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始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

アマテルとアマテラス(1)・・日の神アマテルと、月の神

2011-08-28 | 日本の不思議(古代)
盆踊りについてまだまだ考察中なのですが、お彼岸の頃にまた続けたいと思います。

ところで、「お彼岸」という言葉もまた不思議な言葉で、「ひがん」とは、仏教用語としての悟りの境地を意味する「彼方の岸」という言葉であると同時に、「ひ・日・霊・火・陽」という音の言霊も、内に秘めているように思います。


古代日本と朝鮮半島の関わりについて調べていて、

千田稔氏の「伊勢神宮――東アジアのアマテラス」という興味深い本をみつけましたので、ご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどからご購入になれます。

筆者は次のように問いを立てます。



                   *****


                   (引用ここから)


伊勢神宮について考えようとすると、祭神・皇祖神である「アマテラス」がどのようにして誕生したのかという疑問につきあたる。

ある日突然「アマテラス大神」が生まれたと想像するのは難しい。

「アマテラス大神」の原型となる神の信仰があり、やがて王権の中に採り入れられ、王権の祖神となっていくプロセスがあったにちがいない。

           (引用ここまで)


             *****



そこで、「天照」という言葉はどのように発生し、またどのように用いられるようになったのか、ということが考えられています。


            *****


        (引用ここから)


「アマテラス」に助詞の「ヲ」を補うと、「アマ」を「テラス」となる。

「アマ」は天空のことであるが、「テラス」は照るという動詞の尊敬語的表現である。

だから現代の口調で言うと、「照らしておられる」となる。

その主語は「太陽神」あるいは「日の神」である。

つまり「天空を照らしておられる太陽神」ということになる。


ところで「アマテラス」のように尊敬語的表現で呼ばれないが、「アマテル」という名をもつ神社がいくつかある。

(神社の名称と祀神が列記されているのですが、中略)

「アマテル」系の神社が太陽神をまつることは認めてよく、さらに「火明命(ホアカリノミコト)」という神の名前が重ねて出てくる。

また、対馬の「阿麻低留(アマテル)神社」だけが、「天照」ではなく、仮名文字表記になっている。


これは、「アマテル」という本来の音だけが今日まで伝えられたということで、「アマテル」系の信仰の源流がこのあたり、対馬あたりに求め得るという仮説が成り立つ。

神話学的には、もともとあった「アマテル神」が、その格が上げられて、皇祖神である「アマテラス」の神となったと考えられる。


「日本書紀」に次のような記載がある。


              ・・・・・


ある時、日の神が、朝鮮半島南部の加耶(加羅=カラ)地方に遣わされた人に、のりうつって、

「民の地を日の神に奉れ」とのたまったので、対馬県主の先祖である人物が「対馬」の土地を奉り、「日の神」のほこらに仕えた。


また、月の神がのりうつって、

「民の地を月神に奉れ、」とのたまったので、山背国の地に月神を奉り、「壱岐」県主の先祖である人物が「月神」のほこらに仕えた。


               ・・・・・


つまり「日の神」は対馬に、「月の神」は壱岐に、それぞれ原型、あるいは典型があるとされていた、と「日本書紀」の記事を解釈することができる。


日の神「アマテル」信仰の源流は対馬である、という仮説を設定するならば、対馬の日神信仰に注目しなければならない。

そこで次に対馬の日神信仰である「天道信仰」についてふれてみたい。


         (引用ここまで・続く)


               *****



wikipedia「天火明命」より


天火明命(アメノホアカリ)は、日本神話に登場する神のことである。 

一般的には火明命と呼ばれることが多い。

 尾張氏(尾張連)、海部氏など多くの氏族の祖神であり、海部氏系図にも始祖としてその名が記されている。

名前の「天照国照」「火明」からわかるように太陽の光や熱を神格化した神である。

また、『古事記伝』では「ホアカリ」は「穂赤熟」で、稲穂が熟して赤らむ意味としており、天皇に繋る他の神と同様、稲に関係のある名前でもあり、太陽神、農業神として信仰されている。 

このようなことから天穂日命の系譜、つまり天津神系の出雲神を源流としていることが伺える。



wikipedia「天孫族」より


『新撰姓氏録』では、天火明命の子孫を「天孫族」としている。

また全国の天照御魂神社は天火明命を祀るところが多い。

天孫族(てんそんぞく)は、記紀に登場し、日本神話に語り継がれる、ヤマト王権をつくったとする古代勢力の総称。

「新撰姓氏録」では、天火明命の子孫を『天孫』と定義している。

天皇家や物部氏、隼人はその子孫にあたるとしている。

高天原より葦原中国平定のため九州地方に降臨し、中国地方を経て近畿地方まで東征し、

西日本各地の豪族を従え大王(天皇)を中心とするヤマト王権(倭国)を樹立させ、

中部・関東地方まで勢力を拡大させ、

のちの日本へと発展していったとしている。



wikipedia「月読」より


『記紀』においては、伊弉諾尊(伊邪那伎命・いざなぎ)によって生み出されたとされる。

月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある。

天照大神(天照大御神・あまてらす)の弟神にあたり、素戔嗚尊(建速須佐之男命・たてはやすさのを)の兄神にあたる。





wiwkipedia「天照大神」より


アマテラスとスサノオの関係について・周辺神話との合一性

イヌイットの神話には、「弟が姉を犯し、姉は恥じ入って天へ逃げるが、弟が姉を追う。

そして姉は太陽に、弟は月になった」という説話が形を変えて広く分布している。

月に残る痘痕は、怒った姉が投げつけた炭火の跡とも切り取った乳房の跡ともされる。

またシベリアのナナイ族の神話では、

「父が月で、母が太陽だったが、やがて二人とも老いたので、息子と娘に仕事をまかせることになった。どちらも太陽になりたがったが、最終的に娘が太陽に、息子が月になった」という説話が残る。

また中国南方や台湾、東南アジアにも同じく太陽を女とし月を男とする神話が広く残る。

これらは共通して日月別離神話となっており、アジアに留まらず世界各地で同様の言い伝えが残されている。



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舟と棺

2011-08-24 | 日本の不思議(古代)

