始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

2012年(4)・・恐竜と人類とアステカの都

2011-07-28 | マヤ・アステカ・オルメカ
エイドリアン・ギルバート著「古代マヤ文明の暗号・2012」を読んでみました。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


前回の記事に紹介した「世界樹の上にとまっている鳥ウクブ・カキシュ」は、マヤ神話にでてくる「前の時代にいた悪い鳥」で、人々はその鳥を滅ぼして、紀元前3114年に、新しい時代を造ります。

著者はその「鳥」は、恐竜であったと考えます。

プレアデス星団と人類の関係について述べたものはいろいろあると思いますが、どれも「はじめにプレアデスありき」、という感があります。

その中で、著者はできうる限り当時の人々の視点に立とうとしているところに、わたしは共感しました。

「人類とプレアデスと2012年」というテーマへの解答としては物足りないですが、まだ本の途中なので、続きがあります。


       *****


        (引用ここから)




悪い鳥ウクブ・カキシュは二人の息子を残す。

兄シパクナは「ワニの形をした巨人」であった。

兄弟は傲慢で、人々は計略を用いて彼らを峡谷の洞窟に閉じ込める。

兄弟はそのまま硬い岩になってしまう。


“巨大なワニ”のようなシパクナが洞窟の中で石になる、という話が作られた理由は簡単だ。

メキシコでは白亜紀の化石が大量にみつかる。

中には有名なTレックスの親戚であるアルバートサウルスもいる。

初期のマヤ人の少なくとも一部は、洞窟に住んでいた。

ユカタン半島の洞窟は、地下水脈の侵食によってできたものだ。

ユカタン半島では体毛のあるマンモスの化石が発見されている。


古代マヤ人がそれ以外の化石に出くわしていたとしても不思議はない。

中には白亜紀のものもあっただろう。

洞窟を作る鍾乳石が形成されていたのは白亜紀のことだからだ。


もしもマヤ人がアルバートサウルスの化石を発見したなら、保存の状態によっては、「これは巨大ではあるがワニの仲間だ」と正しく判断していただろう。

また奇妙なことに、“とかげのような怪物を罠にはめた”という話はマヤの神話だが、実際にメキシコは恐竜の大量絶滅において重要な役割を果たした土地だ。


現在では恐竜の絶滅を引き起こしたのは6500万年前にユカタン半島沿岸に落下した小惑星だった、と信じられている。

これは実際に一つの「時代」、「恐竜の時代」の終わりであり、新たな時代、すなわち「哺乳類の時代」の始まりだった。

恐竜の絶滅が、それほどの大昔であることを古典期のマヤ人が知っていたとは思えないが、実に驚くべきことに彼らは“ワニのような生物の終末”を一つの時代の終わりに当てはめたのである。


それだけではない。

このシパクナと、“歯のある鳥のような生物”とのつながりもまた、恐竜の記録から明らかだ。

現在の鳥には歯が無いが、白亜紀の飛行恐竜である化石がメキシコで発見されている。

このような空飛ぶ巨大生物についての直感的な記憶が、ウクブ・カキシュ「歯のある鳥のような生き物」の物語の元になったのではないだろうか?

マヤ神話の元となったのは生きた恐竜よりも、むしろ絶滅した恐竜の化石だったという方がありうる話に思える。



たぶんマヤ人が「現在の時代」の始まりとする「紀元前3114年」の時点では、恐竜はまだ完全には絶滅していなかったのだ。

そう考えれば、洋の東西を問わず、人々が「竜」に魅了される理由が明らかとなる。

「竜」は明らかに恐竜に似ており、そしてその一部は空を飛ぶのだ。


          (引用ここまで)


            *****


恐竜というと、相当古い生物のような気がしますが、メキシコにはかつて恐竜はたくさん生息しており、人類は太古の恐竜の記憶を保っている可能性があるのかもしれません。

とりわけユカタン半島というマヤの故郷は、巨大隕石の落下により恐竜が絶滅した場所であるとすると、たしかにそれは「一つの時代が終焉した」、という古い記憶として残存していてもおかしくはないと思われます。

アジアの竜も、所狭しと中空を飛びますが、人類と竜あるいは恐竜は共生していたのかもしれません。

人が鳥だった頃、、という比喩は、人が恐竜を見た頃、、という意味なのかもしれません。

そして、竜は空飛ぶ蛇でもあるのであり、人類はこのくねくねとした生物と深い因縁があるのだと思われます。



次に、「紀元8世紀のテオティワカンの滅亡に関する天文学的証拠が残っている」、と著者が語る「終了した鳥の時代」について、著者が述べていることをまとめてみます。



       *****

 
       (引用ここから)


マヤの絵文書の中で最も有名な「ドレスデン絵文書」には、仰向けになった巨大なワニの姿として天の川が記されている。

天の川は、その身体に惑星の象徴をちりばめ、一つ前の時代を滅ぼした洪水を吐き出している。

マヤ人はこのワニの開いたあごを、銀河の中心にある暗い裂け目と同一視した。

その位置では星星の光が、ちりによって弱められるのだ。


アステカ人は52年周期の終わりに、プレアデスの運行を観測していた。

11月初頭のある日に、すべての灯を消して山頂に集まり、夜中に天頂を見上げ、プレアデスの運行が止まるかどうか、見守る。

これを確認した後、彼らは人身御供を捧げ、灯を灯し、今後52年の生存を許された幸運を盛大に祝う。


ではテオティワカンとウクブ・カキシュおよび、ワニのようなその息子の退治の話にはなにか関係があるのだろうか?

この神話の後半では「400人の若者たちの魂はプレアデスに向かう」とされている。

この都が遺棄された時期とプレアデスの運行は密接につながっているということが分かった。



725年から800年頃、テオティワカンは遺棄されたとされている。

コンピューターによると、727年の11月20日、天空を見上げたテオティワカン人はプレアデスの小さな星のひとつが天頂を通過するのを見たはずだ。

そしてこのとき、銀河は南東から西北方向に天空に弧を描いていた。

西の地平線上には、ワニの口である黒い空間の先端があった。

つまり天空にはシパクナの神話が描き出されていたのである。

彼は口を開け、地下に降りようとしている。

その上には世界樹の柱があり、さらに上にはプレアデスの400人の少年たちがいる。

つまりこの“天空の劇場”は「ポポル・ヴフ」の話を完璧に描きだしているのだ。


プレアデスが正確に天頂を通過するという現象が、それ以前のテオティワカンでおこったことはない。

だがそれ以前からテオティワカン人にとってプレアデスは重要な星団だった。

なぜならこの都が築かれたとき、この都の最大の建造物である「太陽のピラミッド」はこの星団の没する方角に向けられたからだ。

太陽が最初に天頂を通過する日に太陽と同時に上昇するのではなく、プレアデス星団自体が天頂を通過するのは、彼らにとっては重要な予兆であり、たぶんこの都を焼く必要があったのだろう。

そして彼らは焼け残った都を捨ててどこかへ去ったのだ。



テオティワカンの人口は600年から700年ごろにピークである20万人に達し、マヤ人にも後のアステカ人にもきわめて重視された。

今日では、その主要な広場、ピラミッド、通りは紀元前100~紀元300年頃に築かれたとされている。

だがマヤの記録によれば、「この遺跡はそれよりも遥かに古い」と書かれている。


      (引用ここまで・つづく)


                *****






「ITMediaニュース」2010・03・05の記事を転載させていただきます。


「恐竜絶滅の原因は「ユカタン半島の地球外天体衝突」 国際グループが「論争に終止符」」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1003/05/news063.html



