「恐竜が隕石によって滅びた」という説が、科学的に証明されたという話を、前回書きました。
この、はるか太古のできごとを、自分の目で目撃してきた、というのが、彗星探索家・木内鶴彦という方です。
この方は心肺停止の死亡状態が30分医学的に確認されているのですが、その後生き返り、30分間に体験した地球の過去のすがたと、あるべき人類の使命について研究しておられます。
以下に、木内鶴彦さんの「生き方は星空が教えてくれる」から、少し抜粋して引用します。
*****
(引用ここから)
月はわたしたちにとって大変身近な存在ですが、まだ分かっていないことの多い謎に満ちた天体でもあります。
いつどのようにして月が誕生したのかということについても、まだ定説はありません。
地球の一部がちぎれてできたという説もあれば、太陽系を漂っていた小惑星が地球の引力圏に取り込まれたという説もあります。
(略)
私が「第二次臨死体験」の中で見た歴史では、誕生したばかりの地球に月はありませんでした。
月は地球がちぎれて出来たものでも、他の惑星を取り込んで出来たものでもありませんでした。
月は巨大彗星だったのです。
巨大彗星が太陽に近づいた際、太陽の熱によってガス化した水分が地球に吸い取られ、質量が少なくなった軽石のような核の部分だけが残り、地球の周りを回る衛星になったのです。
月が持っていた氷状の水分が地球に降り注いだと考えれば、月の質量が地球より少ない理由も納得できます。
巨大彗星が持っていた水が地球に降り注いだことによって、地球上の水分量は急増しました。
旧約聖書の「ノアの箱舟」の物語をはじめ、世界各地には大洪水の伝承が広く残っています。
7日7晩降り続けた大雨によって、高い山までが水の下に沈んだ、という伝承のすべてが想像の産物だとは、わたしには思えません。
これらの伝承は、月が誕生した時に地球に起きた大異変を伝えるものなのかもしれません。
(略)
臨死体験の中でわたしの意識は、その当時天体観測をしていた人の体に入り込むことによって星空を観察しました。
星というのは動かないように見えますが、それぞれに固有運動をもっています。
ですから過去と現在の星図を比べてみると、同じ星座でも少し形が異なっているものなのです。
この星の固有運動を逆算していけば、過去の星座の形を手掛かりに、その時代を割り出すことができます。
(略)
そうしてわたしが導きだした月誕生の年代は、15000年前というものでした。
巨大彗星が地球に接近し、地球の環境を大きく変化させたのは、意外にもそれほど古い時代のことではありませんでした。
当時すでに人類は誕生し、文化的な生活を営んでいたのです。
(略)
わたしが臨死体験で見てきた地球の歴史は常識では考えられないものでした。
月が誕生する前、地球では高度な文明が築かれていました。
その社会は今の歴史学の常識からすれば、信じられないような光景だと思います。
この古代文明の都市は、当初地下に造られました。
人間が自分たちの生活空間を地下に求めた理由は、実にシンプルなものでした。
地上に町をつくると、自然を破壊しなければならないからです。
当時の文明は、「地球の生態系の主役は植物だ」という認識に立脚していたのです。
都市と同じ理由から、道路や線路も作られませんでした。
かれらは空中を移動する乗り物を開発しました。
それは今で言えば、飛行機と言うよりUFOに近いものでした。
緑に覆われた大地、そこには数々の動物が自然を維持するための循環を繰り返していました。
その循環の輪の中には、地下に住む人間も、巨大な恐竜も含まれていました。
そうです。
月が誕生する前まで、人間と恐竜は一つの生態系の中で生きていたのです。
人間は文明の進化とともに、その生息圏を広げていきました。
当時の科学力はある意味では今より進んでいたのかもしれません。
価値観が今と異なるので、比べるのが難しいところもあります。
残念なことに、この超古代文明は、月が地球にもたらした大洪水によって失われました。
生き残ったのは、高い山の頂に避難できた、ごくわずかの人だけでした。