片づけものをしていたら、すっかり忘れていた日付もない新聞の切り抜きがありました。
2006年2月の記事のようです。

死者の魂と舟、という組み合わせは、色々な思いを呼び起こします。

「お盆」のことを考えていると、それは次第に死について考えることになっていくように思います。



海行かば、水浮くかばね、
山行かば、草むすかばね、、

という歌は、日本人の心の原風景なのではないか、という気がしたりしますが、つまるところ、どこに行って何を見ようとも、至る所に死がある、という感覚があるように思います。

エジプトの王様たちも、死して後はその魂は、立派な舟に乗せられて冥界に旅立ったのであり、日本の人々も、死して後はその魂は舟に乗せられて、旅立ったことと思います。

同時に、この記事のように「舟」の形ではなく、「棺おけ」に入れられる場合、体を曲げた状態で入棺されると思いますけれども、体を曲げて冥界に旅立つと、どういう気分なのだろうか、とも思います。

以下2006年2月の新聞記事より。


                 *****


               (引用ここから)


「大王の遺体運ぶ、「古代の霊柩舟」出土・・奈良・巣山古墳」

奈良県広陵町の国特別史跡・巣山古墳(4世紀後半)から、
表面に文様が刻まれ、朱が塗られた前例のない形状の大型木製品が出土した、と同教育委員会が22日発表した。

木製品は舟の形に復元できることから、埋葬前に遺体を仮安置する“もがり”の場から陸路で古墳まで遺体を運んだ“霊柩舟”の一部と専門家は見ている。

古代の葬送儀礼を解明する上できわめて重要な発見と言える。

出土した木製品の内、舟の側板のかたちをした木の部材は、長さ370センチ、幅45センチ、厚さ5センチ。

一部が欠けているが、復元すると長さは8,2メートルに達する

魔よけを意味する三重の円と、帯状の文様が刻まれていた。

棺のふた形をしたクスノキ製の部材(長さ2,1メートル)は復元長が約4メートルになる。

これらを組み合わせると、先端が反り上がったゴンドラ形の舟に棺を乗せたような肩上がりになり、中国の史書「隋書倭国伝」(7世紀)にある
「貴人は三年、外に“もがり”し、葬に及べば屍を舟上に置き、陸地にてこれを引く」という記述と合致する。

巣山古墳は全長約220メートルの前方後円墳で、被葬者は大王(天皇)級の有力者とされる。


川上邦彦。神戸山手大教授(考古学)の話

「葬送用の棺として“もがり”の場に安置し、古墳まで運んだ後に破砕して周壕に捨てたのではないか。
葬送儀礼の流れが、初めて明らかになった。」

    (引用ここまで)


       *****


wikipedia「もがり」より

殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること

その棺を安置する場所をも指すことがある。

殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮」(「もがりのみや」、『万葉集』では「あらきのみや」)という。


「隋書」に記録された殯

『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」には、

死者は棺槨を以って斂(おさ)め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を作る。

貴人は3年外に殯し、庶人は日を卜してうずむ。

とある。


これらの記録から、倭国・高句麗とも、貴人は3年間殯にしたことが窺える。

なお、殯の終了後は棺を墳墓に埋葬した。

長い殯の期間は大規模な墳墓の整備に必要だったとも考えられる。


殯の衰退

殯の儀式は大化の改新以降に出された薄葬令によって、葬儀の簡素化や墳墓の小型化が進められた結果、仏教とともに日本に伝わったと言われる火葬の普及もあり、急速に衰退する。


現代の大喪における「殯宮」

殯宮は「もがりのみや」という名で天皇の大喪の礼に、また「ひんきゅう」という名で皇后・皇太后・太皇太后の斂葬の儀までの間、皇居宮殿内に仮設される遺体安置所の名として使用されることになっている。


崩御後13日目に遺体を収めた棺は御所から宮殿内の殯宮に移御され、崩御後45日目を目処に行われる大喪の礼や斂葬の儀までの間、殯宮拝礼の儀を始めとする諸儀式が行われる。


現代に生きる殯の名残

通夜は殯の風習の名残で、殯の期間が1日だけ、あるいは数日だけに短縮されたものとする説もある。

沖縄でかつては広く行われ、現代でも一部の離島に残る風葬と洗骨の風習は、殯の一種の形態と考えられる。



wikipedia「舟形木棺」より

舟形木棺(ふながたもくかん、ふながたもっかん)とは、弥生時代や古墳時代にみられる刳抜(くりぬき)式の木棺。

丸太を縦に2つ割りにして中を刳り抜いて棺身と棺蓋をつくり、それを合わせて長大な円筒形の棺として舟のようにかたちを整えたもの。

直径1メートルもの巨木を刳り抜き、なかに遺体を納める空洞部分をつくっている。

長さが5メートル以上におよぶものもある。

刳抜式木棺としては、「舟形」のほか「割竹形木棺」があり、「舟形」は、棺の下半身の棺身底部を船の舳先のように削り出すところから命名されたものであるが、検出例は「割竹形」に比較して少ない。

いずれも、材となる原木はマツ目のなかでもスギ科に近い常緑樹、コウヤマキが多いといわれる。

ただし、栃木県の下野七廻り鏡塚古墳の棺材はヒノキであった。


Wikipedia「巣山古墳」より

巣山古墳(すやまこふん)は、奈良県北葛城郡広陵町大字三吉元斉音寺に所在する前期から中期への過渡期(4世紀末から5世紀初め)の前方後円墳であり、馬見古墳群の中央群に属する。

なお、1927年(昭和2年)周濠より内側が史跡に指定され、1952年(昭和27年)に特別史跡に指定された。



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十万億土からの旅、伊勢のかんこ踊り2・・お盆・施餓鬼・七夕(5)

2011-08-21 | 日本の不思議(中世・近世)

五来重氏の「念仏おどり」に記されている、伊勢の「かんこ踊り」という、とても不思議な盆踊りについて、ご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



            *****


         (引用ここから)