                ・・・・・


論争が続いていた恐竜絶滅の原因は「白亜期末に起きたユカタン半島での地球外天体衝突」だと国際グループが結論づけた。


 約6550万年前に恐竜が絶滅した原因は「メキシコ・ユカタン1 件半島で起きた地球外天体の衝突」と結論──東北大、千葉工業大の研究者ら世界12カ国・41人の専門家による研究結果が、3月5日に米科学誌「Science」電子版に掲載される。

白亜紀末に恐竜を含む大量の生物種が絶滅した原因をめぐってさまざまな説が唱えられてきたが、研究グループは「論争は決着を迎えた」と自信を見せている。

 白亜紀末に起きた大量絶滅の原因として、ノーベル物理学者のルイス・アルバレズらは1980年、「直径10キロの地球外天体の衝突が引き起こした環境変動が原因」とする説を提唱。

白亜紀と第三紀の境目の地層(K-T境界)から多量のイリジウムが見つかったのが論拠になった。

91年にはメキシコのユカタン半島に、直径180キロのクレーター「チチュルブクレーター」が発見された。

この「チチュルブ衝突」が恐竜絶滅の原因とする説は、日本でもテレビ番組が恐竜絶滅の原因として紹介したことなどでよく知られるようになった。

 一方、同時期にインドのデカン高原を形成した大規模な噴火(デカントラップ)が原因とする説や、複数の地球外天体なども唱えられ、論争になっていた。

 研究グループは、各国の地質学や古生物学、地球物理学、惑星科学などが学際的に集まり、世界中で報告された地質学的痕跡や衝突クレーターの物理特性、数値モデルの結果などを再検討した。

 その結果、「チチュルブ衝突による環境変動で大量絶滅が統一的に説明できることが明らかになった」という。

根拠として

(1)世界約350地点で報告された白亜紀末の地層にチチュルブ衝突起源の物質が含まれる、
(2)衝突と大量絶滅のタイミングは厳密に一致していることを確認、
(3)数値計算によれば、衝突で大気中に放出された粉塵や森林火災によるすすなどは、光合成生物の活動を長期間停止させうる──という。

食物連鎖のベースとなる光合成生物=植物プランクトンが死滅したことで、恐竜などの大型生物の食料がなくなり、絶滅したと結論した。

 一方、火山噴火は約100万年にわたったものの、環境に与えた変化は小さく、火山活動が最も活発だった時期には大量絶滅が起きていないことなどから、絶滅を説明できないとして退けた。

また複数の天体衝突説も、白亜紀末を含む1000万年間のイリジウム濃集度を調べた研究から、この間の巨大天体衝突はチチュルブのみだったと結論した。

               ・・・・・




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2012年(3)・・鳥の時代の終了

2011-07-24 | マヤ・アステカ・オルメカ
エイドリアン・ギルバート著「古代マヤ文明の暗号・2012」を読んでみました。

大変興味深いので、抜粋してご紹介させていただきたいと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


著者は「蛇」や「鳥」や「星座」などを通して、マヤ文明の根幹に迫ろうと努力をしているのが分かります。

本書の中では、とても多くの文献が比較され、検討されています。

古代マヤ文明ではなにが行われていたのか?
どのようなことが重要問題として扱われていたのか?

という問いについて、筆者は以下のことを大切にしています。


古代マヤ文明では、独自の暦が大切にされたこと。

それは3つの文明を通過し、今は「第4の世界」にあること。

2012年という時がポイントとなる暦は、紀元前3114年を出発点として現在の世界「第4の世界」が始まるという神話の上に成立していること。

その上で、その神話はどのようにして出来たのか、ということを調べています。




        *****


         (引用ここから)


アステカ人と同様、マヤ人もまた、現在の太陽の前には他の太陽があったと考えていた。

その各時代はそれぞれ異なる神々が支配し、地上には別の種類の人間が住んでいたのだ。

そして各時代はそれぞれ少数の生き残りを除いて、なんらかの災いによって滅亡したのである。



「4方位」の世界観は、中央アメリカ全体に普遍的に見られるものだった。

おなじ観念はアステカの宗教の中心でもあり、マヤの伝承では4方位は特定の色と関係していた。


東は赤、北は白、南は黄、西は黒であり、4方位と関連する4本の樹があり、第5の樹がその中心にあるという。

エリック・トムソン著「マヤ文明の盛衰」には記されている。


                ・・・・・

赤き石は赤き「天を支えるもの」の石である。

竜の怪物の赤きカポックは彼の樹であり、東に置かれる。

赤きトウモロコシは彼らのトウモロコシ。

(略)

それぞれの方向に各色の神、植物、動物が関連付けられる。

                ・・・・・



アステカの建国神話は、「蛇をつかむ鷲」のビジョンと関係している。

「絵文書」の表紙にも樹の天辺に鷲がとまっており、その土台である岩を蛇が登っている。

「絵文書」を詳しく調べると、アステカの樹はマヤにとっての「生命の樹」と同じものだと分かる。

「生命の樹」の周囲には4つの領域に分割された四角がある。

イサパの遺跡にも同じものが描かれているが、イサパはマヤ以前の都で、その近辺からは最古の長期日計暦が発見されている。

 
           (引用ここまで)


               *****



著者はここで、マヤ、アステカ、マヤ以前の遺跡、などに共通する「4分割された世界」と、その中心に位置する「鳥」のモチーフについて考えています。

そして、有名なパレンケのパカル王の棺のふたに描かれた、複雑な象徴に満ちたレリーフの分析の歴史を点検しています。

そして著者独自の仮説を提出しています。

     
           *****


        (引用ここから)


以上のような考えを元に、書き直してみた。

「生命の樹」をまっすぐ成立した状態に戻し、ワシ座が天頂を通過する際に「天の川」を支えられるようにしたのだ。


この仮説を検証するため、マヤ人の信じる現在の時代の始まりの年(=紀元前3114年)に、ワシ座はいつどこで天頂を通過したのかを調べてみた。


「ポポル・ヴフ」によれば、現在の時代が始まったとき、人々は「トゥルン」=「7つの洞窟もしくは峡谷」という場所の暗闇に集まった、という。

この「トゥルン」の位置については過去においては大いに論争されたが、少なくとも古典期においては、それはテオティワカンであるという共通認識がメソアメリカ全域にあったと思われる。

そこはアメリカ最大の都市であり、その最大のピラミッドの下には7つの洞窟のネットワークが隠されていた。

文字通り「メソアメリカのエルサレム」と呼べるほどに津々浦々から巡礼者を集めていたのだ。


この「トゥルン」はテオティワカンであったという仮説に基づいて、わたしは紀元前3114年の星の様子をコンピューターで再現してみた。

すると8月13日、すなわち現在の周期の開始日において、ワシ座の傷ついた翼の先端は、日没直後に天頂を通過した。


以上を総合すると「第3の太陽」の時代=我々の時代の一つ前の時代は、テオティワカン上空でワシ座が天頂を通過していた時期にあたっているらしい。


不思議なことに「第4の太陽」の時代の末期の人間ですら、テオティワカンの重要性を憶えている。

のみならずマヤとアステカの神話のいずれもが、その時代の開始を「鳥神」と結び付けているのだ。


           (引用ここまで・つづく)

    
           *****


4という数、4つの方角、東西南北、それに付随する色、赤・白・黄・黒。 生命の樹、樹上の鳥。

これらのシンプルなモチーフから、著者は紀元前3114年から紀元後2012年にわたる「第4の世界」を導き出しました。

著者は、紀元前3114年に、天空では「鷲座」が「天頂を通過」したことを調査しました。

「ワシ=鳥」の天頂通過は、「鳥の時代」の終了を意味したのだと、彼は考えます。

紀元前3114年以前の歴史を、著者は考えているからです。

紀元8世紀のテオティワカンの滅亡に関する天文学的証拠が残っている、と著者が語る「終了した鳥の時代」については、次の記事にします。



過去の時間をみつめている中央アメリカの文化における「4という数」、「4方向」の重要性について考えると、以前当ブログに紹介させていただいたフランク・ウォーターズ著「ホピ・宇宙からの聖書」の中の“ホピ族の4方向への移動”の、たいへん不思議な記述が思い出されます。

