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始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

天体と人間と時計と暦・・「ホピの太陽」(3)

2014-07-28 | ホピ族


引き続き北沢方邦氏の「ホピの太陽」のご紹介をいたします。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****

          (引用ここから)


ホピ族の友人シドニーといて驚いたことは、シドニーの時間についての感覚の鋭さだった。

デイスクールの用務員という職業にも関わらず、彼は腕時計を持っていなかった。


彼に限らず、私たちはアメリカインディアンが時計を持っているのをほとんど見たことがない。

つまり彼らは時計を必要としないほど、時間の感覚を正確に所有しているのだ。

シドニーと一緒に外に出て、家に帰り着く時はたいてい正確に食事の時間だった。


一つの原因はホピの天文学からきている。

たとえば「布告役首長」の役目の一つは、村の最も高い建物の屋上から毎朝太陽の運行を観察することである。

それぞれの村によって異なる目標から、太陽が「冬の家」に入ったとか「夏の家」の北限に達した、とかが観測され、それが祭りの日を起算する資料となる。


キバの梯子穴はまた、天体観測の天文台でもあり、儀礼の開始や終了は、たとえばソヤル(冬至)の儀式がその方形の穴の中央にスバルが煌めく時刻に始まり、

また儀式の頂点であるカチーナの入来がオリオン座の三ツ星がそこにかかる時刻に行われる、というように、星座の位置によって決められている。


おそらく天文学に対する深い関心と正確な観測は、マヤ以来の伝統であろう。

チチェン・イツァの遺跡の有名な天文台が象徴するように、マヤの暦法や天体観測は、かつてないほど精密であった。

例えばマヤの太陽暦は現代の天文学の観測による計算にわずか0・0002日の誤差しかなく、西洋の太陽暦の基本となってきたグレゴリオ暦より正確である。

また太陽系諸惑星の観測から、彼らは天文学的時間を算定し、月の一年周期である360日を1単位とし、6億年にいたる計算法を考えだした。


今でもホピの暦は冬至から冬至に至る太陽暦であるが、夜の儀礼は必ずこの月の運行の暦に従っている。

ホピの暦は一日の単位で見れば、日の出と日没によって区切られる昼と夜の世界に分けられ、「父なる天」の諸聖性、とりわけ太陽の支配する昼=生と、地下の諸聖性、とりわけ夜の太陽である火と、死を司るマサウの支配する夜=死との二元論的循環によって完全な円となっている。


それをまた一年の単位でみれば、冬至から夏至に至る「夏の季節と、夏至から冬至にいたる「冬の季節」との循環によって成り立っている。

夏は神々の諸精霊の使者であるカチーナがホピの村々に滞在する季節であり、カチーナによる儀礼と祭りが中心となる季節である。

冬はカチーナ達が去ったあと、すでに述べたスネークダンスのように、人間たちが仮面をつけずに顔に色彩を塗って儀礼を行い、祭りを催す季節である。

なぜならトウモロコシが蒔かれ、生育する夏は精霊たちの助力が必要なのであり、それによって収穫がもたらされる冬は人間たちが神々や精霊に感謝する時だからである。


したがって、この2つの季節の循環の接点となる冬至と夏至を中心とした月に、最も重要な儀礼が集中することとなる。

すべての生命の死と再生、そして生のたわむれである性的結合と生誕を示す4大儀礼が、月の暦にしたがって配置され、夏=生の世界への誕生と、冬=死の世界への誕生をそれぞれ表わしている。


この宗教的意味論の中で回転する正確な暦のなかで育ってきたホピの人々が時間についての、正確で独特の反応を示すのは当然であろう。

シドニーはふと何気なく太陽をふりあおいで、そろそろ帰ろうとつぶやいたが、その時彼は太陽の位置で正確な時間を無意識に測定したのだ。

あたかも我々が、必要があるとき、無意識に腕時計に目をやるように。

いや、時には彼は太陽さえも必要ないのかもしれない。

自然のさなかに生きる人々は、人間に固有の天文学的な時間の測定法とともに、動物にも共通の、正確な体内時計をもっているのが普通なのであるから。


             (引用ここまで)


                *****


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「かつて「青い星」と月が入れ替わった・・ホピ族と、かくされた青い星」

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翼のある蛇になる秘術・・「ホピの太陽」(2)

2014-07-26 | ホピ族



引き続き、北沢方邦氏の「ホピの太陽」のご紹介をします。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

           *****


          (引用ここから)

ホテビラ・・蛇の力の泉

桃やスモモの果樹園の緑の木立に囲まれ、ホテビラの村は荒廃したオライビと対照的に美しく、牧歌的であった。

荒涼とした岩肌の上に建設された他の村々と異なり、第3のメサの西の端の一段と低くなった土の丘に建設されたこの村は、大木の木陰のいくつかの泉が象徴しているように「母なる大地」の諸聖性の恩寵が支配している。

こころなしか、久しぶりに帰省するホピ族の友人シドニーの顔もなごんでいるように見える。

果樹園の終わったあたりから古びた石造りの家々が連なり、いくつものキバが家々を囲んで散在している。

私たちは友人シドニーの実家があるこの地、ホピの伝統派の最強の砦、ホテビラの心臓部に降り立ったのだ。

小さな城のような石造りの家の中は、静かでひんやりとした微風が裏口の方から入り込み、あたりの空気をこの上なくさわやかなものにしていた。

伝統的な髪形に編んだ白髪の上に赤いバンダナをした、極めて美しく品のよいシドニーの父は、ほとんど英語を話さないらしく、シドニーのホピ語に時々相槌を打つだけで、インディアンの伝統派の老人らしく、寡黙であった。

シドニーの母も古風なスペイン風肩掛けをした伝統的な姿で、これもほとんどおしゃべりをすることなく、黙って座り、時々息子の話にうなずいていた。

草原に続く小道を指さしながら、シドニーは「あれはスネークダンス(蛇祭り)のときの競走用の道で、少年の頃はよく走ったものだ」と、ホテビラのスネークダンスの思い出を語ってくれた。

「本当には「カモシカと蛇の儀式」と呼ぶのだけれど、16日間にわたって行われる儀式の最後の2日に、競争が行われるのだよ。

まだ日が昇らない早朝、あの砂漠の東の方に出発点があって、少年や若者は皆参加するものだ。

太陽が地平線に昇ると、長老の合図で一斉に走り出す。

砂漠の道を、裸足で7,8キロの距離を全力で走るのだ。

ちょうどあの辺に来ると、もう暑さと疲労で目もくらみそうで、最後にこのメサを駆け上がる時は心臓も破れるかと思うほどだよ。

優勝者はあそこの、ほら、スネークキバの中で、キバの首長から祈祷用の羽(ハポ)と「フルートの泉」の聖なる水の入った壺を、勝利の印として渡される。

それを自分の畑に持って行って、畑に聖なる水を灌ぐのだ。

優勝者の畑は来年の豊作が約束されると言われるから、みんな必死で走るのさ。

メサの上では村中の女が声援するし、「カモシカ祭祀」や「蛇祭祀」たちが、雷の音を象徴するブルローラー(雷鳴か牡牛の咆哮のような音を出す楽器)を鳴らして景気づけるし、それは大変なものだよ」。

「競争が終わると、今度は女たちがキバの屋根に置かれたカボチャやスイカの蔓やトウモロコシの茎を奪いあうのさ。

勝者が手にした蔓や茎は「蛇」の象徴で、それを手に入れて家に持って帰れば雨と豊作が約束される、という縁起物なのさ」

シドニーはまた、「村ではだいぶ前に「蛇氏族」の家系が絶えてしまったので、その関係氏族であるナミンハ家の「太陽の額氏族」が、スネークダンスを主催している」と説明してくれた。