なにゆえに「腰みの」をつけるのか、ということと、「かっこ(首から下げている太鼓)」をつける意味だけは明らかにしておかなければならない。


かつて、踊り手は背に「ござ」を巻いて背負っていたという。

「ござ」はつい数十年前までは、登山や田植えの雨具であった。

旅の雨具であったのである。

この「ござ」をもう一つ遡れば「みの」になるのであって、よりスマートな、浦島太郎や「鵜庄」のつける「腰みの」に変えたのであると思われる。

踊り手が「旅姿」をするという点は、ほとんど全国の踊り念仏に共通で、「かんこ踊り」でも、手甲、脚絆(きゃはん)、わらじは旅姿を表わす。

踊り手を「旅人」とする発想は、「聖」が遊行してきて、土地の亡魂のために「大念仏会」を催し、また村人に「踊り念仏」を教えたことの残存である。


もう一つは、踊り手は遠い十万億土からこの世に戻って来た「お精霊さん」達で、供養を受けて踊りながら、また戻って行く長い「旅人」である。


笠で顔をかくし、「みの」をつけるのは、死者の一種のユニフォームであった。


というのは、いまもお葬式の棺には笠と杖を入れ、墓の上には笠を乗せ、六角塔婆をそれに突き立てる。

そうして新墓の入り口の立ち木に「みの」をつるし、杖を立て、下駄を置いておく所もある。

「みの」のことを「ぼうりょう」と言うのは、「亡霊」の意味で、これから出ているのである。


死んでから根の国(よみ)へ追いやられたスサノオノミコトは、「みの」を着て衆神に宿を請うたが、みな断られた。

これを「日本書紀・一書」は「それよりこの方、世に「みの」を着、もって他人の家の内に入ることを忌む」と言ったのは、これが不吉な姿だったからだろう。


このような幽世(かくりよ)と顕世(うつしよ)の二つのイメージが二重焼きになって、「踊り念仏」というものは構成されている。

常に生者の影のように、死者が寄り添っている。

これが宗教というものであろうし、庶民は現世の物質的快楽だけで、幽世(かくりよ)の悲しみをごまかすことが出来ないのである。

ことあるごとに仏壇に話しかけ、イタコや巫女を頼んで死者の言葉を聞く、そのような精神構造が「かんこ踊り」を支えているのだ。




「かんこ踊り」の名の元になった「かっこ」という太鼓について。


「かっこ」は宮廷の舞楽用の楽器と民間の技楽用の楽器があるが、これを肩からひもで下げた伎楽用の「かっこ」であることはほぼ間違いない。

そしてその直接の源流は、“怨霊鎮魂の原初的念仏”であった、古い京都の念仏踊り「やすらい花」であろう。


「踊り念仏」に太鼓が多く用いられることは、しかるべき理由があるであろう。

直接には田楽の関係であるが、わたしは「踊り念仏」に「樽」が用いられることを注意したい。


このような太鼓を、音楽史家は外来楽器として位置づけるが、私は「桶胴太鼓」は「樽(たる)」から派生した日本固有の打楽器であろうと思う。

桶胴太鼓は、ひのきの薄板を曲げ物として、桜の皮で締める。

日本独特の桶作りで胴を作り、その両端に皮を張る。


「古事記」の「天岩戸の岩戸隠れ」の条に、

  天岩戸に「うけ」伏せて、踏みとどろこし、神がかりして、、、

とある「うけ」が「桶」で、これが日本での太鼓の起源であろうと思う。

すなわち「天岩戸」に“お隠(崩)れになった”皇室の始祖の鎮魂に、「桶」を逆さに伏せて、その中に荒御霊を篭めて、「だだを踏んだ」のである。


  (引用ここまで)


     *****




たしかに、浦島太郎の挿絵も、鵜飼の衣装も、丈の短い腰みのでした。

腰みのは、日本古来の衣装でもあったのでした。

そして、ござは、かつては棺の代わりに死者を置く場所でもあったのだと思います。

死者の持ち物である、ござ、みのをまとい、霊を呼び出し鎮める日本古代の“桶から造った太鼓”をとどろかせて踊る「盆踊り」は、まさに日本古来の魂の姿であるように思えます。


同じく五来重氏「続・民俗と仏教」より 引用させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****


       (引用ここから)


「盆踊り」は、たいてい輪になって踊る輪舞進行型であるが、輪の中央に「踊りやぐら」が組まれる。

今は音頭とりの座のようになったが、もとは祭りを受ける霊魂の祭壇で、「精霊台」ともいい、新仏の位牌を飾るところもある。

古くは中心に傘を立てたらしく、室町時代の記録や絵巻では、これを「風流」と言って、立派なものであった。

言うまでもなく、霊魂のより来る装置であった。

傘または笠は、霊に変身するためのもので、伊勢の「かんこ躍り」のように、踊り衆が花笠や「シャグマ」を被るのは、踊り衆に霊魂がのり移って、共に踊るという観念からきている。

大体、宗教舞踏というものは、神または霊の踊りである。

宗教舞踏はすべて伝統芸能の源泉と考えられるが、その踊り手は神霊の「よりまし」であり、神霊そのものとなって踊るのであった。

それゆえ宗教舞踏者はなにか神または霊を象徴しているもの、、たとえば笠とか鈴とか、、を持つか、普通の人間から区別されるような扮装をする。

花笠を被ったり、仮面を付けたり、仮装をするのはそのためである。


      (引用ここまで)


            *****


お盆で踊っているのは、精霊たちであり、死霊たちであり、そして生者たちであるのでしょう。

五来氏の考察は非常に深く透徹したもので、盆踊りに現れるさまざまなものごとの由来を説き明かしてゆきます。

五来氏によれば、ここに見られるとても変わった衣装は、南方由来ではなく、日本人の心の歴史を表わしているもので、民俗学の範疇で説明がつくということです。

それでは、この大きな被り物は、いったいどのような由来をもつものなのか?