これらは関連していると、わたしは思います。

また、アステカ文明では現在は「第5の世界」ですが、その暦石は4分割されており、著者は「4」を重視して話を進めています。


以下、2008年12月24日の当ブログ記事を再掲してみます。

「なぜホピは壮麗な集落を捨てて旅を続けたのだろうか?」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/s/%A5%C1%A5%E3%A5%B3%A1%A6%A5%AD%A5%E3%A5%CB%A5%AA%A5%F3


          *****


30人の長老たちが語った「ホピ・宇宙からの聖書」によると、「第4の世界」にやってきた人々は、彼らの神の指示の下、幾何学模様を描きつつ、北アメリカ大陸の大移動を始めました。

以下に抜粋を載せてみます。


          ・・・・・


かくして、人々は高い山を登って移民を開始した。(略)

星は北へ北へと彼らを導き、ついに雪と氷に閉ざされた土地に辿り着いた。

夜間、彼らは雪の中に穴を掘って住居とし、熱の力を呼び起こして体を温めた。

水用にはいつも持ち歩いていた水瓶を使った。

これを埋めると、かつて砂漠を歩いたときと同じようにやはり泉は噴き出た。

また、小さな土の器もあった。

この中にトウモロコシとメロンの種をまき、そこに歌いかけると、みるみる種は草に育ち、トウモロコシとメロンを実らせた。

この新しい「第4の世界」の上で、まだ彼らは原始の純粋さを保っていたため、このような力が出せたのである。

(略)

西に向かった人々は、東と西の境となっている山脈を横切った。

これは大陸の軸であり、地軸の端にいる双児神はこれに沿って振動を送り出す。

人々は今やカトヤの守護の下に入り、西の海辺に出る。

そこからまた東にターンし、山脈を横切った。

ある乾燥した高原の上空で、「導きの星」が大きな円を描き始めると、彼らは移動のペースを落とし始め、ニューメキシコ北西部のチャコ・キャニオンで停止した。


     ・・・・・


彼らは小さな部族ごとに分かれて、それぞれが東西南北の「卍」を描く移動を実行しました。

ある部族が立ち止まったというこの場所は、メキシコ北部の古代文明の中で最も優れた遺物を残しているといわれる所です。

何百という遺跡が残され、五階建ての800以上もの部屋があり1200人ほど収容できるマンションのような建物も残されているということです。

しかしこういった幾多の住みかをあとにして、彼らは北また南と何百年もアメリカ大陸上を移動し続けたのでした。

著者は問いかけています。


     ・・・・・


「ホピ族は12世紀初めに今の故郷に辿り着き、のちに周辺のプエブロを捨てた部族が次々と入植してきたと考えられる。

マヤ・トルテカ・アステカの壮麗なるピラミッド神殿複合体、カサ・グランデやチャコ・キャニオンの大建造物など、幾世紀もの感動を呼び起こす前例があった。

ホピが最終的に永住の地に辿りついたとき、どうしてかつてのような大都市を築かなかったのだろう?

それどころか彼らは、当初からこれら離れ離れのメサの上に小村落の集まりしか作らなかったのだ。

なぜホピ族は、かつてのような一大宗教・文化センターを築かなかったのだろうか?」


    ・・・・・


著者は次のように考えます。


    ・・・・・


「仮に気候がもっと恵まれていたとしても、彼らは諸部族とかつての文化のパターンを再統一することはなかっただろう。

彼らはきわめて宗教色の強い、平和を確信している民族であり、どのような世俗的支配にも反感を起こしたからである。(略)

ある部族の地位とその所有地の相対的な価値は、「4方向への移動」をどの程度成功させたか、またどのような儀式を所有しているかといった宗教的な基盤にかかっている。

ホピが理想としている前提は、宇宙の中心である永遠の故郷で結束し、創造の普遍的な形を固めることにある。

ホピは世俗的な生き方が、宗教的なそれ~創造の普遍的計画~の上に構築されなければならないという信仰に決してつまづくことはなかった。」

    ・・・・・



つまり、マヤ・アステカ族と血を分けるホピの人々は、神殿やピラミッドや大きな住宅といったものを作ろうと思えばできたのですが、作ることを放棄したのです。

文明社会から見れば、逆行しているように見えるこの動きこそが、ホピをホピたらしめているもののように思います。

       ・・・・・

          *****


中央アメリカの人々にとっては、十字の形は、死せるキリストではなく、生きている神の元型なのだと思います。
そしておそらくそれは、中央アメリカに限ったことではない、と著者は言いたいのだと思います。



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2012年(2)・・プレアデスが天頂を通る時

2011-07-20 | マヤ・アステカ・オルメカ
エイドリアン・ギルバート著「古代マヤ文明の暗号・2012」を読んでみました。

大変興味深いので、ご紹介させていただきたいと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


        *****

           (引用ここから)