スネークダンスはかつて多くのプエブロで行われていたらしいが、現在ではホピにしか残っていない。

多くの人類学者たちが指摘しているように、これはマヤやアステカの「翼ある蛇」の宗教儀礼と共通のものである。

ケツァルコアトルの名で知られ、龍の形で表象されるこのマヤやアステカの神は、生身の人間の犠牲で知られる彼らの宗教の血なまぐさいイメージとは逆に、非暴力的な友愛と共感の神であり、ケツァルコアトルの神殿だけはいかなる生き物の犠牲も受け入れられなかったという。

マヤの神話によれば、彼は「父なる太陽」と「母なる大地」との間に生まれた長子であり、この三者が「マヤの聖三位一体」として宇宙を支配している。

ケツァルコアトルは人間の優しい友であり、彼らの飢えを見かねて黒蟻の姿に変身し、赤蟻の巣からトウモロコシの種を盗んで人間に与え、人間に初めてトウモロコシの農耕を教えて、飢えから免れさせたともいう。

ケツァルコアトルはまた、「翼ある蛇」として、風や雲や雷雨を制御する神であり、農耕に不可欠の雨をトウモロコシ畑にもたらす。

平和の神であるケツァルコアトルはまた、性愛の神でもあり、ベトナム戦争中の白人ヒッピーたちの標語「メイクラブ・ノットワー」はそのままケツァルコアトルの標語としてもよいほどである。

ホピの神と言ってもよいこのケツァルコアトルの宗教儀礼と、ほとんど共通の神話的意味を、スネークダンスは担っている。

すなわち16日間にわたる儀礼は、必ず「カモシカ祭祀」たちとそのキバ・「蛇祭祀」たちとそのキバという一対によって行われる。

その秘儀の一つの頂点が第11日の夜執り行われる「カモシカの若者」と「蛇の乙女」の結婚の儀式である。

それぞれの結社から選ばれた少年と少女が、キバの中で儀礼的な結婚式を行う。

それは高山の動物「カモシカ」と地下の動物「蛇」の、トーテム的に象徴される、「父なる天」の力と「母なる大地」の力との結婚であり、それによるケツァルコアトル・・「翼(天)ある蛇(地下)の誕生の秘儀である。

その翌朝、すなわち12日目の朝、「蛇祭司」たちは、聖なる4方向に向かって蛇の採取に行く。

砂漠の中で彼らは猛毒のガラガラヘビ各種や巨大なブルスネークを素手で捕まえる。

よい心の人間を、蛇はけして襲わない。
あるいは恐怖心が疑惑を呼び、襲撃を招くといってもよい。

彼は蛇に優しく語りかけ、首のすぐ後ろを掴んで壺に入れる。

もし蛇の機嫌が悪い時は、じっと動かず、他の者がハゲワシの羽根で作った道具で柔らかに蛇の頭をなでる。

蛇はたちまち催眠術にかけられたようにおとなしくなり、言うことを聞く。

こうして40~50匹から多い時には60匹もの蛇が集められ、キバに持ち帰られる。

「蛇祭司」たちは蛇の身体を清め、油を塗り、美しく磨きあげる。

夜は瞑想の時である。

キバの梯子の穴に銀河がかかり、白鳥座の尾がきらめく時、祭壇の前の薄茶色の砂を蒔いた一画に、祭司たちは円陣を組んで座り、中央に蛇たちを放つ。

祭司たちは目を閉じ、手を隣り合った者の膝に触れ、身体の中の「地下の力」すなわち「蛇の力」が、身体の中の「天の力」すなわち「カモシカの力」と合体する瞬間を待ち受ける。

具体的にはそれはインドのクンダリーニ・ヨガの瞑想と全く同じ生理学に基づいており、脊柱の下部に当たる潜在エネルギー「蛇の力」を次第に上昇させて、脳を支配する「カモシカの力」と合体させるのである。

目を閉じて、祭祀たちは低く静かに歌う。

蛇たちはいわばその子守歌に酔い、祭祀たちの膝や砂の中で静かにまどろむ。

今こそ「蛇の力」と「カモシカの力」は合体し、万物をその友愛の絆の中で抱き留める至高の瞬間なのだ。

星々も土も人間も蛇も、「母なる大地」の子宮であるキバの始源の静寂の中で一体となって、永遠に目覚めたまままどろみをむさぼる。

これを涅槃と言わずしてなんと言うべきだろう。

4日間にわたる蛇たちとのこうした「行」の最後の日に、競争とスネークダンスが行われるのだ。

競争は東(太陽)から西(地下)へと走られることによって、「父なる天」の使信を「母なる大地」であるキバにもたらし、それを受けて、キバから地上の踊り場へと現れた祭司たちは、蛇と共に踊ることによって、この「第4の世界(地上)」に生きる人間たちの、雨と豊作への願いを、「父なる天」と「母なる大地」に伝達しようというのである。

広場の中央に、ハコヤナギの緑の小枝で作った、まるで能の作り物のような儀礼用の小屋の中に蛇たちを安置し、それを囲んで「カモシカ祭司」たちと「蛇祭司」たちが交互に踊る。

全身を灰色の塗料で塗り、あごと足首を白く塗り分け、白い祭祀用のスカートを着用した「カモシカ祭司」たちの低く唸る雷鳴のような歌に応えて、

緋色の羽を頭に、黒色の蛇の模様を染め付けた茶褐色のスカートを着用し、同色のモカシンを足に、そして全身を赤褐色に塗ったうえで、顔を黒に、胴と腕に稲妻模様を白く塗り分けた「蛇祭司」たちが、儀礼用の小屋から蛇を取り出し、一匹ずつ口にくわえて踊る。

この眩惑的な光景は、「メキシコの朝」に収録されているD・H・ロレンスのすばらしい文章「ホピ・スネーク・ダンス」にゆずる他ない。

今でもこのスネークダンスは、ロレンスが見た1920年代とまったく変わりなく、古い村々で行われている。


             (引用ここまで)


                *****


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「ホピの太陽」・・どこから来て、どこへ行く?

2014-07-24 | ホピ族


北沢方邦氏の「ホピの太陽」を、久しぶりに読み返してみました。
1976年に書かれたものです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****

          (引用ここから)


ホピの伝説によると、マヤやアステカは、人類誕生の日に「父なる天」と「母なる大地」から教えられた教えにそむき、巨大な都市を築き、権力に酔い、邪悪な宗教を創始して亡びることとなった「ホピの悪い兄弟」であるという。

ホピは創造主たちの教えを忠実に守り、彼らとたもとを分かって、北への道を辿った少数派であり、マヤやアステカが亡びた後にも創造主たちの「予言」の成就を見届けるために生き続けることを運命づけられた部族であるという。

マヤやアステカとホピが種族的・文化的に親戚関係にあることは、ホピの言語がアステカ語族の一種であるショショニー語であることや、その人種的特徴(幼児の蒙古斑など)からも、また祭祀や儀礼のある種の共通性などからも証明されている。

しかしマヤやアステカの好戦性や残虐性は、およそホピの平和性とは対照的である。


ホピの神話によれば、戦争や暴力行為は常に「父なる天」の教えに背くものであり、過去の「第一・第二・第三の世界」の滅亡は、必ずそれが原因で起こったこととなる。

すなわち「第一の世界」は、すべての生命が誕生し、人間も動植物も分け隔てなく暮らしていた理想の世界であったが、おしゃべりなモチニ鳥が、人間と動物との差別や、言葉や皮膚の色の違いによる人間相互の差別を人々に吹き込み、悪知恵をもつカトナ蛇が、お互いに他人を疑うことを教え、そうして人間たちが争い始めたが故に、「父なる天」によって、火の雨と火山の爆発などの中で滅ぼされてしまったのである。

