ボイシー日記

手がふさがっていては、新しいものは掴めない。

遠藤周作「沈黙」。

2009-10-29 12:37:12 | 
芥川龍之介の「神神の微笑」という短編に、
日本にはキリスト教が浸透しない、
浸透したと思っても、いつのまにかカタチが変わっていく、
という趣旨のことが書かれている。
その後、芥川龍之介の短編に関する解説を読んだら、
遠藤周作の「沈黙」にも、同じようなことが書かれている
ということなので、こちらも読んでみた。

「沈黙」は、江戸時代のキリスト教弾圧の中、
日本で布教活動をしていた司祭ロドリゴが棄教してしまう話だが
その中で、なるほど、日本でキリスト教は根付かないと書かれている。
日本は「沼地」のようだと書かれている。
どんな苗も、その沼地に植えられれば根が腐りはじめる。
キリスト教も根をおろさない。
たとえ信者となっても、デウスと大日を混同して、
日本人はキリスト教の神を屈服させ変化させ、別のものをつくり始めるという。
やはり、砂漠生まれの排他的な一神教というのは、なじまないのか。
日本人はいろいろ吸収するが、自分たちにいいように塩梅する民族なのだ。


ところで「沈黙」は、日本の信者たちが殉教していくときも、
神は、ただ黙っているだけなのか?
という司祭の問い、嘆きを書いている。

日本に来たロドリゴが布教をしようとするも
捕まって牢屋に入れられながら、
一晩中、近くで縄に吊り下げられている信者の呻き声を聞く。
奉行から、彼らを助けたいのであれば棄教しろという
決断を迫られて、ロドリゴはついに棄教する。
そのとき、日本側の立場でロドリゴ司祭を棄教させたのは、
20年前に日本に来ていたイエズス会の教父フェレイラだった。
彼も、布教の途中で、同じような状況になって棄教していた。

フェレイラはロドリゴに向かって、棄教することが愛だという。
信者が目の前で苦しんでいる状態だったら、
キリスト自身もキリスト教を棄てるだろうと言う。
ロドリゴはそう言われて、踏絵を踏む。
キリスト教を棄てることで人を救う。
キリスト信者であるよりも、本当の「愛」をもつ人になったといえる。
とても感動的な話だった。

「沈黙」ではラスト、司祭は神と会話しているが、
神は、いつもどこからか見守っていて
我々の問いには答えてくれないものではないかと思った。
祈り、問い続けるしかない。

赤い橋/浅川マキ
http://www.youtube.com/watch?v=au7bytVy3h4&feature=related

沈黙.jpg

コメント
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