silly ski squadronスキー雑記

バカなスキー集団。スキーならなんでもやります京都方面本部。
突撃我ニ続ケ!!

手段か目的か?

2007年03月13日 00時12分49秒 | スキー
敢えて、お見苦しい連続写真を晒すには意味があります。
その前に簡単に解説を。
場所は神立のレグルスにあるモーグルバーン。約1年ぶりの“人工モーグルバーン”。
ピッチは3.2mで、コブの左右差がひどくなっている午後の撮影です。

1コマ目:目線は落ち、左ストックはコブの上に取り残され、重要なスネ角も開放されたまま…典型的に遅れたターンです。
2コマ目:本来滑る部分のコブの向こう側をすっ飛んでしまったので、仕方なくヒールキック気味に。
3コマ目:両スキーは揃っていず、正確な谷足によるエッジングがなされていません。

では本題に。
実は50才になって、ぶざまな滑りをするようになったらスキーは止めようと思っていました。
まさにやめどきでしょうか(笑)。

以前からスキーは自分の趣味であり、スキーそれ自体を目的であると考えて、スキーを手段とするスキーヤーをどこかで軽蔑しているところがありました。
ここでいう手段とは、時間潰しや、つきあいでするスキー。それに「スキーをしている自分がカッコいい」と言った類のものも含みます。
しかしふと考えました。
なら自分は何故スキーをしているのか?
スピード感とか、コブを滑り終えた充実感とか雪山の美しさなどの理由はここではどうでもいい。

おそらくこういうことです。
そういう自分だって、スキーを手段としているのではないか?
小さな時からスキーが好きで好きでたまらない。純粋にスキーをすることが楽しく、それイコール目的だと思っていました。
しかしもうちょっと離れてそれを大きく見た時、生きている課程に於いてもそれは目的なのか?と言う疑問が湧きます。
たとえば人を好きになった時、どう考えてもその人は目的でしかあり得ない。
その衝動は、それじしんが目的であると断言してもいいでしょう。直観的で申し訳ないですが、それは皆さんも理解されると思います。
だからスキーのことも好きだからそれでいいんじゃない?と思われるかも知れませんが、私はそこで疑問に思いました。
ならなぜ未練たっぷりなのに、見栄えがそれまでもいいとは言えない自分のスキーを、ぶざまな滑りをするくらいなら止めようと思うのか。大してうまくもないのに。
実はスキーは自分の中では、「自分を満足させるもの」としての手段なのではないか。
そう。大きく見ればスキーは、やはり手段なのです。

ほんらい人には生きる欲求があり、最終地点(死ぬことですね)を意識させないような(に)、目の前の問題点が山積みされています。
これはアプリオリ(生来的、先天的)に誰もが持っているものだと思います。
というより寧ろ、人間として偶発的にこの世に出された時点で、同時に“夢中になれる何か”をさがす能力が備わっているのではないか。
その中の一つにスキーが組み込まれていた。
それだけなのではないか。自分にはスキー(とその他)の(敢えて言えば)愉しみがありますが、他者はそうでもない。
他のことにかまけていたっていいのです。それが自分は偶然スキーだったと。
ただそれだけのことではないかと言うことに思い当たりました。

フットボールに夢中になる人々がいて、片や音楽に夢中になる人がいて、それらは全てそういう意味では等価なのだと思います。
何を今更そんなことは分かっていると多くの方が思われるかも知れませんが、係わり過ぎたが係わりきれていない、いちスキーヤーの40数年ばかり滑ってきた感想だと聞き逃して頂ければ幸いです。

そこでスキーに話を戻しますが、幸いこの遊びは非常に幅も奥も深い。
一級やゴールドを取ったところでそこでは何一つ終わっていない。モーグルの大会で優勝しても(勿論したことはありませんが)そこからまだまだと言う面白さを持っています。
あらゆる斜面、コブ、雪質は同じことなく変化していき、それらを“うまく”滑りきることが出来るのはごく限られた一部のスキーヤーでしょう。
これは素晴らしく愉しい「手段」ではないでしょうか。言い古された言葉で表現すれば「奥の深い」。

そう考えた時、自分の滑りの不甲斐なさや、ぶざまな姿もまだまだそれは当然のことと思われ、感謝こそすれやめる必要は毛頭ないんじゃないかと発想が転換していきました。
よし、もうすこしこの肉体を使ってスキーの奥深い泥沼に飛び込んで行こうか、この2本の板とともに。
そう考えさせられたこの日のスキーでした。
こまっしゃくれた話、失礼いたしました。
コメント (4)
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