「父なる天」の教えを守っていた「選ばれた少数の人々」だけが、「母なる大地」の導きで蟻の民のキバに逃れて、「第二の世界」に生き延びる。

しかし蟻の民にならって食物の集め方や貯蔵法、家やキバの作り方などといった人間固有の文化を創り出した「第二の世界」も、村々や部族が対立し、部族間戦争を始めたがゆえに滅ぼされ、全世界は「父なる天」によって氷結されてしまうのだ。

ここでも「父なる天」の教えを守る少数の人々は、温かな蟻の民のキバに逃れて、「第三の世界 」に生き残ることとなる。

しかし「第三の世界」は、文明が生まれ数多くの巨大な石造りの都市が建設されるが、また人々の悪い知恵が極度に発達した時代でもある。

諸都市の間で戦争が起こり、武装した人々は「空飛ぶ円板」に乗って都市を攻撃して回る。

「父なる天」は再び大洪水によって「第3の世界」を滅ぼす。

「父なる天」の教えを守る少数の人々だけが、大きな中空の「葦の舟」に乗って脱出し、「第4の世界」、すなわち現在の世界へと到達する。


火山の噴火、大氷河時代、旧約聖書のノアの方舟の記述とも一致する大洪水と、ホピの神話は、地球の年代記をかなり正確に反映しているように思われる。

「第4の世界」が同時にアメリカ大陸を指しているのは確かであるらしく、すでにその一部を紹介した各種族固有の移住説伝説はこの「第4の世界」の中で展開されるのである。

しかし神話によると「第4の世界」への到達は、大洪水後、海に浮かぶいくつかの島々を経てなされたことになっていて、アメリカ大陸への人類の移住はベーリング海峡伝いに行われた、とする考古学的な通説と矛盾している。

その上、ホピの人々はベーリング海峡をアメリカ大陸の「裏口」と呼んでいて、ホピはアパッチやナバホのように「裏口」からやって来たのではなく、「表口」からこの大陸にやって来た最初の人類であると固く信じ、伝承してきている。

スペイン軍の侵入によるアステカ滅亡の時、マヤ・アステカの文明の歴史が亡びることを恐れた無名の祭司の手で、侵略者スペインの文字であるローマ字で書き記されたマヤの神話と歴史の書「ポポル・ヴフ」にも、マヤの先祖たちは水没した大陸(ホピの言う「第3の世界」から島伝いにアメリカ大陸にやって来た、と記され、ホピの神話を裏付けている。

ポリネシア人は南米から移住したインディオであるとするヘイエルダールの仮設とは逆に、彼らの先祖たちは、太平洋の島伝いにやって来た、という想像も成り立たなくもない。

そこに、失われたムー大陸の伝説(ポリネシアの島々は水没したムー大陸の山々であった、とする)が加われば、この創造図は完璧となろう。


いずれにしてもホピがこれらの廃墟も含み、北米南部から中南米一帯にかけて繁栄した古代中世文明・・その規模と質の高さにおいてアジアや中近東、あるいはヨーロッパの古代諸文明のみが匹敵しうる・・の担い手たちの子孫であることは、疑うことのできない事実である。

人口わずか7000人のこの一部族の所有する膨大な神話と伝説、多くの民族学者たちに悲鳴を上げさせた、その複雑にして高度に抽象的、哲学的な祭祀や儀礼の諸体系、医療や薬草についての博大な知識などは、何よりもそのことを証明しているであろう。


私たちはホピの最も西の端に位置するモエンコピの村に向かった。

私たちが車を止めた村の東のはずれはまた、中世代の恐竜ティラノザウルスの足跡が保存されている場所でもある。

平らな火山岩の上に、恐らくそれがまだ熱をもって柔らかい間に踏まれたものであろう、直径50~60センチの3つ跡の足跡が点々と東の方向に連なり、消えている。

鳴動し噴火する火山、溶岩流、沸騰する蒸気、火山性ガス、逃げまどう巨大な爬虫類・・「第1の世界」の滅亡はこんな状況であったのであろうか?

足跡を保護する金網のたな越しに、私たちはしばし神話的古代に想像をはせていた。


           (引用ここまで)


             *****


この話は何度もご紹介していますが、その度に不思議な気持ちになります。

なにか、大きな謎があり、幾度訪れても迷子になってしまう土地のような、懐かしいような、わけの分からない迷宮に入ったきり出られなくなったような気持ちになります。


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古代の日朝交流、広がるロマン・・韓国から九州の石器、山形にも

2014-07-21 | 日本の不思議(古代)


                *****


「日朝交流、広がるロマン・・韓国から九州の石器、山形にも」
                   2013年1月21日朝日新聞


「旧石器時代」

仙台市の「地底の森ミュージアム」では昨年末、東北地方と朝鮮半島のつながりを、約25000年から20000年前の石器から考える展覧会が開かれた。

主役は、形の似た日韓の石器だ。

先端が槍先のように尖り、根本に「えぐり」を入れた、山形県新庄市の遺跡出土の「剥片尖頭器(はくへんせんとうき)と、韓国光州近くの遺跡出土の「スンベチルゲ」。

ともに狩猟などに使われたらしい。


この石器はもっぱら九州で出土し、朝鮮半島との交流を示すものとされてきた。

約25000年から20000年前は氷河期で、九州北部と朝鮮半島の間は陸続きか、海峡が狭かったと見られる。

スンベチルゲが見つかった韓国の遺跡では、九州の黒曜石を使った石器が見つかった。


今回はそうした「石器文化の広がり」の可能性を、遠く東北地方にまで広げた点に新味がある。

主催者は「これだけで朝鮮半島から人が来ていたとは言えないが、文化交流の波が東北にまで波及していた可能性はある」と話す。


石器文化に詳しい安蒜政雄・明治大教授は「この時期は九州で遺跡が急増し、朝鮮半島から大勢の人が渡って来たと考えられる。

「剥片尖頭器」は長野や神奈川でも出土しており、人の移動が九州、四国、中国、関東をへて山形まで及んだかもしれない」と見る。

「日本から大陸へ渡る動きも含め、東アジア全体で人と物の動きを検討すべきだ」と話した。



「日韓の文字文化」

一方、国立歴史民俗博物館は、朝鮮半島との関わりから日本の文字文化を考えるシンポジウムを都内で開いた。

日本は漢字を受け入れ、かな文字などの表記を発展させてきた。

同館は10年来、韓国と共同研究をし、中国との関係で語られがちな日本の文字文化の源流に、古代朝鮮が関わっていたことを、多くの資料とともに示した。

韓国では、日本独自の国字とされてきた「畠」「鮑(あわび」を記した木簡が見つかっている。

記録に欠かせない文字の使用の歴史からは、古代社会の姿も見えてくる。

韓国で出土した7世紀の木簡から、農民に種もみを貸しつける日本の出挙(すいこ)と同様の仕組みが、古代朝鮮の百済にもあったことがわかった。

今回は新たに、日本と古代朝鮮で同じ読みをする漢字があることが発表された。

埼玉県・稲荷山古墳の鉄剣にあるワカタケル大王(雄略天皇)の名と、7世紀半ばの百済の木簡にある人名「スガル」に使われた「ル」の文字だ。

館長は、「同じ音に同じ漢字を当てたのは、両国に共有する文化があったからでは」と話す。

また文字文化の交流を担った人にも着目。

館長は、韓国や日本の木簡にある「作文人」は、「仕事で文字を書く人」を意味すると考え、「古代日本では多くの渡来人が文筆に関わっていた。

「日本三古碑」の一つ、多胡碑(高崎市)のある群馬県など、渡来人の多い地域に文字に関わる遺跡が多い」と話す。

李成市早稲田大教授は、
「古代朝鮮の百済、高句麗、新羅から派遣された僧や留学生が、聖徳太子ら日本の中心人物と交わった事例をあげ、文字文化の発展に仏教が果たした役割」を報告した。


