ボイシー日記

手がふさがっていては、新しいものは掴めない。

死と生。

2009-07-15 11:10:33 | 独り言
先日テレビを観ていたら、関西学院大で
死生学というテーマで講義をしている人がいた。
そこでは、自分の死について
疑似体験をしてみることを教えていた。

まず、いまの生活で、
自分が手放せない大事なものをメモに書く。
携帯電話、ともだち、親、旅行、感謝の気持ち、信仰・・・。
カタチのあるもの、カタチのないないもの等、いろいろ。
そして、ある日、自分が死んでいくことを告げられ
病状が一日一日と進行するにつれ、
大事なものを書いたそのメモを次々と破いて破棄していく。

死にいく過程では、自分の病状が悪化し、
身体が動かなくなったりすると
大切だと思っていたことを諦めたり
手放していかざるおえない状況になる。
自分が死ぬ日までを疑似体験していく過程で
最後、死ぬときまで残っていたものが
自分にとっての最も大切なものだとわかる。

死ぬということは、もっているものを
次々と捨てていく作業だ。
最後は、人々への感謝とか神への信仰とか
カタチのないものが最も大切だと
気づく人がほとんどだという。

その先生、以前は「死」に対して正面から考えることがなく
どうしても避けていることがあったが
自分自身が難病となって「死」と向き合ったとき、
生きるとは何かを考えるようになったという。

「死」によって、今をどう生きていけばいいのかが見えてくる。
「死」を自分の中に取り入れながら生きていくと
当たり前に生活している今の状況が
じつは、周りの人の支えで成り立っていることがわかる。
周りの人が、周りに迷惑をかけることなく
ちゃんと生活をしていることで
今の自分の普通の暮らしを享受できている部分もある。
周りの人によって、生かされている。

自殺をしようと考えた人も、
幸せに充ちている生活をしているのに
自分から命を絶つなんて、
なんと恥ずかしいことをしたのかと気がつく。

ニーナ/矢野絢子
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=R6dzv2qrfPM

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