“怨霊鎮魂の原始的念仏”の本質は何なのか?、、いよいよ興味深く思われます。



写真は、萩原秀三郎氏撮影


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なんてシュールな、伊勢のかんこ踊り・・お盆・施餓鬼・七夕(4)

2011-08-19 | 日本の不思議(中世・近世)
お盆がすぎても、盆踊りの音色が心を離れません。

前回まで藤井正雄氏の「盂蘭盆経」を読んでお盆について調べていましたが、その本に掲載されていたたくさんの盆踊りの写真にほれぼれとして見とれてしまいました。

よく見ると、萩原秀三郎さんという民俗学の写真家の人のもので、なるほどと感心しました。

その中で、一番あっと思ったのが、三重県の伊勢で行われている非常に古い盆踊りでした。

「かんこ踊り」というのですが、それについて藤井氏も引用しておられた 五来重氏の「踊り念仏」という本から紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


         *****


       (引用ここから)


伊勢の「かんこ踊り」

伊勢の国は、神の国と言われながら、また「踊り念仏」の国である。

今では常識化した「神仏分離」も、かつては庶民のあずかり知らぬ頭上の嵐であった。

その証拠に、どこの家でも、いまだに神棚と仏壇がなかよく同居している。

伊勢を中心に伊賀と志摩には広く「かんこ踊り」が分布していて、これは必ず「精霊供養踊」と「神事踊(宮踊)」を行うのである。

伊勢の「かんこ踊り」は「シャゴマ」という被り物が異様で、しかも“すげの腰みの”をつけ、胸の「かっこ」を打ちながら踊るので、やしの木陰で踊る南洋の踊りが伝わったものだろうと、海外文化渡来説まで飛び出してくる。

この「シャゴマ」というのは、白馬の真っ白な尾毛を一本絞りして、円筒形に頭巾の上に立て、また頭巾の下に長く垂らし、顔を覆う。

頭巾の上には紅絹布を巻くという派手なものである。

どうして踊り念仏の被り物を、こうまで凝ったのだろうか?

この鍵は、京都の古い踊り念仏「やすらい花」の鬼の被り物「シャグマ(赤熊)」にあるだろう。


「かんこ躍」りは「やすらい花」の系譜をひくものであるから、「鎮魂の踊り念仏」として、一方では御霊や疫病を棄却したり、雨乞いのような「神事踊」をする。

また一方では、お盆に帰ってくる御霊的新魂(あらみたま)である新仏を鎮め送る「精霊踊(供養踊)」をするということになる。

この「神事踊」と「精霊踊」は、庶民信仰の霊魂観から見れば、まったく一つのものだったのである。



「伊勢・佐八のかんこ踊り」の次第をしるす。

8月15日に踊るのを「盆念仏」といって、寺と新仏の家の庭で踊る。

花形はなんと言っても「シャゴマ」で、例の異様な被り物の「シャグマ」で顔をかくし、「腰みの」を足元まで垂らし、白黒だんだら縞の筒袖上着に白晒を胴に巻く。

踊り場の中央には、柴と松を積んだ大松明を焚くので、「シャゴマ」の真っ白な「シャグマ」と「腰みの」が火に映えて、夢幻的な雰囲気を盛り上げる。

その上音頭とりの和讃調の念仏と鉦(かね)の音が、踊り手をこの世のものでない、幻幽の世界から出現したもののように思わせる。


          (引用ここまで)


          *****


伊勢地方に伝わるこの「盆踊り」は、真ん中に火が燃えており、そのまわりを、異形のいでたちをした人々が踊ります。

この踊りを見たとき、わたしは本当に心から、満足を感じました。

「お盆」の踊りは、きっと元々は、こんな形で踊られていたのではないか、と思いました。

写真は藤井正雄氏「盂蘭盆経」の写真より転載させていただきました。

(写真の右端側は、津和野の盆踊りで、別の写真です。)

続きます。



「三重県インターネット放送局・伝統行事」にかんこ踊りの盆踊りの動画が、先日まで載っていました。
http://www.pref.mie.lg.jp/MOVIE/index.asp


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お盆・施餓鬼・七夕(3)・・死者救済術としての祭り

2011-08-16 | 日本の不思議(中世・近世)

藤井正雄氏著「盂蘭盆経」を読んで、「お盆」の由来を調べています。

「盂蘭盆会」はたいへん歴史が古く、推古天皇の時代から行われていたことが書かれていました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。




            *****


           (引用ここから)



「盂蘭盆会」がわが国において始めて営まれたのは、「日本書紀」によりますと推古天皇14年(606)に「この年より始めて寺ごとに4月8日、7月15日におがみせしめき」とあります。

続いて斉明天皇3年(657)に、「15日に須弥山の像を飛鳥の寺の西に造り、また盂蘭盆の会を設けき」とあります。

そして同5年に「15日、京内の諸寺に「盂蘭盆経」を勧講して、7世の父母に報いしめたまひき」と、「盂蘭盆会」が早くから行われていたことを記しています。

平安中期頃になりますと、かなり広く行われるようになったらしく、特に京都では船岡蓮台寺、珍皇寺(愛宕寺)などの葬場では「盂蘭盆会」に寺の塔の基檀に水をかけて亡霊供養のために人々が集まるようになったことを示しています。

その供物を供えるのに、蓮葉を用いることが古くから行われていました。

施餓鬼会が一般化するのには、それを受け容れる庶民の側のニーズがあったことはいうまでもありません。

加持祈祷が中心であった真言宗の葬式が庶民に普及するのは、光明真言土砂加持(光明真言をとなえ加持した土砂を死骸や墓にまいて、亡者を滅罪成仏させる)によって極楽往生ができるとといた明恵によって13世紀にはじまります。

そして高野聖の勧進などによって、次第に浸透していきます。

始めは修行の作法であった「施餓鬼」が、庶民の要求にこたえて次第に死者のたたりを封じこめる呪法となり、追善供養の方法ともなって、盆行事と密接に結びついていったのです。

 
            (引用ここまで)