「太陽のピラミッド」はテオティワカン遺跡全体の中でも最も重要なものであることは間違いない。

「太陽のピラミッド」は洞窟構造の上に位置している。

おそらくピラミッドの建設のはるか以前から聖地とされていたのだろう。


その上に都が花開いていた頃には、何らかの祭儀目的で用いられていたことは間違いない。

このことは洞窟内から発見された奉納物から確認されている。


ピラミッドの下の封印された洞窟の中から、黒曜石の鏡の破片が数多く発見されているが、これはもしかしたら秘教的宗教とのつながりを示すのかもしれない。

現代の考古学者や歴史学者の多くは「太陽のピラミッド」の下の洞窟構造はケツァルコアトルの神話と密接に関連していたと考えている。

ケツァルコアトルは現行の太陽を空に運動させるために我とわが身を捧げたが、それがまさにその場所だったというのだ。


一方、「太陽のピラミッド」の方向には、天文学的な目的があったと思われる。

だからこそアステカ人はこの建造物を「太陽のピラミッド」と呼んだのである。

とは言うものの、元来の建造者たちがこれを何と呼んだのかはまったく不明だ。


このピラミッドから「死者の道」の方向に直角に向かうと、特定の日の日没の地点を示す方角となる。


それが建造された起源300年頃には、この日、太陽は「おうし座」に位置し、「プレアデス星団」の真下にあった。

「プレアデス星団」は、サアグンらの資料によれば、52年ごとに行われるアステカの祭儀において重要な役割を果たしていた。

52年という周期のこの祭儀は、常に11月のプレアデス星団が真夜中に天の子午線と交わる日に行われていた。



「バチカン・ラテン絵文書」によれば、4つの時代は次の通りである。


         ・・・

「最初の太陽の時代」は4008年の間続き、当時生きていたのはトウモロコシを食う巨人だった。

この時代の終わりに、太陽は洪水によって破壊された。

幸いなことに、一部の者が魚になって洪水を生き延びた。

生き延びたのは一組の夫婦だけだという話もあれば、また7組の夫婦で、洞窟に隠れ住んだという話もある。

そのあと彼らは再び地上に人間を増やした。

この時代は水の神の妻に支配されていた。


「第二の太陽の時の長さ」は4001年だった。

その期間、人々は野生の実を食べていた。

この太陽は風の神によって破壊された。

一部の者はサルとなり、木にしがみついて生き延びた。

その破局は「一犬の年」に始まった。

岩に乗っていた一人の男と一人の女が破局から救われた。

この時代は黄金時代であり、風の神が支配していた。


「第3の太陽の時代」の長さは4081年である。

当時の人間は第2の太陽を生き延びた夫婦の子孫である。


この世界は火によって滅ぼされた。

この時代は「赤頭」と呼ばれ、火の神が支配していた。


「第4の太陽」は、5026年前に始まった。

この時代は「黒神」と呼ばれ、この時代に「トゥーラ」が建てられた。

血と火の雨の後、人々は餓死した。


      ・・・


この話は「諸太陽の伝説」とはまったく異なるが、おそらくより正統的なものだ。


これらの話から明らかなのは、アステカ人の考える周期は、四季や4方位などのパターンを踏襲するものだったということだ。

「アステカの暦石」に示されるすべての時代の循環は、一日の始まりから終わりまでの循環を長い期間にあてはめたものと言える。

とは言えアステカ人は中央アメリカに住む多くの部族のたった一つにすぎず、「時代の周期」に関する彼らの知識は限定的なものであったと思われる。


真に「時代」を知っていたのはマヤ人である。

彼らはアステカ人と異なり、音節文字を用いて書くことが出来た。

その結果、彼らの文化が絶頂に達したのはアステカ人の到来よりも何世紀も前だったにも関わらず、かつての中央アメリカ全域で共有されていた信仰に関して、遥かに多くの情報を残してくれているのである。


           (引用ここまで)


               *****


「プレアデス星団が真夜中に天の子午線を通るのを見る」52年に一度の行事というものが気になりました。

ホピ族も、「プレアデス星団が天頂を通るのを見届ける」儀式を行っていた、という記述を思い出したからです。



2009年10月15日の当ブログのホピ族の祭り「ウウチム祭」の紹介記事を再掲します。

「生命の一本道を通って第4の世界に現れる・・ホピの祭ウウチム祭(その3)」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/d1e4a6f1b6832573a654a5bed3df309c


           *****


フランク・ウォーターズ著「ホピ・宇宙からの聖書(Book of the Hopi)から、ホピの祭り「ウウチム祭」を紹介しています。
前回の続きで、抜粋し引用します。


      ・・・・・


       (引用ここから)


「髪洗いの夜」はウウチムの中心的儀式である。

ホピの子供たちは思春期に入る前にカチナかポワムいずれかの宗団に参入させられる。

ウウチムの入団者はより高度な段階の霊的訓練に導き入れられる。

また彼らは、創造の夜が明ける時にこの新世界に現れた、最初の人類をも象徴している。

このためどんな人間の弱さにも負けない者とみなされ、この世の悪とは無縁でいなければならない。

「道の封鎖」によって、村があらゆる人間から閉ざされ、村の東半分が空になり、入団者たちが祭司と有益な霊人たち以外、誰とも接することが出来なくなるのはこのためである。


このような秘密と厳粛さのうちに、彼らは教父たちに連れられてハウィオビ・キバに導かれる。

入団者はキバの東端にある高い床に座り、西の低い床には祭司たちが座る。

ハウィオビとは「一本道」の意味。

キバそのものはかつての地底世界を象徴し、彼らは今そこより地上に現れようとしているのだ。

入口はただ一つ。
はしごでつながっている屋根の入り口のみである。

儀式が終了し、彼らが創造の純粋な形を定めてしまうまでは、外に出ることは許されない。


その間、他のキバで準備が整えられている。

浅井戸族の一員が持った棒を、各キバの一員は一つづつ抜き取る。

黄、青、黒色の棒を抜いた者はそれぞれ、星星、霊、他世界の住人を象徴することになる。

また、一本のみの赤い棒を抜いたものは地底世界の神マサウを代表する。

こうしてそれぞれの役目に応じた衣装に身をくるみ、人々はキバに向かう。


さて、真夜中近くになる。

キバは、炉穴からおこる火の薄明かりの他は、暗がりの中にある。

この薄明りの中で、上の段に集まった入団者たちは、一人の祭司が祭壇面の床に開いた小さな穴・・シパプニと呼び、出現の場所を象徴している・・から栓を抜くのを見る。


さて、「オリオン」の三つ星を後ろに従え、7世界を象徴する「プレアデス」の7つ星が、上のはしご穴をとおして目に入るってくると、祭司は7世界をとおして「生命の道」を踏みしめる人類の旅について、彼らに語り始める。


「第一の世界」は目の前にある炉穴の火が象徴する火の元素で始まったが、人間存在の純粋な形は、悪によって汚されてしまった。

世界は滅亡し、人類は「2の世界」に出現した。

ここでも同じことが起こった。

「第3の世界」に起こったことを聞くと、入団者たちは
自分たちが今の「第4の世界」に肉体を持ちながらも、象徴的には未だ、「第3の世界」の住人であることを理解させられる。

入団式を受ける理由はそこにある。

それは、目の前にあるシパプニを通してキバに象徴される第3の世界から、さらにもう一つのシパプニであるはしごを昇り、外の「第4の世界」へ出現することを定めているのだ。

         (引用ここまで)


        *****


おそらくホピ族はマヤ・アステカ・オルメカ族と血を分けた同族なのでしょう。


テオティワカンが建造されたのが紀元300年ごろであるとすると、最短でもその時代に戻りたいというのが、中央アメリカの人々の根源的な感覚なのだと思います。

日本で言えば、弥生時代から古墳時代頃でしょうか?

その頃の世界が、神々と人々が共存し得た最後の真実の世界であったと考えられている(いた)、ということになります。

そして日本で言えば、平城京や平安京や鎌倉の都を作りながらも、それらは弥生時代の墳墓に勝るものではなく、むしろ堕落した、劣った姿であると考えたということになります。

これはやはり、なんとも不思議な感覚に思われます。

古墳時代から律令時代、平城京から平安京、鎌倉の都、と時がたつにつれて悪い時代になってしまった、、と感じた日本人はいたとしても、本当に古代に戻ろうとした日本人はどれだけいたでしょうか?

ですから、メソアメリカの人々の胸には、強力な磁石のようなものが埋め込まれていて、たとえば北に向かって一斉に毎年飛び立つ渡り鳥のように、何らかの確固たる帰巣本能のような感覚が働いている(いた)のだと思います。

その磁石のようなものがどこを指しているのか、またなぜ埋め込まれているのか?

いろいろな多くのことを忘れてしまった現代のわたしたちには、思い出すことが非常に困難な問題なのだと思います。






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2012年(1)・・時を数えているのは誰なのか?

2011-07-16 | マヤ・アステカ・オルメカ
エイドリアン・ギルバートの「古代マヤ文明の暗号・2012」という本を読んでみました。


2012年は来年ですから、わたしたちも忙しいことですが、どうなるのか?という気持ちは、やはりあります。

似たような本がいくつもあり、数冊読んでみました。

どれも面白そうなのですが、読み終わると何が書いてあったのかひとつも思い出せないところは似ているように思いました。


この本もその、よく思い出せない本の一冊なのですが、今まで調べてきた、マヤ文明の大元はどこにあるか、オルメカ文明との関係はどうなっているのか、といったことを観点として、自分なりに咀嚼したことをまとめてみました。


まとめてみて分かったことは、これはまだまだたくさん勉強するべきことがある、ということです。

おそらく2012年が通過しても、延々と考え続けているであろうことが予想されます。

しかし、できうる限りの努力はしてみたいというのが今のところの考えです。

以下、抜粋して少々ご紹介してみたいと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。




*****


         (引用ここから)


マヤ文明の都市は特定の感じ、雰囲気をかもし出している。

その雰囲気は巨大な謎の存在を暗示している。

初期のスペイン人たちが出会ったのは、なにか高次のものの退廃した残滓にすぎないのではないか?