             *****

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2億年前の隕石衝突の痕跡が、岐阜でみつかる

2014-07-18 | 環境(ガイア)


              ・・・・・


「2億年前 カナダの隕石衝突 岐阜の地層に痕跡」・・2012・11・06朝日新聞


今から約2億1500年前の三畳紀後期に巨大隕石が地球に衝突した痕跡を、鹿児島大などの研究チームが岐阜県坂祝町の木曽川沿いの地層でみつけた。

恐竜絶滅の原因になったとされる白亜紀末(約6500万年前)の天体衝突に近い規模と推定される。

米科学アカデミー電子版に論文を発表する。

この地層では三畳紀後期の深海底の岩石が地表に出ている。

尾上哲司鹿児島大助教授らは、削り取った岩石の約2億1500万年前の層から隕石衝突の痕跡のような細かい球状の粒を発見。

地球上に少ししかないイリジウムや白銀など6種類の元素が、いずれもこの層に限って通常の100~1000倍程度の濃度で含まれていた。

この濃度は舞い上がったチリが地球規模に広がり、恐竜絶滅につながったとされる白亜紀末の衝突で出来た層に匹敵するという。

年代は天体の衝突でできたカナダ東部のジュレーター(直径約100キロ)の時期とほぼ重なる。

この時の衝突の痕跡がこれほど離れた場所で見つかるのは初めて。

だが当時は恐竜時代の初期で、白亜紀ほどの大量絶滅が起きたとは考えられていない。

丸岡照雪筑波大准教授は「衝突の規模や様相によって、環境への影響の及ぼし方に違いがあることを示していると思う」と話す。

                
              ・・・・・

古い記事ですみません。
掲載しそびれて、うずもれていました。

隕石、恐竜、、なにかピンとくるものがあります。

非常に興味深いです。。


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北周一郎氏の「謎の古代中国・神仙文明」と長江文明

2014-07-16 | その他先史文明


「謎の古代中国・神仙文明」という北周一郎氏著の「学研ムーブックス」も面白かったです。

北氏は、蓬莱山や崑崙山という中国のユートピアの地は、空想ではなく、かつて実在した、仙人たちの作り上げた仙人たちの古代文明の地だったという仮説をもって、長江文明について考えています。


             *****


         (引用ここから)


仙人は蓬莱山に住む「太古民族」であるともいう。

仙人が「太古民族」であるならば、どんなに修行をしたところで「現代民族」であるわれわれが仙人になれるわけはない。

実はこの矛盾にこそ、仙人の謎を解く鍵が含まれているのである。


仙人になるための秘薬については、4世紀に書かれた「抱朴子」に詳しく紹介されている。

しかし、秘薬の製法が書かれていても、現実に秘薬を調合することはほとんど不可能だったようだ。

秘薬の調合に関わる知識はまさに「失われた太古の叡智」だったのだ。

「抱朴子」に記載された調合法は、けっして実用新案ではない。

また仙人をめざして秘薬の調合に励んだ人々も、何か新しいものを生み出そうとして努力したのではなく、太古の成功事例を再現すべく努力したのである。


かつて「仙人」と呼ばれる人々がいた。

だから仙人になる方法を復活させることによって、彼らと同等の存在になろうという発想なのである。


仙人に関する古い記録を読んでいると、仙人という存在には二つの興味深い特徴があることに気づく。

一つは仙人が「異形のもの」であるということ。

「神仙伝」によれば、「仙人は頭に異骨生じ、体に奇毛あり」という。

実は仙人は毛むくじゃらだったというのである。

もう一つは仙人が「外なる世界のもの」であるということだ。

仙人は俗人として最後を迎えたときに、われわれの住む「内なる世界」から飛び出し、仙人のみが住む「外なる世界」へと移行してしまうのである。


中国が中国文明の圏外つまり、「外なる世界」を未開地域として蔑むのは、中国文明が高度な発達を遂げてからのことである。

文明の黎明期の中国では、外なる世界は、侮蔑の対象ではなく恐怖の対象であった。

外なる世界とは人間以外の領域、魑魅魍魎の跋扈する領域として恐れられていたのだ。


近年、長江流域の三星堆遺跡の発掘によって、はからずも「山海経」が注目を集めることになった。

というのは、三星堆から出土した奇怪な青銅器群の中に、「山海経」に描かれた怪物をかたどったものが数多く見出されたからである。


仙人は“外なる世界の異形のもの”という点では、「山海経」に描かれた怪物たちと似たような存在である。

仙人も想像上の怪物と解釈されてもおかしくない。

にも関わらず、仙人については数千年にわたって大真面目に論じられ、仙人をめざして修行に励む人々が続出した。

これはどういうことなのか?


仙人は外なる世界のものであり、異形のものであったが、古代中国人はこれを魑魅魍魎として恐れもしなければ、野獣同然の蛮族として軽蔑もしなかった。

それどころか、完全に羨望の対象としていた。

仙人=「太古民族」の築き上げた文明が、古代中国人の築き上げた文明のお手本だったのならば、それも当然のことだ。


               (引用ここまで)


                 *****


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崩壊する天地から逃れ、飛翔する法を探究する・・道教(2)

2014-07-14 | その他先史文明


続きです。横手裕氏の「中国道教の展開」のご紹介をさせていただきます。

道教の歴史を辿ると、司馬遷の記す「史記」には書かれていない世界にたどり着いてしまうという不思議があるように思います。

道教は、歴史というものも、地理というものも、倫理というものも、軽々と乗り越えて、不思議の世界へと入っていくように思われます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

         
          *****


        (引用ここから)


古代中国に存在した学術、文化を総合的に見るには「漢書・芸文誌」が適当と思われる。

その中に「神遷(しんせん)」という文書がある。

この文書には10種の書名があげられている。

「黄帝雑子歩引」、「黄帝雑子導引」、「黄帝雑子あん摩」「黄帝雑子芝菌」「黄帝雑子黄冶」などとある。

現存していないのだが、題名からある程度推測するなら、「歩引」とは「導引」にほぼ同じと考えられる。

「導引」とは体の屈伸運動を中心に、呼吸法などを取り入れた養生長生法である。

「あんま」は今日に言うそれとほとんど同じだろう。

「芝菌」とは、きのこのこと。ある種のきのこは古来、神仙の食する神秘的な植物とされた。

「黄冶(こうや)」は直訳すれば黄金の精錬で、錬金術であるが、転じて不老不死の丹薬を練成する練丹術のことをさす。

古くから黄金や他の金属を調合して不死の薬をつくる技術が説かれ、実践されていた証拠であろう。


その他、前漢時代までには、さまざまな技法が実践されていたことは数多くの資料が語ってくれる。

まずは「吐故納吸新(とこのうきゅうしん)」とよばれる呼吸法がある。

故気すなわち古く悪い気を吐きだして、新しく新鮮な気を体内に納めることをいう。

人間は要するに気によって生きていることを前提とし、地の気を穀物を中心とする食物から、天の気を呼吸によって取り入れているとする。

しかし地の気は濁った気であり、それにより人は重くかつ有限なる存在となっている。

そこで穀物を断ち、天の清らかで軽い気のみを摂取することで、長生きが可能となり、また身体は軽くなり、最後には地から浮上して天へと昇ることができるとも考えるのである。