              *****


おそらく「施餓鬼」は、僧侶が渾身の力で死者と対峙し、成仏させる技であったのだろうと思います。

各宗派の「施餓鬼法」を探してみたいと思いました。

この本にも、

「秘術は夜間におこなわれていた。

これが昼間の回向と同時に行われるようになるには、長い時間が必要であった。」

と書かれています。

夜に行われていた行法が気になります。



ともあれ、「盂蘭盆会」と「施餓鬼会」は、やがて合わせて行われるようになります。

以下、同書より紹介させていただきます。



            *****


          (引用ここから)


江戸時代の中頃にもなりますと、「盂蘭盆会」と「施餓鬼会」が一緒になった現在の形が出来上がってきます。

たとえば「伊勢国問状答」では

「7月13日、墓所参りとて、家々、祖先の墓に詣で、灯を献ず。
寺寺にて「迎え施餓鬼」あり、新亡の家には、初盆とて灯篭をうるはしく造りて、7日より燃やすなり。」

とありますように、お盆を迎えると、寺で「施餓鬼」が営まれている様子がよく分かります。



お盆は、元は旧暦7月を「盆月」と言って、1ヶ月もの長期にわたるものであったのです。

中国では7月1日を「開鬼門」と言って、地獄の門が開き、7月30日を「関鬼門」と言って地獄の門が閉まるといい、この1ヶ月の間は孤魂、幽鬼がさまようとされていました。

おそらくこの中国的世界観の影響があったのでしょう。


「日本民族地図1」に、「お盆行事」の事例があります。

             ・・・

1日 地獄の釜開き。
   朝早く起きて、地面に耳をあてるとカーンと釜の蓋があく音が聞こえるという。
   むかしは先端に杉葉をつけた柱を庭に立て、縄を針、灯篭をつけた。

7日  七夕。墓なぎ。お墓の掃除をする。

13日―16日 お盆。
   念仏講があり、男女の年寄りが集まって、鉦、桶太鼓をならし、念仏を唱えながら数珠くりを  する。

13日 盆棚つくり。
   マコモを敷いてお位牌を移し、初物をサトイモの葉にのせ、盆花(おみなえし)の箸を添えて   供える。
   またナス、きゅうりで馬を作る。
   夕方、家の入り口にたらいに水を汲んで出し、ちょうちんを持ってお墓に迎えにいき、   家では門口に藁で迎え火をたく。

14日 餅をつき、丸餅にし、いばらの葉に包んで仏様に供える。
   また、墓地へもって行き、無縁仏にもあげる。

15日 親戚や義理のある人たちが盆礼に来る。
   この日を中心に神社の境内や辻などの広場にやぐらを組んで太鼓をならし、若衆が盆踊り   をする。
   夕方、土産だんごを作り、仏様に供える。

16日朝、墓地に持って行って、だんごを無縁仏に供えてくる。
    盆棚を取り払って川に流し、あるいは辻に捨てる。

30日 うら盆。お盆の終わりで、庭に立てられた灯篭もはずされる。夕方にはうどんを食べる。

                  ・・・

            (引用ここまで)


               *****



また、夏の風物詩である7月7日の「七夕」は、中国の織姫・彦星の伝説で有名ですが、この行事は、一ヶ月続くお盆の行事のはじまりの、みそぎの儀式なのではないか、

日本独自の民俗と考えるべきではないか、という説が述べられていますので、同書より紹介します。



        *****


        (引用ここから)



7月7日を「盆の初め」とするところは全国にわたっています。

この日はまた「七夕」にあたります。

七夕には「7回水を浴び、7回親を拝む」「7回赤飯を食べる」という伝承が東北から関東地方に多く伝えられています。

盆を迎えるにあたり、物忌みの生活に入るミソギと解釈するのが、定説となりつつあります。


このように「七日盆」には中国の星祭の慣行とは異なる要素が見られますので、七夕を日本独自の行事とみる見方があります。

民俗学者・五来重は「続・仏教と民俗」の中で、七夕をタナバタと読むことに注目した折口信夫から示唆を得て、

「タナバタとは旗をたてる棚であり、旗は精霊のよりしろとなる招き旗である」と考えたのでした。


寺院の施餓鬼棚にたてる五如来の青黄赤白黒の「五色幡」は、日本固有の、タナバタの旗の変形と見るのであり、

また「七夕送り」といって七夕竹を川や海に流すのは、「精霊送り」と同じで、

本来ならば「精霊棚としてのタナバタ」を「終い盆」(盆の終わり)に流すものを、七夕が独立したので7日に流すことになったと推論しています。



盆の供物は「続日本紀」7月6日の条に、

「はじめて大膳をして盂蘭盆の供養を備えしむ」とあり、「盆供」は天皇の食物を司る職の人の管轄であることがわかります。

「延喜式」には、供物として、米、小麦、大豆、ゴマ、味噌、酢、塩、昆布、けし、青大豆、瓜、ナス、みかん、梨、桃などがあげられています。

今日では赤飯、餅、団子、そうめんやなすきゅうり、瓜などの野菜や、りんご、梨、桃などの果物です。


盆の供物にはあきらかに「収穫祭」的な性格が見られます。

その性格の解釈をめぐって、二つの立場が見られます。

すなわち、供物の種類からみて「稲作の収穫祭」と見る見方と、「麦作、畑作の収穫祭」と見る見方とに分かれています。

柳田国男によれば、七夕における水との関連が示していますように、「雨乞い行事」とともに田の神に対して「稲の生育を祈る祈祷行事」と推断することになります。

一方、「盂蘭盆会」の行事を「麦作の収穫祭」としての「ソグド人の死者を祭る祭祀」であるとした岩本説や、そうめんが精霊への供物としてよりも、盆棚に垂らされる形で飾られることから見ましても、

盆に来たりくる精霊の中でも子孫の繁栄を見守る本仏に対して捧げられる「麦作、畑作の収穫感謝」が強調されているという説もあります。


       (引用ここまで)

             *****


「盂蘭盆会」も「施餓鬼会」も「七夕」も、人々の心の奥深くにある、死者の国と現世は分かちがたいという思いによって作り出されてきた行事であろうと思います。

草いきれ、川のせせらぎ、山から吹く風、揺れる木々、赤いほうずき、ろうそくの灯、、生者のかげに、死者が、群れをなして漂っている季節なのでしょう。。

次には、民俗学から見た「お盆」について、載せたいと思います。





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お盆・施餓鬼・七夕(2)・・ゾロアスターの鎮魂儀礼説など