はじめてのメキシコ旅行で私が興味を引かれたのはその「何か」であり、以来それがずっと頭を離れなかった。



アステカ人はスペイン人の到来のはるか以前からテオティワカンの遺跡を神聖視していた。

彼らの神話の中で、この都は重要な役割を果たしている。

神話では「第5の太陽の時代」、すなわち「現在の時代」の創造の次第が語られる。

神話によれば、前の時代の終わりにその破局を生き延びた者たちはテオティワカンに集結していたという。

神々はこの生き残りから新たな人種を作ったのだ。

その時、大地は闇に閉ざされていた。

太陽が無かったからだ。

そこで彼らは、新たな太陽となって世を照らし、新たな夜明けをもたらす者を求めた。


二人の神が名乗りをあげ、競い合った。

二人の神は自らをいけにえとして捧げ、太陽と月となり、天に昇った。

この両者を核として作られたテオティワカンの都は、やがて南北アメリカをつうじて最大の都市となる。

この都は西暦750年頃に廃棄されるが、その遺跡ははるか後のアステカ人に崇敬された。

年に一度彼らはそこに集まって自ら血のいけにえを捧げ、かつての神々の自己犠牲の栄誉を讃えたのだ。


アステカ人は、おそらくはるかに古い記憶の反映だろうが、テオティワカンの中央を通る大通りを「死者の道」と呼び、“地上における天の川”と考えていた。

彼らは“天の川”もまた「死者の道」と呼んでいた。

もしそうなら、その道の途上にある個々の神殿やピラミッドは抽象的な形で星を象徴しているのではないか?


    (引用ここまで・つづく)

                 *****


同じ話を何回も、と思われるかもしれませんが、やはり伝承されてきた神話や「絵文書」は最良の資料だと思います。

マヤ文明の神秘とは、密林の中にあらわれる古色蒼然たるピラミッド、驚異的な天文学と野蛮な人身御供といったコントラスト自体が、すでに答えになっているのかもしれないと思うこの頃です。

このコントラスト自体が、ヨーロッパ人の文明観からきているのだと思います。

しかし、筆者はそれは当然のことだと考えています。

なぜならば、マヤ文明はヨーロッパに伝わっているエジプトやギリシャの文明の源泉と重なり合っていると考えているからです。

それで、読み終わる頃には、話がぐるっと元に戻って、なにが語られていたのか分からなくなる部分があるのだと思いますが、言いたいことは分かるように思うのです。

筆者が言いたいことは、かなり大胆で、胸のすくようなお話です。。


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身の丈にあった世界と、身の程を知った生活を作れるか?・・「熱い社会」と「冷たい社会」(3)

2011-07-11 | ホピの予言と文明の危機
“原発後”“脱原発”の世界は、どのようにしたら作れるのだろうか、と思い、「レヴィ・ストロースとの対話」を読んでみました。

1970年に日本語訳が出版された古い本です。続きです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


引用文の中で、二人の対話は、近代社会に生きる人間の無力感について言及しています。

今のわたしたちの社会は、生きるにはあまりにも大きすぎる、という感覚が、人々に無力を感じさせている。

共同体としての作用は一方通行で、わたしたちは自分たちが何を感じているのかすら分からなくされている。

ちょうど原子エネルギーについて言及していますが、原子エネルギーなどという巨大すぎるものを、巨大すぎる社会が扱っていることに、わたしたちは感性的についていくことができない。

認識したり、判断することができなくなっている、と語られています。


1960年代、世界中で反体制運動の潮流が始動し始めた頃、“反原発”は反体制側の常識であったと言えると思います。

質問者の「人類愛的なものではなく、経済原理が作用しているのだ」という見解はレヴィ・ストロースの思考に配慮し、左翼的思想が席巻していた当時の常識的な考えを述べたものであると言えると思います。

それでも、なぜ環境破壊がおきるのか、なぜ戦争はなくならないのか、という問いに対して、社会が大きすぎるからだ、という答えは、当時としても斬新だったのではないかと思います。

「未開社会」と「近代社会」の違いとして、その構成の大きさの違いをまず挙げるのは、今でもなるほど、という感じがします。





       *****


           (引用ここから)



問  すると、「進歩」とはまったく認識の発達の係数なのではありませんか?

したがって、認識によって全面的に決定されているのではありませんか?

知識と認識方法のうちに内的決定論があって、そのために我々はなにもできなくなっているのではありませんか?
 


レヴィ・ストロース  まさにそうであるようです。

もし私たちがある“進歩”に対して、賛成か反対かをおおっぴらに表明することを求められたなら、、
そして現在では原子エネルギーの開発とともにこの問題が提起されるのですが、、

多数の人間が、「いやそんなものは持たぬほうがよい、今のままの状態でいるほうがよい。」と答えることが、少なくとも考えられるからです。

自動車をもつという事実は、私には本質的な利益とは思えません。

他の多くの人々が自動車を持つような社会では、それは欠かすことのできぬ自己防衛ですが、しかしもし私が選ぶことができるなら、そしてわたしの同時代人も同様にことごとくそれを放棄してくれるなら、どんなにかほっとして、私は自分の車をお払い箱にすることでしょう。



問   わたしは人々が習慣的に人類愛的立場と考えているすべての立場のことを考えます。

そんな立場は常に空しく、つねに全く無用なのです。

人間愛が前もって要求していたところの一つの立場を勝ち取ることを可能ならしめるものは、つねに経済的進歩または技術的進歩なのであって、人類愛的立場はけっしてそれ自身ではそれを勝ち取ることはできないでしょう。

人々が必要とするこれこれの財物を自由に入手することを可能ならしめるものは、これこれの場所に設けられる“市場”なのです。

しかし“市場”を設置するという条件が実現されぬかぎり、人々は人権の名においてその財物を要求することは出来ますが、けっしてそれの恩沢に浴することはありますまい。



レヴィ・ストロース  自分自身を前にした人間のこの種の無力は、きわめて大きな度合いで、現代社会の膨大な人口の多さに起因しているとはお考えになりませんか?

小さな社会、小さな集団が自分たちの条件を熟考し、それを修正するため、意識的な、考え抜かれた決断をすることは想像がつきます。

わたしたちをとらえているこの無力さは、わたしたちがその中で生き抜いている、とほうもなく巨大な人間の集塊のせいだと思えるのです。

なぜかといえば、私たちはもはや一つの国民的な文明の体制下にさえ留まることなく、次第次第に一つの世界的文明、または亜世界的文明を実現する傾向にありますからね。

そしてこの、文明を制御しがたいものにするものは、この新しい大きさの秩序であり、人間社会の諸次元のなかでの階層の変動なのです。



(芸術の話題になり、芸術の個性といったことをめぐって)




問  「集団的」と「個人的」という二つの語は、社会学的文脈の中では何を表すのでしょうか?

二つの間には、どんな関係が存在するのでしょうか?