わたしはよみがえった時のためにと、臨死体験の中で訪れた様々な時代の様々な場所に、いくつか証拠になるようなものを残して来ていました。
自分だけに分かるメッセージを、今も残る有名な神社や世界各地の古代遺跡に刻みつけてきたのです。
どんな時代の、どんな場所でも一瞬で移動できるのですから、エジプトのピラミッド、インカのマチュピチュなど、あちこちに行きました。
検証しやすいように日本国内でも、何か所か印をつけました。
まだすべてを検証したわけではありませんが、これまでに調べた場所にはすべてそれらのメッセージを確認することができました。
それは、臨死体験の中で見てきたものは事実だと告げていたのです。
(引用ここまで)
*****
wikipedia「木内鶴彦」より
彗星探索家。
小学5年生の時に池谷・関彗星を見て以来、彗星に興味を持つ。
学生時代には天文同好会に所属。卒業後も長野県臼田町(現佐久市)にて天体観測を続ける。
臨死体験者としても有名。
航空自衛隊にて運航管理者として勤務していた22歳のとき、当時としては大変珍しい上腸間膜動脈性十二指腸閉塞で一度死亡を確認されるも30分後蘇生した。
死後蘇生したことが医師のカルテに記録されている例としては国内で唯一である。
その経過は学会で報告され、本人側の記録も木内の著書として刊行されている。
回復後は、航空自衛隊を退官、彗星捜索を再開する。
コンピュータによる軌道計算と写真乾板による彗星探査が普通である中で、木内は電卓と大型双眼鏡での眼視によって、当時行方不明になっていたスウィフト・タットル彗星を再発見するほか、3つの彗星を発見するなどして、全世界から一躍注目をあびた。
木内の当時の彗星捜索のスタイルは、毎日、大型双眼鏡を八ヶ岳の山中にかつぎ上げ、眼視で観測することが特徴であった。
2008年現在、全国で講演会・観望会を行い、天文や環境問題を説いて回っている。
特に光害と、そこから派生する自然環境破壊を強く訴える。
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この、はるか太古のできごとを、自分の目で目撃してきた、というのが、彗星探索家・木内鶴彦という方です。
この方は心肺停止の死亡状態が30分医学的に確認されているのですが、その後生き返り、30分間に体験した地球の過去のすがたと、あるべき人類の使命について研究しておられます。
以下に、木内鶴彦さんの「生き方は星空が教えてくれる」から、少し抜粋して引用します。
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(引用ここから)
月はわたしたちにとって大変身近な存在ですが、まだ分かっていないことの多い謎に満ちた天体でもあります。
いつどのようにして月が誕生したのかということについても、まだ定説はありません。
地球の一部がちぎれてできたという説もあれば、太陽系を漂っていた小惑星が地球の引力圏に取り込まれたという説もあります。
(略)
私が「第二次臨死体験」の中で見た歴史では、誕生したばかりの地球に月はありませんでした。
月は地球がちぎれて出来たものでも、他の惑星を取り込んで出来たものでもありませんでした。
月は巨大彗星だったのです。
巨大彗星が太陽に近づいた際、太陽の熱によってガス化した水分が地球に吸い取られ、質量が少なくなった軽石のような核の部分だけが残り、地球の周りを回る衛星になったのです。
月が持っていた氷状の水分が地球に降り注いだと考えれば、月の質量が地球より少ない理由も納得できます。
巨大彗星が持っていた水が地球に降り注いだことによって、地球上の水分量は急増しました。
旧約聖書の「ノアの箱舟」の物語をはじめ、世界各地には大洪水の伝承が広く残っています。
7日7晩降り続けた大雨によって、高い山までが水の下に沈んだ、という伝承のすべてが想像の産物だとは、わたしには思えません。
これらの伝承は、月が誕生した時に地球に起きた大異変を伝えるものなのかもしれません。
(略)
臨死体験の中でわたしの意識は、その当時天体観測をしていた人の体に入り込むことによって星空を観察しました。