2011-08-13 | 日本の不思議(中世・近世)

「お盆」の起源、「お盆」に行われる「施餓鬼」という行事などについて書かれている「盂蘭盆経」という本を読んでみました。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

筆者は、「7月15日」という日付が、どの行事にも共通しているのはなぜかと問いかけています。

また、「僧への供養」として始まった「盂蘭盆会」が、なぜ「死者への供養」へと傾いてゆくのかと問うています。



           *****


           (引用ここから)



「盂蘭盆経」の説く「盂蘭盆」の僧のいとなみの日は、7月15日となっています。

「盂蘭盆」のいとなまれる7月15日は、中国では「中元」の日にあたります。

「中元」は「上元」、と「下元」とともに「三元」と言われ、道教の祭祀として「三官信仰」と密接にむすびついた日であるのです。

「三官」というのは、大自然の主催者としての「天官」、小麦を主とする畑作の収穫を支配する神としての「地官」、稲作の収穫を支配する神としての「水官」ですから、「中元」はその起源において「畑作の収穫祭」であったことが知られるのです。


そして中国の地理を見てみますと、北部の畑作地帯が、遠く中央アジアを経て西アジアに連なっています。

中国における「麦作」と「粉食」は、漢代に西域ルートを通してソグド人によって伝来したことが知られています。

ソグド人とは、ゾロアスター教を奉ずるイラン系の民族です。

ソグド人の間では、古くから霊魂、特に死者の霊魂を「ウルヴァン」とよび、「ウルヴァン」を祀る祖先祭祀が営まれていました。

この事実に注目した岩本祐氏は、イラン民族間で営まれていた「死者を祀る祭祀・ウルヴァン」が農耕儀礼と結合して、ソグド人の中国進出によって中国にもたらされたと見たのです。

そしてそれが麦作地帯の「収穫祭」としての「中元」と結びつきました。

また、仏教における、僧に捧げ物をする日である「自恣」の日(後に盂蘭盆会の日となる)と道教の「中元」の日が同じ7月15日なのですが、

これは、仏教徒が「自恣」の日と「中元」とを結びつけることによって、今日に伝わる「盂蘭盆会」の原型が成立した、と推論したのです。



では、具体的に道教の「中元」と仏教の「盂蘭盆」とどのようにして結びついたかという問題になりますと、多くの議論が展開されているのですが、

「盂蘭盆供養」がもともと僧への供養によって母の亡魂が餓鬼道から救いだされるという間接的な死者供養・祖霊供養であったわけですが、

中国に入ってから、孝道を重んずる中国の風潮の影響を受けて、死者・祖霊供養の意味を強めたと見られます。


さらに7月15日は中国の「中元」で、俗に言う「鬼節」、死者がこの世に戻ってくる時節にあたりますから、「盂蘭盆会」は中国的変容をとげたものであろうと見られます。


          (引用ここまで)


             *****


筆者は、「お盆」の語源のもうひとつの解釈として、サンスクリット語のウランバナという語が語源であるという説も紹介しています。

7世紀・中国の書「一切経音義」に次のように書かれているということです。

           ・・・

盂蘭盆、この言は訛りなり。正しくはウランバナという。彼の外書(西国・インド)にいう、先亡罪あって家または跡継ぎを絶ち、救いを請うことなければ、鬼処において倒懸(とうけん)の苦を受く。

            ・・・


インドでは子孫のない者は餓鬼となって倒懸(逆さ吊り)の苦しみを受けるという言い伝えがあり、「盂蘭盆」の語源はこのウランバナであるとする考えが、仏教では定説となっているということです。

しかし著者は、目蓮の母の生前の罪深さを救うという「盂蘭盆」の催しには子孫がいないことの罪は関わりがないとして、この語源は適当ではないと考えています。

ゾロアスターの鎮魂儀礼の習俗が西域から麦作と共に伝えられた、とする筆者の説は、広いアジア世界を大きく捉える視点があって、興味深く思いました。


次に「施餓鬼」について書かれていることを紹介します。


               *****


           (引用ここから)


お盆には、「お施餓鬼(せがき)」の行事が伴います。

「施餓鬼」とは、「盂蘭盆」と同じく、お釈迦様の十大弟子の一人阿難の話に由来するのですが、

だれにも供養してもらえない霊、すなわち餓鬼に飲食を施して、供養することで、誰でも救わずにおかれない、仏の大慈悲から出た行事です。

祀られない餓鬼、無縁仏に供養して、その功徳を死者の霊および先祖代々の霊位に振り向けて回向するというように、「盂蘭盆会」と「施餓鬼会」が合体したものになっています。


「盂蘭盆」の背景には、インドでは古くから跡取りのいない者は悪所に堕ちるとする信仰があり、

バラモンは修行を終えて結婚生活をするのに対して、仏僧にあっては家族生活がなされないので、出家をすることは親を餓鬼道に落とすという矛盾があったことになります。

その解決が中国的に図られたのが、「盂蘭盆経」の成立であり、また母は子どもへの愛・育成に心を餓鬼としなければならないという宿業がふまえられていたのでした。


また、庶民にとっては、「施餓鬼会」を修することによって自らの福徳、長寿の現世利益が約束されますが、「盂蘭盆会」と習合することで、この世を安楽に暮らし、死んだら浄土に生まれるという、まさに現世と未来世の利益が同時に果たされることにもなるのです。

まさに「盂蘭盆大施餓鬼会」こそは、長い時間をかけて、仏教と民間信仰が作り上げた習合の産物であり、追善供養の仏教的完成と言ってもよいでしょう。


           (引用ここまで)


              *****


さらに筆者は、「お盆」には中国の習俗である、水難に対する厄除けである「水陸会」も、習合されたと考えます。


             *****


          (引用ここから)


澤田瑞穂氏は、その著書「地獄変・中国の冥界説」の中で、“僧に対する供養”の原義が薄れて、“死者に対する供養”の意味が強まったのは、「盂蘭盆」と「施餓鬼」と「水陸会(すいりくえ」」の3つの仏事が交錯して伝承されたものであると明らかにしています。