「漢書」には「化色五倉(かしょくごそう)の術」というものが言及されている。

これは一種の瞑想法であり、腹中に五臓の神がいることをイメージするものであった。

この方法を実践することによって、不死になり、飢えることがなくなるなどと言われている。

また、「兎歩(うほ)」という術がある。

兎とは治水の功績で舜から皇王の位をゆずられ、夏王朝を創始したとされる古代の聖天子である。

彼は中国全土を治めるために13年も家に帰らず、各地を経巡ったが、そのために足を痛めて片足をひきずるような歩き方になったという。

そこで、兎は旅行の神とされ、またこれと同じように後ろ足を前足の前に出さないような歩行法にも呪術的な意味づけがおこなわれ、出立前にこのステップを踏むことで旅行中に鬼神の加護が得られるなどとされた。

その後、あるいは悪霊から身を守るため、そしてなによりも鬼神を招き寄せ、使役するための方法として、道教ではなにかとこの「兎歩」が行われるようになってゆく。


天地にあまねく存在するとされたさまざまな「鬼神」への信仰も、道教には欠くことのできない要素である。

鬼神信仰の源流としてひとまず挙げられるのは、殷の上帝信仰に発する「天」の信仰、儒家にさかんに行われた祖先信仰、民間で各地に行われた巫法(ふほう)、そして墨家の鬼神信仰であろう。

墨家は世界を天、鬼、人の三つに分け、「天」は世界の最上層にあって、鬼・人の世界を主宰する人格神的なものとした。

「鬼」は詳しく言えば天の鬼、山川の鬼、人の亡魂に分かれるとされ、天と人の中間に存在している鬼神を支配するとした。

人間は天や鬼神の祭祀を欠かさずに行い、かつ日々正しい道徳的実践に励むことにより、天と鬼神よりもたらされる罰は回避できると説かれた。


          
道教を説く人々は、天地は「劫」というサイクルで開闢、崩壊を繰り返し、現在の世は終末まであとわずかであって、天地はもうすぐ(甲申の年)崩壊する。

そこで、それを生き延びるために修行などを積んで「種民」にならなければならない、という危機意識も共有していた。



道教、仏教の優劣に関する論争は、仏教が伝来して間もない「後漢」末、「三国」初め頃から起こっていたが、これらはその後の道教の教理内容の発展にも欠かせぬ要因となった。

たとえば、「老子は歴史上なんども形を変えて出現した」とし、その過程で西域に釈迦として現れ、仏法を説いた、などと述べる「老子化胡経」なども生み出しながら、

老子を釈迦より時代的に遡らせ、かつ仏教教理全体を道教の内に組み込むことが試みられた。

また仏教の「三界28天」を凌ぐスケールの世界観を考えて、「三界36天」説を生み出すなど、仏教に対する優越を意識した教義の工夫と拡充の努力が重ねられた。

          
            (引用ここまで)

               *****



wikipedia「老子」より

その他の伝承

他の伝承では、老子は伏羲の時代から13度生まれ変わりを繰り返し、その最後の生でも990年間の生涯を過ごして、最後には道徳を解明するためにインドへ向かったと言われる。

伝説の中にはさらに老子が仏陀に教えを説いたとも、または老子は後に仏陀自身となったという話(化胡説)もある。

        

 wikipedia「墨家」より

墨家(ぼくか、ぼっか)は、中国戦国時代に墨子によって興った思想家集団であり、諸子百家の一つ。

博愛主義(兼愛交利)を説き、またその独特の思想に基づいて、武装防御集団として各地の守城
戦で活躍した。

墨家の思想は、都市の下層技術者集団の連帯を背景にして生まれたものだといわれる。


戦国時代に儒家と並び最大勢力となって隆盛したが、秦の中国統一ののち勢威が衰え消滅した。



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古代中国のユートピア・・別の太陽が輝く巨大な地下世界

2014-07-11 | その他先史文明



古代中国について考えています。

司馬遷が「史記」に記した黄帝(紀元前2510年~紀元前2448年)を源とする古代中国の歴史よりさらに古く、

別の文明と言ってよい遺跡群が発見され、古代中国世界を見直すことができるということを知りました。

古代中国の世界は、限りなく奥深い宇宙へのいざないと感じられ、どこから手をつけたらいいのか迷いを感じます。

老子・荘子のキャラクターは、懐かさを感じますが、

彼らが4000年も前に作り上げ、楽しみつつ、そこに暮らしていた世界は、東洋人の魂のユートピアといえると思います。

その懐かしい東洋文化を、さらに古い時代まで辿ることができると分かって、大変興味を持ちました。


まず、横手裕氏の「中国道教の展開」という本から、道教に関する興味深い記述を抜粋してみました。




              *****
 

            (引用ここから)



道教の源流を古代に求めるにあたり、老子を中心とする黄老家や道家と共に欠かせないものが、神仙説である。

神仙説は、はるか東海のかなたにある蓬莱山や西方の果てにある崑崙(こんろん)山に、仙人や羽人なるものが存在するという伝説に由来する。

これらは人間界とは別の特殊な世界の生き物とされ、飛翔、不死などの属性をもつものと考えられた。

それが医学や方術の発展と共に、人間もしかるべき方法論に従い努力を積めば成り得るものとされるようになり、これを愛好した漢の武帝の頃には大変流行し、それを吹聴する方士たちが世にはびこった。


中国各地の名山の下には巨大な洞窟の地下世界があり、内部には日月星震が輝くなど、地上とほとんど同じ様子をしていて、やはり神仙たちが住しているという。

これを「洞天」と言い、大きなものが10、小さなものが36、さらに神人が治める「福地」が72ある。


               (引用ここまで)


               *****


蓬莱山とか崑崙山という名は、夢幻の世界に誘われるようで魅力的です。

ユートピアであり、古い記憶でもあるようで、日本と中国と、場所は違うかもしれませんが、同じ血筋を分かち合っているのではないかという気がします。

仙人という人間離れしたキャラクターは、東洋というものがどういう本質をもつのかを教えてくれるように思います。

東洋はほんとうに西洋とはまったく違う世界だと思います。



wikipedia「蓬莱(中国)」より


蓬�愬(ほうらい)とは、古代中国で東の海上(海中とする説もある)にある仙人が住むといわれていた五神山(仙境)のうちの1つとされ、道教の流れを汲む神仙思想のなかで説かれるものである。

五神山には蓬�愬の他に、「方丈」(ほうじょう)「瀛州」(えいしゅう)「岱輿」(たいよ)「員喬」(いんきょう)があり、そのうちの「岱輿」及び「員喬」は流れて消えてしまったとされている。

また蓬�愬は、「方丈」「瀛州」(えいしゅう)とともに三神山の1つであり、渤海湾に面した山東半島のはるか東方の海(渤海とも言われる)にあり、不老不死の仙人が住むと伝えられている。