レヴィ・ストロース  我々にはきわめて明瞭なものと見える「個人的」と「集団的」との区別が、未開社会の美的生産の条件の中ではわずかしか有効な範囲をもたないのです。

ひとりの個人が肉体的あるいは精神的ななんらかの危機的状況に立ったとき、そしてその状況から脱したいとき、彼は絵師でもあるところの呪術師に頼み込んで、かならずしも直接に表現的な性格をもつわけではない大きなモティーフによって、自分の家の壁面を飾ってもらいます。

だから呪術師はただ単に癒し手としての神聖な能力の持ち主として知られているだけでなく、絵師として名の通った才能の人なのです。

彼は依頼人の家に、仕事をすべき日の前夜に行きます。

そしてたいへん気前のよい報酬をもらい、依頼人の家の客となって、夢を見るべく一夜を過ごします。

その夜の夢の挿話や詳細をこまごまと、その家の壁面に再現してみせるのです。


一方、そうは言うものの、彼が製作する作品は彼の最も深い個人的な無意識の結果ではなく、きわめて厳格な規範に忠実なのです。

外側からそれを眺めるよそ者のアマチュアにとっては、それらはみな同一作者の手になったもののように見えるでしょう。

しかし、その画が50年古かろうと新しかろうと、あるいはもっと年代に差があろうとも、いずれも大同小異なのです。

そういうわけで、ここでは、一方には芸術的生産の最も個人的な条件と、他方にはもっとも社会学的な、集団的な条件とが、ほとんど解きほぐせないような具合に交じり合っています。

この二つの相は解きほぐせないほど結びついていて、あたかも、自発的な定型的なやり方で、芸術作品を生み出すために精神の無意識の活動にたよるとき・・

というのはそもそも夢なんですからね・・その画家たちは実際、「個人的」と「集団的」との区別がなくなってしまうような境地に達するかのようです。

いわゆる未開社会は、美的創造の中の無意識的活動の役割を、より多くの客観性をもって認識しており、精神のこの暗い生命を驚くべき洞察をもって取り扱っています。

というわけで、これがわれわれの社会と未開社会との第一の相違点なのですよ。


        (引用ここまで)


            *****




上の写真はホピ族の岩絵「ロードプラン」(「ホピ・神との契約」より)です。

上の道を行く、白人的な生活をする者たちは破滅し、下の道を行く、ホピ族本来の生活態度を貫く者たちは生き残るという、説明的な図です。


この図についてはもう幾度となく取り上げていますが、このような図は未開社会本来の思考形態から産まれたものとは言えないと、わたしは常々思ってきました。

時間を直線的に表わすことも近代西洋的だし、その時間が左から右に進むのもまるで定規のようで、おかしい。



「未開社会」の歴史観について、同書が述べているところを引用しておきます。
 


             *****


           (引用ここから)


レヴィ・ストロース   「歴史なき」社会と「歴史的 」社会とを区別してはなりますまい。

実際にはあらゆる人間社会は歴史を持ち、その歴史はそれぞれの種の起源にまでさかのぼるのですから、同じだけ長いわけです。

しかしいわゆる「未開社会」が、歴史の液体に浸っていて、その水を自分の中に浸透させないようにしているのに反し、我々の社会は、歴史を自分の発展の原動力とするために、いわば歴史を内部に取り込んでいるのです。



           (引用ここまで)


            *****



レヴィ・ストロースの述べている歴史観の分類から言えば、ホピ族のこの有名な岩絵「ロードプラン」は“歴史を内部に取り込んでいる”近代社会の思考方法そのものであると言えるでしょう。

すなわち、この説明的な図の解釈は、説明的であるがゆえに、彼ら本来のものではないでしょう。

反文明思想のひとつの目印として、分かりやすい図ではあるけれど、彼ら本来のメッセージではないでしょう。

彼らが本当に言いたかったことは、何なのでしょう。。



それはさておき、私たちは私たちの問いを解かなければならないのだと思います。


現代文明は、持続しないようにできている。。

それならば、持続可能な社会、を創らなければ、世界は持続しないと思われます。

文明の構成員に、持続しよう、生きようという意思があれば、良い選択をし、良い修正をし、より良い社会をつくることはできるに違いないのだと思います。。

大きすぎない社会、機能するコミュニティ、持続可能なエネルギー、搾取ではなく、与え合うことが原理となる社会。。

社会の構成員の一人ひとりに、社会をいかに築いていくか考える責任があるのだろうと思います。





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「原発」を捨てて、旅に出よう・・「熱い社会」と「冷たい社会」(2)

2011-07-08 | ホピの予言と文明の危機

「原発後の世界」「脱原発の世界」はどのようにしたら構築できるのだろう?と考えようと思うと、やはり透徹した眼力のあるレヴィ・ストロースを読んでみたくなりました。続きです。


「レヴィ・ストロースとの対話」という1970年に日本語版がでた、古い本です。

「冷たい社会」と「熱い社会」という概念を用いて、現代社会についてのインタヴューに答えています。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


近代社会が「熱い社会」であるとすると、よく言う、「持続可能な社会」は、その「熱が高温にならない社会」であろうと思いますが、レヴィ・ストロースは「持続可能な社会は実現する」と安易には発言しない立場を取っています。

そう考えられる論拠がはっきりないからでしょう。

個人的には、引用文の中の、以下の部分が要になると思っています。

これはインタビュー番組で、彼が民族学者として、普段なら自分が属する社会について提言するような言葉は使わないのですが、四苦八苦して答えているのが、面白いところです。




            ・・・

レヴィ・ストロース   われわれの社会については、進歩と最大の社会正義の実現は、社会のエントロピーを文化に移すことにあるはずだ、と考えることができましょう。



未来の正しい社会と、民族学者の研究する社会の間には、一つの差異、ほとんど対立と言えるくらいの差異が存在しつづけるでしょう。


それらの社会は、いずれも「歴史的ゼロ度」にきわめて近い温度で活動するでしょう。

しかし、一方は社会の平面において、他方は文化の平面においてそうなのです。

           ・・・


            ↓


                *****


         (引用ここから)


レヴィ・ストロース  たとえば社会的あつれき、政治闘争など、すべての未開社会がたぶん私たちが考える以上に意識的で組織的なやり方で避けている混乱を、私たちは生み出しているのです。

そこで、文明の大きな問題は格差を保つということでした。

植民地主義とか、帝国主義政策とかがそれですが、それはとりもなおさず、社会そのものの内部において、または被征服民の社会において、たえず支配層と被支配層との間の格差を実現しようとすることなのです。

しかしこの格差は、不動性に向かおうとする蒸気機関の場合と同じく、常に一時的なものです。

というのは、冷たいエネルギー源は熱くなるし、熱いエネルギー源は温度が低くなるというわけですから。


差別をつくる隔差は、したがって、平らにならされる傾向にあり、その都度新しい差別をつくる隔差をつくる必要があります。




 問  それは避けがたいものですか?、逆転できぬものですか?


レヴィ・ストロース   われわれの社会については、進歩と最大の社会正義の実現は、社会のエントロピーを文化に移すことにあるはずだ、と考えることができましょう。

私はサン・シモンにならって、「現代の問題は「人間支配」から「事物の統治」へ移行することにある」と繰り返しているにすぎません。

「人間支配」とは、(近代)社会であり、増大するエントロピーです。

事物の統治とは“文化”であり、つねにより豊かで複雑な“秩序”の創造です。

とは言え、未来の正しい社会と、民族学者の研究する社会の間には、一つの差異、ほとんど対立と言えるくらいの差異が存在しつづけるでしょう。


それらの社会は、いずれも「歴史的ゼロ度」にきわめて近い温度で活動するでしょう。

しかし、一方は社会の平面において、他方は文化の平面においてそうなのです。

これこそ私たちが、産業的文明は人間性を失わせるものだ、と言う時、あいまいに表現あるいは認識しているところの事実なのです。




 問  我々の社会においては、未開社会では考えられぬような型の格差があらわれているのではないでしょうか?