中国語の「鬼」は死者の亡霊である「人鬼」をはじめ、妖怪変化、夜叉羅刹をも意味しています。

これらの悪鬼を水上や陸上から供物を投げてなだめ、水辺より発する疫病、災害を取り除こうとしたのが「施餓鬼会」や「水陸会」であったのです。

「水陸会」は水の横死者を多く出す文化の中心地、中国・江南地方に起こりましたが、水の少ない地方でも、供養の場所を水辺に選ぶことになっていったと、澤田氏は述べています。



柳田国男は「先祖の話」の中で、「盆」は本来「梵」であり、神霊に供物を盛る器物で、古くは「ボニ」と呼んでいたものが、「盆」になったという説を述べています。

また、神霊に食べ物を供えることを「ホカヒ」と言い、また、梵は「ヘ」、「ヒラカ」、「ホトキ」、「サラケ」、とも言い、

死者を無差別に「ホトケ」と言うようになったのは、本来「ホトキ」という器物に供え物を入れて祀る霊、ということで、中世民間の盆行事から始まったものと推定したのでした。


             (引用ここまで)

                *****


5月5日の「端午の節句」に食べるちまきも、本来は川に投げ捨てるものであり、古代中国の水難の厄除けの行事であったということを思い出しました。

「お盆」という日本的な行事の基底には、西域の文化や道教など、古代アジアの習俗が色濃く反映されているのであろうと思いました。

しかし同時に、柳田国男はじめ多くの日本の民俗学者による「お盆」の研究では、「お盆」の行事は日本独自の文化の宝庫と感じられているようで、どこから手をつけたらよいか、戸惑うほど豊富な資料があるようです。




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お盆・施餓鬼・七夕(1)・・地獄と母性

2011-08-09 | 日本の不思議(中世・近世)

お盆の時期になりました。

死者供養としての先祖供養、死者と盆踊り、といったことを考えてみました。


お盆は、お寺では「盂蘭盆(うらぼん)」と呼ばれますが、その語源はなにか。


お盆には「施餓鬼法要」が営まれますが、この二つはなぜ合同で営まれるのか、といったことが書かれている藤井正雄著「盂蘭盆経」という本を読んでみましたので、ご紹介させていただきます。

また、民俗学者の五来重氏の習俗の研究も調べてみましたので、後にご紹介したいと思います。


リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


        *****


            (引用ここから)


「お盆」はお彼岸と同じようにわが国の国民的な行事となっていますが、仏教の教えが基になっています。

「お盆」の由来はといいますと、遠いインドの地での目蓮尊者と亡き母との悲しい物語から生まれたものです。


目蓮はお釈迦様の十大弟子の一人で、いながらにして世界の出来事を見たり聞いたりできる神通力を持っていました。


ある時父母の恩に報いようと思い、神通力によって世の中の有様をみつめると、亡くなった母が「餓鬼道」に堕ちているのを見ます。

驚き悲しんだ目蓮はすぐに神通力でご飯を鉢に盛って供養しました。

母は喜んで食べようとしましたが、ご飯はたちまち火炎となって、食べることができません。


お釈迦様は静かに説かれました。

「目蓮よ、汝の母の犯した罪はあまりにも深く、それに比べて汝の修行の日が浅いので、一人の力ではなんとすることもできない。

しかし幸いにも、7月13日の(僧自恣)の日が近い。

その日はたくさんの僧が一堂に集まり、それぞれが過去を反省懺悔して、さらに仏道の修行にいそしもうとする日である。

この日にたくさんのご馳走を諸僧にお供えして、生みの父母、7世の父母のために苦をはらい、楽を与えてくださるよう、回向を頼みなさい。

現在世にある父母は百歳の寿命を保ち、今は亡き7世の父母は「餓鬼道」から救われるでありましょう。」


そこで目蓮は「盂蘭盆会」を営みました。

亡母はその功徳によって、餓鬼の苦しみより離れ、救われます。
                  

この「盂蘭盆経」は内容から見て、インドにおける「目蓮救母説話」に、中国人の重んずる「孝養の徳」が付加されていますから、中国で作られたことは間違いないと見られています。



            (引用ここまで)


               *****


闇の中にいる母を見つけたとき、修行僧・目蓮はどんなに驚いたことかと、心が痛くなりました。

自分を、「母であるわが身」と思うと、「母性」とはなんと切ないものかと思います。

こどもを守り育てようという自分の気持ちを、わたしはわが身の罪であるように感じられてならないからです。


およそ“大地の母”“母性的な女神たち”といった観念ほどわたしが苦手なものはありません。

なので、筆者の描く仏弟子の母の姿を、わたしはすんなりと受け取ることとなりました。

偽経である、すなわち、仏教になんらかの別の思いが込められたものとして。

話は続きます。



            *****


          (引用ここから)


目蓮の亡父はバラモンの修行のおかげで天上界に生まれたのに、亡母はなぜ餓鬼道に堕ちたのでしょうか。

「業つくばばあ」というのに、なぜ「業つくじじい」とは、あまり言わないのでしょうか。

それほど父に比べて母は業が深いのでしょうか。


母の業が深いというのは、欲張りという意味ではないのです。

母はわが子を育てるのに、時には心を鬼にして育てます。

育児に専念する尊い母親の姿を見落としてはならないでしょう。

それに気つかずに、母を忘れ、供養することのなかった目蓮に、お釈迦様はそれとなく教訓を垂れたものと受け取ることができます。


母が餓鬼道に堕ちていたことを知った目蓮の嘆きはいかばかりであったでしょうか。

母が餓鬼道に堕ちたのは、子を思うがゆえの所為であり、目蓮は自分が母を餓鬼道に落としたものと痛感したのです。


自らが母を餓鬼にしたと思えば、母を救うためには、みずからも救われなければならないという思いに駆られたのです。

そして、お釈迦様の教えによって、自分の母だけでなく、すべての母が救われなければ、自分の母も救われないし、自らも救いにあずかれるものではないと悟ったのです。


親鸞聖人は「歎異抄」のなかで、

「親鸞は、父母の孝養のためとて、一辺にても念仏まうしたることいまださふわはず。

そのゆえは、一切の有情(衆生)はみな世世生生(次々に生まれ変わるたびごとに)の父母兄弟なり。

いずれもいずれもこの順次生(次に生まれる世)に仏になりて助けさふらうべきなり」

と述べているのも、同じ心境を伝えています。


              (引用ここまで)