星というのは動かないように見えますが、それぞれに固有運動をもっています。
ですから過去と現在の星図を比べてみると、同じ星座でも少し形が異なっているものなのです。
この星の固有運動を逆算していけば、過去の星座の形を手掛かりに、その時代を割り出すことができます。
(略)
そうしてわたしが導きだした月誕生の年代は、15000年前というものでした。
巨大彗星が地球に接近し、地球の環境を大きく変化させたのは、意外にもそれほど古い時代のことではありませんでした。
当時すでに人類は誕生し、文化的な生活を営んでいたのです。
(略)
わたしが臨死体験で見てきた地球の歴史は常識では考えられないものでした。
月が誕生する前、地球では高度な文明が築かれていました。
その社会は今の歴史学の常識からすれば、信じられないような光景だと思います。
この古代文明の都市は、当初地下に造られました。
人間が自分たちの生活空間を地下に求めた理由は、実にシンプルなものでした。
地上に町をつくると、自然を破壊しなければならないからです。
当時の文明は、「地球の生態系の主役は植物だ」という認識に立脚していたのです。
都市と同じ理由から、道路や線路も作られませんでした。
かれらは空中を移動する乗り物を開発しました。
それは今で言えば、飛行機と言うよりUFOに近いものでした。
緑に覆われた大地、そこには数々の動物が自然を維持するための循環を繰り返していました。
その循環の輪の中には、地下に住む人間も、巨大な恐竜も含まれていました。
そうです。
月が誕生する前まで、人間と恐竜は一つの生態系の中で生きていたのです。
人間は文明の進化とともに、その生息圏を広げていきました。
当時の科学力はある意味では今より進んでいたのかもしれません。
価値観が今と異なるので、比べるのが難しいところもあります。
残念なことに、この超古代文明は、月が地球にもたらした大洪水によって失われました。
生き残ったのは、高い山の頂に避難できた、ごくわずかの人だけでした。
わたしはよみがえった時のためにと、臨死体験の中で訪れた様々な時代の様々な場所に、いくつか証拠になるようなものを残して来ていました。
自分だけに分かるメッセージを、今も残る有名な神社や世界各地の古代遺跡に刻みつけてきたのです。
どんな時代の、どんな場所でも一瞬で移動できるのですから、エジプトのピラミッド、インカのマチュピチュなど、あちこちに行きました。
検証しやすいように日本国内でも、何か所か印をつけました。
まだすべてを検証したわけではありませんが、これまでに調べた場所にはすべてそれらのメッセージを確認することができました。
それは、臨死体験の中で見てきたものは事実だと告げていたのです。
(引用ここまで)
*****
wikipedia「木内鶴彦」より
彗星探索家。
小学5年生の時に池谷・関彗星を見て以来、彗星に興味を持つ。
学生時代には天文同好会に所属。卒業後も長野県臼田町(現佐久市)にて天体観測を続ける。
臨死体験者としても有名。
航空自衛隊にて運航管理者として勤務していた22歳のとき、当時としては大変珍しい上腸間膜動脈性十二指腸閉塞で一度死亡を確認されるも30分後蘇生した。
死後蘇生したことが医師のカルテに記録されている例としては国内で唯一である。
その経過は学会で報告され、本人側の記録も木内の著書として刊行されている。
回復後は、航空自衛隊を退官、彗星捜索を再開する。
コンピュータによる軌道計算と写真乾板による彗星探査が普通である中で、木内は電卓と大型双眼鏡での眼視によって、当時行方不明になっていたスウィフト・タットル彗星を再発見するほか、3つの彗星を発見するなどして、全世界から一躍注目をあびた。
木内の当時の彗星捜索のスタイルは、毎日、大型双眼鏡を八ヶ岳の山中にかつぎ上げ、眼視で観測することが特徴であった。
2008年現在、全国で講演会・観望会を行い、天文や環境問題を説いて回っている。
特に光害と、そこから派生する自然環境破壊を強く訴える。
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