徐福伝説には、この三山の名称が出現する。

伝承として日本や台湾(蓬�愬仙島と中国語では呼ぶ)を指すと言われることもある。

また、日本では浦島伝説の一つ『丹後国風土記』逸文では「蓬山」と書いて「とこよのくに」と読み、文脈にも神仙などの用語が出てくること、

田道間守の話や他の常世国伝承にも不老不死など神仙思想の影響が窺えることから、理想郷の伝承として海神宮などと習合したとも思われる。

『竹取物語』にも「蓬�愬の玉の枝」が登場するが、富士山の縁起を語るところではやはり不老不死の語が出ており神仙思想との繋がりが窺える。



wikipedia「崑崙(こんろん)」より

崑崙山脈(こんろんさんみゃく、クンルンシャンマイ))とは、中国の西部にある約3000kmに及ぶ大山脈で、標高6000m以上の高山が、200峰以上連なっている。

パミール高原に接する中国西部の国境を南に伸び、それから東に曲がり、チベット(チベット自治区・青海省)の北の境界になっている。

また、麓のタリム盆地南端をはしる「西域南道」には、崑崙山脈の氷河を水源とする内陸河川・カレーズに灌漑されたオアシス都市群(ホータン、ヤルカンドなど)が連なっている。

著名な山はコングール山(公格爾山7649m)、ムズターグ・アタ山(慕士塔格山7546m)がある。


古くは『山海経』に見られるように、はるか東海上に立つ巨木であり、そこから太陽が昇るとされていた。

のちの『梁書』以降は、東海上の島国と考えられるようになった。

巨木の伝承は、その国では桑の木が多いと言う話に代わった。

蔑称とする説もある一方では、古代の中国では、九州(九夷)が扶桑の生えるところで「紫庭」としての憧れの地だった面があるという説もある。



wikipedia「洞天福地」より

洞天福地(どうてんふくち)は、道教における吉祥地。

道教において仙人が住む地「洞天」と仙人が修行した地「福地」の総称。



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モンゴルの砂漠と人間・大きすぎる自然・・港千尋氏

2014-07-09 | メディテーション




        ・・・・・

「ゴビ砂漠 “身の丈”が役に立たない世界・・港千尋さん」
朝日新聞2013・10・14


宅地やリゾート施設の開発でよく「ヒューマンスケール」という表現を耳にする。

人間的なスケールという文字通りの意味に加えて、緑の豊かさや徒歩で移動できることといった住みやすさの表現として使われていることが多い。

同時にそれはもともと人間の尺度で作られた都市が、モータリゼーションや建築の超高層化などをへた結果、どこかでスケールを逸脱してしまったことも示している。

だが都市化された生活圏から少し外に出てみると、そこにはノン・ヒューマンスケールな世界が広がっている。

それは自分の“身の丈”など何の役にもたたないような広大さの世界である。

砂漠とはそうした経験を与える上でまたとない環境である。


たとえば「一人になる」ということの意味は、都市と砂漠では大きく違ってくる。

砂漠では、自分の姿が違って見えてくる。


伝統的な風景画では、しばしば人の姿が縁の中に描かれている。

イタリアやイギリスの田園風景を眺めている人間は、その絵を描いている画家の姿に重なる。

畑や小川や森や、かなたの山、農家や教会の塔などがたくみな構図の内に配置され、私たちは画家の位置へとまなざしを運ぶ。描きこまれた人の姿は、絵を見ている鑑賞者の姿に重なる。

ヒューマンスケールとは、このような人間的な尺度だろう。



砂漠では、こうした遠近法が成立しない。

見渡すかぎりの地平線。

森はおろか木が一本も生えないような土地では、何を基準にして遠近を測ればよいのかが分からない。

極度な乾燥のために、遠方の山稜が近くに見え、灼熱の太陽が蜃気楼を発生させる。

描きこむには、人間はあまりに頼りなく、あまりに寄る辺ない。

モンゴルの砂漠は、恐竜・化石の発見で世界的に有名である。

今でも地表から卵や骨のかけらが見つかると言われるが、足元の大地が遥か太古の昔、水が流れ、植物が生い茂る、緑の楽園だったとはまったく想像を絶している。



昔も今もヒューマンスケールの風景でないことだけは確かだが、そんな土地にさえ人間は別の意味で影を落とし初めている。

近年、地下資源の開発により経済的には活況あるモンゴルだが、同時に伝統的な遊牧民の生活がどんどん縮小していると言われる。

前者は砂漠の環境に影響を及ぼし、後者は草原地帯の風景を変えつつある。

中国側でも砂漠化の拡大に歯止めがかからないのは報じられているとおりだ。

巻き上げられた砂は汚染物質をともなって拡散する。

東アジアの空は、深刻な大気汚染にさらされている。

砂漠の風景は人間に“身の丈”を考えさせる。

だが人類は“丈”を何に合せてよいのか、いまだ分からずにいるようである。

(3枚目の写真は別記事より)


         ・・・・・


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血の儀礼をひきつぐ・・マタギの世界(4・終)

2014-07-07 | 日本の不思議(現代)


引き続き、佐々木高明氏の「山の神と日本人」という本のご紹介をさせていただきます。

著者は東南アジアの焼畑と狩猟の習俗を紹介した後、次のように考察します。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


             *****


            (引用ここから)

「焼畑農耕民の狩猟と、狩り祭り」


我が国の焼畑を営む山村においても、かつては「山の神」が山中を広く支配すると考えられていた。

「山の神」信仰を有する村の氏子が総出で、山中で狩りを行い、獲物を神に捧げて豊猟や豊作を祈願する慣行は、我が国の山村でも、以前はかなり広く見られていたようである。

たとえば宮崎県の旧東米良村の銀鏡神社(しろみ神社)の「霜月の祭礼」などは、こうした「狩り祭り」の伝統を今もよく伝えているものとして知られている。

そこでは「祭り」に先立って、村ごとに氏子総出で狩猟が行われ、今日でも、猪の頭がいくつも神前に供えられる。

祭りには31番の神楽が夜を徹して奉納され、その後仮装した狩人の夫婦が狩りの所作事を面白おかしく行う「シシトギリ」の神事がある。


それが終わって銀鏡川の河原で“ニエ”(獲物)を調理して「山の神」を祀り、猟占いをする「シイシバ祭り」が行われるのである。


このように銀鏡神社の「霜月祭り」では、実際に狩りの獲物を神前に捧げて、豊猟と共に豊作の祈願を行う「狩り祭り」の伝統がよく伝承されている。


九州山地や四国山地などの、かつて焼畑農耕を盛んに営んでいた村々では、以前には、旧正月の「山の口開け」の日などに、「講狩り」「モヤイ狩り」「総狩り」「シバ祭り」などと称して、村人が共同で儀礼的狩猟に出かける慣行がよく見られたという。

熊本県の五木村の梶原では、今日も5月5日の「山の口開け」の日には、村の15才から60才までの男性すべてが村の氏神である“妙見さん”の前に集まる。

この時「シシ餅」と言う小さく切った餅を、各自が持ち寄る。

そして「山の口開け」の儀礼を行った後、社前で「山の神」に祈りを捧げた後、かつては男衆全員で「イノシシ狩り」に出かけたという。

しかもこの村では「山の口開け」の翌日には「柴刈り」の行事があり、その翌日には柴(ダラノキ)を泉のそばで燃やす「鬼火焚き」の行事が続く。

このような点から私は、この儀礼的行動・・「狩猟」・「柴刈り」・「火祭り」と続く一連の「山の口開け」は、「焼畑」の開始の性格を有するものと推測している。


この他、南九州、特に大隅半島の各地にも、正月の3日から6日にかけて「シバ祭り」と称される古い祭りが営まれている。

今ではワラでシカの形を作って、それを神官が弓で射たり、あるいは餅やシトギを焼いて「シシの肉」と称して食べたりという風に変化してしまっている。

しかしかつては、祭事の際は、神官と村人が共同で狩猟に出かけて鹿やイノシシを狩猟し、その獲物の一部を神に捧げ、残りを住民に分配して、祭りと宴を行っていたということである。