レヴィ・ストロース  未開社会では、住民の全員が、われわれの社会の場合よりはるかに充実した全面的なやり方で、集団の文化に参与していることはたしかです。

未開社会と呼ばれる社会の生活の中では、大掛かりな宗教儀礼とか、祝祭、舞踏などの形で、文化への集団参加が行われ、しかもそれが生活の中で相当重要な位置を占めています。

生産に充てられる活動と同じくらい、時にはそれ以上に重大なくらいです。

ところで賢者、祭司、司式者は、集団全体のものである一つの生活様式、一つの行動の型、宇宙を理解する一つの仕方の、化身であり範例であるのです。

他の場合、たとえばアフリカ人社会や他の牧畜民型の社会における鍛冶師のカーストを考えると、鍛冶師は動物や植物とはかかわりなしに、大地の中の鉱物とそして火と関わりをもっています。

彼らは集団の秩序とは別の秩序からもたらされる知識と技術の所有者です。

その結果、人々は彼らに、同時に尊敬と恐怖、讃嘆と敵意とがもたらした特別の地位をあてがうのですが、その立場はちょうど我々の現代社会の中のある専門家のおかれる立場と類似している、またはその傾向にあるように見えます。




問 (現代の)人々は彼ら専門家を抹殺してしまいたいのですか?それとも彼らの存在と必要性とを完全に認めているのですか?

レヴィ・ストロース  いや、すこぶるあいまいな感情を抱いているのでしょう。

最近アメリカで男女の青年に対して行われた「科学者」について青年たちが抱いているイメージをはっきりさせようという目的のアンケートがありました。

むろん現代では科学者といえば、原子物理学者です。

ところでそのイメージと、それに対応する態度とは、一種の恐怖と嫌悪とを、ほとんど神秘的、宗教的な讃嘆に結び付けたようなっものなのです。

ここにはわれわれの観察した未開社会の人々の鍛冶師階級に対する態度と大変近い態度が認められます。




 問  われわれにとって意味がありそうに見える“進歩”、つまるところわれわれがそれに意味を与えているところの“進歩”は、あなたの研究しておられる社会の内部では、意味をもたないわけですね?

レヴィ・ストロース その通りです。



問  “進歩”なんてなんの意味もないのでしょう?

レヴィ・ストロース  たしかに意味が無いのです。

それらの社会はいずれもその本質的目的、その究極的目標は、その存在の中に、祖先が創設したものをそのまま、しかも祖先がそのようにしたというだけの理由で、執拗に継続することにある、と考えています。

「祖先がそうした」、という以外の裏づけは要らないのです。

私たちがある情報を提供してくれる未開人に、ある習慣ないし制度の理由を尋ねる時、「わしらはいつもこのやり方でやってきた」、これが例外なしに必ず聞かされる答えなのです。
その習俗は、“それが存在する”という以外にそれを裏付ける理由が無いのです。

その合法性は、その“持続”に依存しているのです。



問 ところが一方、我々の社会では「進歩」とは進化と変化を意味している?

レヴィ・ストロース  そう。 しかしそれは我々の社会がポテンシャルの差異の上に、内的格差の上に、機能を保っているからです。


     (引用ここまで・つづく)



             *****


「持続可能な社会」を求めるならば、わたしたちは“近代社会”を捨てて、“未開社会”と私たちが呼ぶところの社会システムを、意識的に構築することが有効なのだと思います。

それは未開社会と同じことをすることではなく、未開社会のもつ「良き本性」を指標にする社会であることでしょう。

それは「文化の上で歴史的ゼロ度を示す」文明であることでしょう。



エコとネイティブは、雑貨屋さんでも同じような雰囲気ですが、それがどのようにしたら、いわゆる“少数派”や、センスのいいおしゃれや、文化の飾り、あるいはエキセントリックな体制批判でなくなる時が来るのかを考えるべき時が来ている、のだと思います。

しかしそれは、かつて幾度と無く繰り返し試みられてきた挑戦でもあり、ひとつも新しいことではないことも確かです。

はてしない“ボタンの掛け違い”は、まさに文明の温度を上げる作用そのものかもしれません。

「解き放つこと、旅すること、眺めること、、」と言ったのは、レヴィ・ストロースでした。

この文明から解き放たれることが必要なのだと思います。



写真はホピ族の岩絵「ロードプラン」(「ホピ・神との契約」より転載)


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「冷たい社会」と「熱い社会」(1)・・原発後の社会は“冷却”可能か?

2011-07-05 | ホピの予言と文明の危機

「原発後の世界」、「脱原発の世界」はどのようにしたら構築しうるだろうか、と思って、「レヴィ・ストロースとの対話」を読んでみました。

日本語訳が1970年に出ている、古い本です。


文化人類学者であるレヴィ・ストロースは、“未開社会”とよばれる世界を研究対象としましたが、そこに存在するのは、“未開な”社会ではなく、わたしたちの属する近代社会とは“異なった”形態の社会であると考えるべきだ、ということを見出した人だといえると思います。

“未開社会”は、便利さや迅速さを求めて、社会を変革しようという気持ちをもたない社会であり、その意味では「冷たい社会」であると言える、と彼は言います。

一方便利さや快適さを求めて変革し続ける衝動をもつ、わたしたちの属する社会を「熱い社会」と名づけています。


若い頃、はじめて読んだ時には最初、ジャングルや砂漠のイメージから、“未開社会”の方を熱い社会かと思ってしまい、エアコンの効いた涼しい“近代社会”は冷たい社会かと思ったものですが、

筆者が言おうとしていることは全然そういうことではなく、“われわれの近代社会”は実に、他に類を見ない程、混乱し、迷動し、浮沈の激しい、非常に特殊に“熱い”社会である、ということだったのでした。

そのように、自分たちの属する社会を相対的に見る視点を知った時の驚きは、大変大きなインパクトをもっていました。

以下、すこし抜粋して引用します。


         *****

     
            (引用ここから)


問         「未開社会」と「近代社会」との決定的な差異は何でしょうか?


レヴィ・ストロース 社会は少しばかり機械に似ていて、それに二つの大きな型があることが分かります。

「工学的機械」と「熱力学的機械」とです。

「工学的機械」は、最初に与えられたエネルギーを用いて、もし摩擦や加熱が全然なければ、出発点に与えられた最初のエネルギーでもって論理的には際限なしに作動することができると考え
られる「機械」です。

一方、蒸気機関のような「熱力学的機械」は、その諸部分、つまりボイラーとコンデンサーとの温度の差によって作動します。

これは「時計」のような「工学的機械」よりもずっと大きな働きをしますが、しかしそのエネルギーを費いながら、次第にエネルギーを消尽してしまうのです。


民族学者の研究する諸「未開社会」は、われわれの大きな「近代社会」と比べると、 「蒸気機関」に対して「時計」がそうであるように、「熱い社会」に比して少し「冷たい社会」であると言えましょう。

それは物理学者がエントロピーと呼ぶところのあの混乱を、ごくわずかしか生じない社会であって、どこまでも始めの状態の中に自分を保とうとする傾向をもっています。

だから私たちは、そうした社会が歴史も進歩も無いように見えるわけです。

一方、「われわれの社会」はその社会構造という観点からして、「蒸気機関」に似ています。

つまり作動するためにポテンシャルエネルギーの差を利用するわけで、その差は社会階級のさまざまな形態によって実現されているのです。


このような社会はその内部に不均衡を作り出すに至ったのですが、その不均衡を利用してさらにずっと多くの秩序と同時に、さらにずっと多くの混乱を、ずっと多くのエントロピーを、人々の間の関係という平面の上に生み出しているのです。



問  「未開社会」、また、「現代社会」の内部における「不平等」という語の価値はどのようなものですか?


