、確かスイス大使館の方だと思うのですが…いつも連れて来ておられた大きな犬はちょっと名物になっていました。余談ですが、この飼い主の初老のよく太った白人はしょっちゅう私たちの部屋に電話をかけて来てわたしの母を誘っていたものです(笑)。で、息子の私が電話に出るとガチャリと切るという何とも愉快な人物でした。
犬はおとなしく泰然としており、普段は暖炉の横に寝そべっているのですが時々ダイニングにふらりと入ってきては飼い主を激怒させておりました。
何故そんな事が許されるの?これには理由がありましてここは第二次世界大戦後、進駐軍に接収されまして一時は日本人は利用できなかったのです。
ですから白人系は特権的だったのですが、勿論ホテルに来ているのは上質な白人ばかりなので、紳士的でお洒落で少なくとも表面上はレイシスト(人種差別主義者)等は一人いませんでした。
駐車場には多くの車が停まり、リンカーン・コンチネンタル等が細い急な雪道を上って来ているのなどを見て驚いていた記憶があります。当時のリンカーンはまさにフルサイズで今の小さなフルサイズ(キャデラックセビルですら今は全長5m、幅1.9mしかありません)等と比べるべきもありません。
他に記憶によく残っているのは、私が今まで見た最高の美人がここにいたことです。
それはイラン大使館のティーンエイジャーの娘さんで(当時イランはパーレビ国王時代で西側諸国に属していました)、その背の高い、エキゾッチックな顔貌は中学生男子の憧れの元でした。
一緒に滑ってはときめいていたものです。年齢の近い男子としては私より2学年ほど上だと思うのですが朝吹さんの息子さんとも偶に滑らせて貰っていました。彼は非常にスキーがうまく当時で既にSAJ一級を持っておられました。今の感覚で言うと中学生がテクニカルを持っているようなものです。
ちなみにヴォーリズ設計の旧:朝吹邸は港区に東芝高輪倶楽部として保存されています。
あと島津貴子(昭和天皇の末娘)さんも来られていました。やんちゃなお二人の息子さんもご一緒に。
まあ豪華なメンバーでした。でもそれは今から思えばのことです。当時はそういうものかなと思っていましたから。そういう時代だったと言うことです。
鬼籍に入られた方も多いと思いますが、当時お世話になった方たちは今ごろどうしておられるのでしょう。
想い出は淡いパステル画のようです。