この「シバ祭り」とよく似た祭りが、奥三河の山村地帯に広く伝承されている。

古くから「シシ祭り」と呼ばれているこの祭りの日には、山から採ってきた杉の葉を束ねてオスジカとメスジカの形を作り、これをあらかじめ氏神の境内に立てておく。

禰宜が祈祷をあげると、氏子が勢子になって獲物を追い出すしぐさをする。

そこで禰宜は弓に大矢をつがえ、杉の葉で作ったオスジカ・メスジカに3本ずつ矢を射込み、大矢を抜き取って三方の宙に向けて放つ。

次いでシカを転ばし、杉葉を抜き取って神前に供え、豊作を祈願する。

その後氏子たちが「アラ(内蔵)をもらう」と言って杉葉を抜き合うのだという。

おそらくかつては年の初めに、神官が氏子たちと共同で現実に狩猟を行い、獲物の血や肉の一部を神に捧げ、残りを氏子に配分して豊作を祈願する儀礼を営んだものと思われる。

同じく奥三河の山村・東栄町では、旧暦2月初旬、初丑の日に、稲荷社の前に杉の青葉で雌雄2頭の鹿を作り、それを宮の別当3人が弓矢で3・3・9度に射る。

それが終わると、あらかじめ鹿の腹内に入れておいた小豆飯の団子と米の包み(これを「ゴク」と呼ぶ)を、「サゴ(シカの胎児)だ」といって取り出す。

集まった村人は、この「ゴク」から取り出した米に境内の土を混ぜ、それを5つの包みに取り分ける。

これを「五穀の種」と言って、鍬の先に結びつけて家に持ち帰り、各家の「えべすだな」に供え、豊作を祈るという祭りが行われていた。


この例で特に注目されるのは、鹿の腹から取り出された「ゴク」が「五穀の種」として神棚に祭られる点である。

おそらく古い時代には実際に狩猟を行い、その時「山の神」の加護によって得られた獲物の内臓や血や肉などには、豊作を約束する優れた霊力が秘められていると深く信じられていたのではないだろうか?

その思いが、この種の「狩り祭り」を豊穣の儀礼に転化していった主な要因であったと考えられる。


「播磨国風土記」には「玉津日女命、生ける鹿を捕り伏せて、その腹を裂きて、その血に稲蒔きき。よりて一夜の間に苗生いき。すなわち取りて植えたまひき」
という有名な記事がある。

生きた鹿の腹を裂いて、その血の中に稲の種を蒔くと、血の呪力によって一夜の間に苗が生えてきた。

その苗ですぐに田植えを行うことができた、というのである。

同じ風土記に「我はシシの血をもちて田作る」、つまり「シカあるいはイノシシの血でもって田を作る」という記事も見いだせる。

そうした信仰は日本の古層文化の中に長く息づいてきたと見て差し支えない。


              (引用ここまで)


                *****

いやぁ~、祭りって面白いものですね!


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「破魔矢は「浜」の矢だった・・海の精霊と弓神事・熊野(4)」

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焼畑文化を考える・・マタギの世界(3)

2014-07-05 | 日本の不思議(中世・近世)


引き続き、佐々木高明氏の「山の神と日本人」という本のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


         *****


       (引用ここから)


「東北日本の畑神信仰の基層にあるもの」


日本列島における「山の神」の信仰は単一・同質のものではない。

東北日本の「山の神」信仰には、狩猟民や山稼ぎ人などの「山民」の信仰する「山の神」信仰の色が濃く、稲作農民の信仰する「山の神=田の神」の影は色薄いと感じられる。

私は、会津山脈から北上山地に見られる「良い種を持って天から降りて来る畑神の去来信仰」の中に、“稲作以前の神の姿”を強く感じるのである。


「常陸国風土記」に描かれている、稲作民が土着の強者“夜刀神”を山地に祭り上げる説話は、水田稲作民が東北日本に進出した際の、土着の非・稲作民との接触・交渉の典型例の一つと考えることができる。


だが西日本から日本列島の東北部へ、稲作文化をもった人々が進出した際、そこで接触した東北日本の土着文化は、必ずしも採取狩猟のみに依存する文化ではなかった。

既に縄文時代の東北日本における、幾種類かの作物遺体が確認されている。

東北日本において、ある種の農耕が営まれていた可能性を否定するわけにはいかない。

しかもその農耕は西日本の照葉樹林型の農耕とは系統と特色を異にする“もう一つの農耕”であった可能性が少なくないのである。

この「もう一つの農耕」の存在を推測させる根拠は、日本列島の在来作物、特に東日本を中心とした地域の在来作物の中には、南方には系統がつながらず、むしろ北方の東北アジアやシベリアにその系統がつながるような作物がいくつも存在することである。

しかもそれらの作物の伝来は、いずれもかなり古いと想定されている。


アワやキビは、従来は中国・華北の黄土台地がその起源地とされていた。

しかし再調査の結果、その起源地は中央アジアからアフガニスタンを経て、北西インドに至る地域であることが判明した。

アワやキビはそこから、シベリア南部経由の北回りの道とインド経由の南回りの道の両方のルートに分かれて東アジアに伝わったと考えられている。


たとえばアイヌの人たちが古くから栽培しているキビは、本州のものと比べて、極めて早成で草丈が低く色が紫である。

これは中央アジアやヨーロッパのキビに見られる特徴と共通するもので、この種のキビは北方ルートで伝播した可能性が強いという。

大麦、蕪をはじめ、蕎麦の栽培、豚の飼育なども北方の特徴である。



「続縄文時代」の後期(4~6世紀)には・式土器が北海道から東北地方へ南下し、ほぼ現在の秋田・盛岡・仙台を結ぶ線以北の、東北地方の北部に広がるようになる。

また、「ペツ(あるいはベツ、大きな川)」や「ナイ(小さい川)」などに代表されるアイヌ語地名もほぼ同様の分布を示し、東北地方の北部一帯を覆っている。

おそらく現在のアイヌ語に近い言葉を話す集団が・式土器を携えて北海道から南下し、かなりの期間、東北地方の北部一体に定着したと考えて誤りないと私は思っている

他方、律令国家による9世紀初めごろまでの城柵建設の北限も、この文化圏の南限にほぼ一致している。

この線以北は、8世紀まではもちろん、それ以後もかなり長く蝦夷の文化地域であり、北海道南部と連続する同一の文化圏を作っていたと見て差し支えないと考えられる。

北上山地は、まさにこの蝦夷地域の中核地帯であり、そこに分布する焼畑の特異な特色が本州の他の焼畑と異なっている理由は、北方系の畑作農耕がかつて北海道南部やこの地域に展開し、その伝統が今日まで残ったものと考えると、その特色の成立が理解できる。

北方系の雑穀類は、サハリン経由の他に、沿海州あるいは朝鮮半島北部などから日本海を横断するルートを経て、続縄文時代ないしその前後の時代に東北日本の北部などに伝来した可能性も少なくないと考えられる。

727年、最初の渤海国使が山形県の出羽に漂着したのをはじめ、8世紀から9世紀初頭頃にかけて、渤海使の多くが東北日本北部に到着している。

こうした事実から見て、この日本海横断の伝播路によって、北方系の畑作農耕が早い時期に北海道南部や東北北部に伝来した可能性も、決して小さくはないと考える。


          (引用ここまで)