レヴィ・ストロース  「未開社会」はその一つ一つが、「近代社会」と異なっているのと同じくらい、互いに異なっています。

このことはいくら繰り返し述べても十分でないほどです。

とはいうものの、全体としての大きな違いは何かと言えば、意識的または無意識的な仕方で、「未開社会」は、西洋文明の飛躍を可能ならしめ、あるいは有利にしたところの、あの“構成人員の間の格差を生み出すこと”を避けようと努める、ということです。


その最も有力な証拠の一つは、「未開社会」の政治組織の中に見出されるようです。

そうした社会では人々は討議し、投票します。

しかし満場一致でなくては決して採決されません。

オセアニアの人々の例でいうと、重要な決定がなされる場合はまず前夜か前々夜に、一種の儀礼的闘争がおこなわれ、その中ですべての古い争いは、多少とも模擬的な闘争によって、水に流されるのです。

その争いでは、危険を避けるように努力していても時として負傷者の出る場合もあります。

こんなふうに、社会は不和の動機をことごとく浄化することから取り掛かるわけです。

その後で始めて、不一致の種を除いて、清新の気を吹き込まれ若返った集団が、満場一致となるであろう決定をなす、、かくして“共通の善”を表明する立場に立つのです。



問 決定に依存しない満場一致の状態があるのですね?

まず一致の状態を作り出し、それから決定のため意見を問うのですね?


レヴィ・ストロース  その通りです。

集団が集団として永続するためには、全員の意見一致が必要不可欠なものと考えられているのです。

すなわち、今しがた言ったことをよく考慮に入れていただけるのなら、これは分裂の危険に対する防衛と言えましょう。

社会集団の中に、善人かもしれぬ側と悪人かもしれぬ側との間に、暗々裏に位階制度が形成される危険に対する防衛であるわけです。

言い換えれば、少数派というものが無いのです。

社会はそこでは、すべての歯車が同じ活動に調和的に参与している時計のように存続しようとするのであって、自分の内部に潜在的な敵対関係、つまり(近代社会の動力源であるところの)“熱源と冷却装置”のような敵対関係を隠匿しているように見えるあの蒸気機関(近代社会)のように動くのではありません。


いわゆる「未開社会」は、ある点までエントロピーの無いシステム、あるいはきわめてエントロピーの弱いシステムで、一種の「絶対零度」・・物理学上の温度でなく、「歴史的温度の絶対零度」で作動する、と考えることができます。


我々の社会のような歴史的社会はもっと高い温度をもつと言えましょう。

もっと厳密に言えば、それはそのシステムの内部の温度差、社会的差別に由来するところの大きな温度差によって存在しているとでも申せましょうか。

「歴史なき」社会と「歴史的 」社会とを区別してはなりますまい。

実際にはあらゆる人間社会は歴史を持ち、その歴史はそれぞれの種の起源にまでさかのぼるのですから、同じだけ長いわけです。

しかしいわゆる「未開社会」が、歴史の液体に浸っていて、その水を自分の中に浸透させないようにしているのに反し、我々の社会は、歴史を自分の発展の原動力とするために、いわば歴史を内部に取り込んでいるのです。


未開人は彼らの文化によってほんの少しの秩序しか作り出しません。

彼らはその社会のなかでほんのわずかのエントロピーしか生み出しません。

これらの社会は平等主義的で、「機械的な型」に属し、意見一致の原則によって律せられています。

それと反対に、文明人はその機構や文明の大事業が示しているように、その文化の中で多くの秩序を作り出していますが、社会の中では多量のエントロピーをもまた、作り出しているのです。


      (引用ここまで・つづく)


             *****


上の写真はホピ族の岩絵「ロードプラン」です。(「ホピ・神との契約」より転載)


文明社会と自分たちの社会との対比を岩に記した「ホピ族」に関する研究が、当ブログの主テーマであるとすると、この話はホピ族の世界観に似ていると言うこともできると思います。

ホピ族は白人社会に激しく抵抗し、自分たちのアイデンティティを白人との対比の上に置きました。

その説明的図である岩絵が、「ロードプラン」と呼ばれる上の写真の絵で、そこに描かれている二本の線を、われわれの「熱い社会」の線と、彼らの「冷たい社会」の線であると言ってもよいと思います。

ホピ族によれば、白人の世界に未来は無く、ホピ族の伝統的な生き方に従う者には長い生命が与えられる、ということです。

そうであるとすると、わたしたちはレヴィ・ストロースの言う「熱い社会」の方が「冷たい社会」より偉いわけでも強いわけでもない、という考え方を、もう一度確認するべきなのだと思います。

原発というやっかいな「かまど」の火を、いったいどうしたらいいのか?

本当に「かまど」の火を消すことはできるのか?

燃えているものは、何なのか?

「熱い社会」の熱を冷却するための知恵があるはずだと思えます。





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食べることが終わる時

2011-07-02 | 心理学と日々の想い

老人ホームの母ですが、、

毎日がんばってごはんを食べているのですが、体重が36キロになってしまって、食事のかたちが変更になりました。

ここのところ、食べ物をミキサーにかけて、形がないジャムみたいにしたものを食べていました。

それでも、食事に一時間以上かかっていました。

飲み込むのが、大変なんです。

先月あたりから、食事の量が少なくなり、コップ1杯のミロみたいな飲み物がつくようになりました。

その飲み物が、栄養のメインになると、説明を受けました。

かつて、自宅で暮らしていた父にも、ときどき、なにかそれに似た飲み物を訪問看護の人が置いていってくれたことがありましたので、わたしもちょっと飲んでみたことがあります。

カルピスの原液くらいの濃度で、重力でのど元を落ちていくのがわかりました。

美味しいものではなかったです。

経管栄養として、チューブで直接胃に流してもよい、とラベルに書いてありました。


こどもだったら、哺乳瓶のミルクから、少しずつ、違ったものを食べさせていく、離乳食の時期があったことを思い出しました。

すりおろしたりんごとか、ジャガイモを煮て、スープでのばしたり、毎日いろいろ作ったなあ、と思い出しました。

そして、あっという間に、何でも食べられるようになったんだなぁ、、と今でもおどろきの気持ちと共に思い出します。

やがて、小さな白い歯が生えてきて、うれしかったことも。。


父や母は、それと逆の順番で、たべものの形が変わってきているんだと思うと、胸がいっぱいになります。



食べ物については、思うところはたくさんありますが、歯というものが生えている生物にとっては、“歯で食いちぎる”ということは、非常に基本的な大切な動作なのではないかと思います。

虫歯で歯が一本痛いだけでも、噛むのが面倒になり、そうすると、食べることも面倒になってしまいます。


ここから先は、妄想めいてきますけれど、、ブログの特殊性ということでご容赦いただきたいのですが、、


日本のミイラは、死んでからまわりの人が防腐処置をほどこして作るエジプト型のミイラではなくて、自力でなったミイラが何十体かあると聞きます。

その場合は、自分で、穴を掘り、その中に入り、食を断ち、座って読経をしたままの姿でミイラになるのが成功した形のようです。

失敗した形とは、座った形が崩れたり、土に押しつぶされてしまって、どこにいったかわからなくなってしまったりしたもののようです。

形を保つために、あらかじめ自分で、防腐剤である漆を少し飲むようです。

なかなか大したものではないかと思いますが、それほど奇をてらったものだとは私は思っていません。


年老いた人というものは、それだけで、なんとも言えない威厳に満ちているように、私は思います。

老人病院も、何箇所か行ったことがありますが、その静謐さは尋常ではなく、わたしには一種の聖地に感じられます。


親鸞は、遺言で、

「それがし 閉眼せば 賀茂川に入れて うほ(魚)に与ふべし」と言ったのでしたか。。

自分が食べることを終える、“いつかその時”のことを考えるのは、生き物としては当然のことであろうと思います。






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