            *****


この、きわめて学術的な文章を読んで、わたしは、日本における「焼畑」文化ということを、強く意識しました。

わたしの好きな昼ごはんは、おむすびです。

白いお米を塩味でほどよく握ったおむすびほど、おいしいものはないのではないかと思うほどです。

このおむすびは、稲作文化になりますが、それ以前、また、それ以外に、焼畑文化が日本にも色濃く存在したということは、とても衝撃的でした。

今、若い人たちに流行りの「カフェご飯」なるものも、国籍不明、東西混交の食べ物ですが、焼畑文化についても、もう少し勉強しなければいけないと、思いました。


ブログ内関連記事

「マタギの世界(1)・・北方の山の神と、山人(やまうど)の生活」

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アイヌより古い、東北の熊神信仰・・マタギの世界(2)

2014-07-02 | 日本の不思議(現代)



引き続き、佐々木高明氏の「山の神と日本人」という本のご紹介をさせていただきます。

著者は「熊神信仰とその文化的系譜」について述べています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****


            (引用ここから)


「熊のことは大事にしたな。それこそ神様扱いでねえけどよ」。

新潟県の深雪地帯・三面の山人たちはこう述べて、熊が神に近い獣だという認識を示している。

熊を捕った時に「山の神」への供物として捧げる「七串焼き」(七片の肉の串焼き)の、その熊肉を食べることは、熊の聖なる力を口にすることだとも考えられていた。

東北地方の多くの山民たちの間では、熊は「山の神」に最も近い獣と考えられていたようだ。


池谷和信氏は著書「東北マタギの狩猟と儀礼」で、東北地方に広く分布する、狩猟を生業とした「山の神」を信仰する人たち(=マタギ)の儀礼を総覧している。

その儀礼は二種類に大別できるとしている。

すなわち、「狩り熊型の熊祭り」として、山中で熊を捕獲した時に行う儀礼(唱え言をともなう「皮着せ(=皮剥ぎの意味)」と、心臓割と、七串焼き)と、山中か集落で行われる法印(里山伏が主催する)の“シシマツリ”の二種類である。


アイヌの「熊祭り」が「狩り熊型」のそれから、子熊を飼う「飼育型の熊祭り」に特化する方向に進化したのに対し、東北地方のマタギの熊儀礼は、北海道・東北日本北部に共通する古いタイプの「狩り熊型」の祭りから発して「シシマツリ」の方向に特化したものだと、池谷氏は結論づけている。

いずれにしても東北地方には、狩猟儀礼としての熊祭りが広く分布していたことは間違いない。


赤羽正春氏は、北越後から山形の置賜、庄内地域にかけて「オサトサマ」と呼ばれる「山の神」信仰が分布していることに着目している。

この「オサトサマ」は姿の見えない山の支配者で、「熊祭り」と深く結び付いているもので、赤羽氏はこの神こそ北海道やさらには大陸につながる古い「山の神」の姿を伝えているものではないかと推測している。

「熊祭り」と言えば、アイヌの人たちのそれがよく知られている。

アイヌのイオマンテと同じ「飼い熊型の熊祭り」の「熊送り」は、アムール川流域からサハリン、北海道に至る地域の諸民族にのみ分布する。

ここから、おそらく「飼い熊型の熊信仰と儀礼」は、狩猟した熊の霊を送る「狩り熊型の儀礼」から発達したものであろうと考えられる。

また「飼い熊型」の儀礼は「オホーツク文化」を通じてアイヌにもたらされたものであり、この種の「熊祭り」がアイヌ文化の中核を構成していると考えられる。

 
              (引用ここまで)


               *****


NHKニュースに、新潟県の「オサトサマ=お里様」の行事が行われたという記事がありました。

        
                ・・・・・

「NHKNEWS・新潟県のニュース」2013・12・08
http://archive.is/TojgN

「村上 伝統行事「お里様」」


村上市で、「お里様」と呼ばれる伝統行事が行われました。

「お里様」は、村上市塩野町地区の伝統行事で、五穀豊穣と山での仕事の安全を祈願してしめ縄を、地元の熊野神社に奉納します。

しめ縄の奉納は、祝言に見立てて行いますが、熊野神社は女性の神様をまつっているため、地元の男性が派手な化粧をし、嫁入り行列に扮して運びます。

男性たちは、長さおよそ5メートル、重さおよそ60キロのしめ縄をかついで、祝言のうたを歌ったり、酒をふるまったりしながら、集落を練り歩き、神社に向かいました。

そして、神社に到着したしめ縄は住民に見守られながら無事、奉納されました。

「お里様」でしめ縄をかつぐのはその年に結婚したか、間もなく結婚する予定の男性とされてきましたが、最近は、そうした男性が減っているため、以前、かついだ男性が参加し、伝統を守っているということです。

しめ縄をかついだ男性は、「伝統行事に参加できて良い思い出になりました」と話していました。

塩野町公民館の小田甚一さんは、「これからも若者に声をかけて、伝統行事を続けていきたい」と話していました。


             ・・・・・

再び、同書に戻って、ご紹介を続けます。


              *****

 
            (引用ここから)


「続縄文文化」は、4~6世紀頃に、北海道から東北地方北部に展開し、“ナイ”、“ペツ”などに代表されるアイヌ語系の地名を残しながら定着したことはほぼ間違いない。

したがって、その時期に「熊送り」の観念や儀礼が北海道から東北地方北部に伝えられた可能性を見ておかなくてはならない。

その際「飼熊型」のそれではなく、より一般的な、狩猟した熊の霊を送る「狩り熊型熊送り」の観念や儀礼が、まず伝えられた可能性を見ておかなければならない。


宇田川氏は「イオマンテの考古学」において、「熊祭り」であるアイヌの「イオマンテ」が北海道において確立するのは18世紀後半以降だという結論を下している。

すなわちアイヌのイオマンテは比較的新しいものであるということである。

東北地方における「山の神」信仰の基層に「熊神の信仰」が認められるとすれば、それはアイヌ文化を介して伝えられた新しいものでなく、むしろそれ以前の「続縄文時代」から「擦文文化」の時代、東北地方の北部と北海道の南部が同一の文化圏を形成していた時代に、その信仰が広がったものと考える方がよいのではないだろうか?


アムール・サハリン地域を中心とする北方諸民族の世界観についてまとめた荻原真子氏によると、アムール地域において「獣の主」と考えられているのは虎と熊であるが、「自然界の主」としての特性をより多く留め、狩人の「守護者」としての存在が明確なのは、「虎」であるという。

「熊」の場合は、人間との間には明らかな交換関係が見られ、しかもその関係は「熊送り」の儀礼を含む人間集団との間でのみ成立しているのだという。

アムール川地域の「虎」と「熊」の伝承と共通する狩猟民的な伝承は、朝鮮半島では豊富に見られるのに対し、「虎」の生息しないシベリアの森林地帯、あるいはサハリンや北海道のアイヌなどでは、「熊」の伝承のみが広く展開したのだと荻原氏は指摘している。

東北地方の「マタギ」に広く伝承されている「狩り熊型」の狩猟儀礼や、「熊祭り」との結びつきが強い「オサトサマ」の信仰などが、狩猟民的な「山の神」、つまり「野獣の主」、「里の主」の信仰の残存形態だとすると、

アムールランドの森林帯にもともと存在した“熊や虎を狩りの王、山の主とする信仰”のうち、“熊についての信仰”が、アムールランドからサハリンを経て北海道にまで達し、その熊神信仰が続縄文時代などを介して東北地方にまで及んでいた可能性が十分に考えられるのではないだろうか?

東北地方の「山の神」信仰の基層には、このような意味で、東北アジアの、狩猟採集を主な生業とする諸民族の信仰や儀礼につながる文化的特色が息づいているようである。


            (引用ここまで)

              *****



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