              *****


わたしはほとんど祖先祭祀の行事をしない家庭に暮らしてきたもので、この度「お盆」行事に関する何冊かの本を読み、一つ一つの習俗を知るたびに、珍しく、大変驚きながら、「お盆」という行事に思いを寄せました。

自分が、供養されている側に立っているように思いながら。。

それは仏教渡来以前の感じであろうと感じながら。。


色鮮やかであるほど胸に迫る、夏祭りのなんとも知れない物悲しさは、やはり日本人の魂の在り処をありありと見せているように思います。




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2012年(6・終)・・オリオンからの訪問者

2011-08-05 | その他先史文明
エイドリアン・ギルバート著「古代マヤ文明の暗号・2012」を読んでみました。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

マヤ文明の謎を解くために、マヤ文明の遺跡、文献、コンピュータを駆使しての各年代、日時での星の位置の測定を行ってきた著者でしたが、マヤの謎をマヤ自体で解くことはできない、という結論に達したようです。

これはマヤ文明に関する本ですが、からみあった糸のように、人類のいろいろな来歴と関連しているようです。



          *****


           (引用ここから)


主流派の考古学者がアフリカやヨーロッパからアメリカへの文化伝播論に異議をとなえているのは、マヤの文化が一見、表層的には同時代の世界のどの文化にも似ていないからだ。

だがこれは表層のすぐ下にある類似を無視している。

マヤ人が天を支える4方位の神に関わっていたことは、ホルスの息子たちに関する古代エジプトの信仰と多いに共通点を持っている。

エジプトでは死んで蘇る神オシリスはまた、穀物神であった。

この「神の死と復活に関する神話」は古代エジプト人にとってちょうど現代のキリスト教徒にとってのイエスの死と復活に関する物語と同様に重要なものだったのだ。



「マヤ・コスモス」という本によれば、マヤの「トウモロコシの神」はエジプトの穀物神オシリスと同様、オリオン座にまつわる創造神話と密接なつながりを持っているのだ。

近年グアテマラで発見されたマヤの壁画には「トウモロコシの神」が描かれている。

これはひかえめに見ても紀元前100年頃のものとみなされているが、これを見るかぎり、この神の物語はこれまで考えられていたよりもさらに古いものであるらしい。

少なくともオルメカ文明末期、おそらくはそれよりもさらに古いというのだ。

マヤ人はトウモロコシを、神々からの贈り物とみなした。

具体的に言えば、トウモロコシの神である。

パレンケのパカル王墓の蓋のレリーフを見れば、天に向かうパカルはトウモロコシの王として表わされている。



マヤのトウモロコシの神とオシリスの類似はこれだけではない。

さらにこの両者はオリオンと密接なつながりがあるのだ。

マヤの「最初の父の復活伝説」の詳細版では、彼はカヌーに乗ってオリオンに向かう。

これは第4の世界のはじめに古の神々が3つの「石」をおいて宇宙の竈(かまど)を創った、あの場所だ。

この三ツ星は、マヤ人の家の中心におかれる炉を構成する3つの石に対応するという。

「ポポル・ヴフ」によれば、オリオンの帯は昇天したトウモロコシの神の住み家だ。



さて、この両信仰の類似点の極みと言うべきは、オシリスが人間に文明をもたらすために地球にやってきた神々の一人とされていることだ。

このことからほぼ不可避的に導き出される結論は、かつてエジプトを支配したというこの神々が人間に似た姿をしていたということだ。

となれば彼らはわれわれのような肉体をそなえた存在であり、オリオンの方角からやって来たのだと結論したくもなる。

「魂」というものは、必ずしも通常の意味で「航行」するわけではないのではないか。

おそらくオリオンは実際に、地球に文明をもたらすためにやってきた“最初の父”やオシリス、その他の異星人たちの故郷なのだ。


古代マヤ人はオリオンにある三ツ星を天地創造の日の宇宙の炉の設置と結びつけていた。

これらの星系が形成されているオリオンの剣の空域は、この3つの星が作る三角形の中にある。

それは宇宙の炉の中の天なる炎なのだ。

現在の時代が始まった時、「祖神」は人類に火をもたらすが、その源はこの炉であったのだろう。


          (引用ここまで)

                 *****


著者はその後「エノクの鍵」という本の著者J・J・ハータックと出会い、共鳴しあいます。

「オリオン・ミステリー」の著者であるギルバート氏と、ハータック氏は、ともに、エジプト・ギザのピラミッドとオリオン座とオシリス崇拝を結びつけて考えることで、世界の諸神話の謎は解けるという見解に至ります。



          *****


         (引用ここから)


「エノクの鍵」に描かれたことが、古代の秘教と現代の天文学の両方と共鳴するものでなければ、これらすべてをイカれた神秘家の戯言として片付けることもできただろう。

オリオン座を星の誕生としの場所とみなす観念は、天文学者の最新の発見と重なりあう。

星々は、オリオン大星雲を構成する星間地理の中で生じている。

そしてそのオリオン大星雲自体は、多くの死んだ恒星の残骸である。

リンダ・シェーレが述べたように、古代マヤ人はオリオンにある三ツ星を、天地創造の日の宇宙の「炉 」と結びつけていた。


それは宇宙の炉の中の天なる炎なのだ。

現在の時代である第4の世界が始まった時、祖神トヒル・カヴィルが人類に灯をもたらすが、その源はこの炉であったのだろう。



古代マヤ人、エジプト人が神話や信仰という形で我々に残してくれた遺産は、容易に理解しうるものではない。

だが我々にとって異質な文化と見える表層の下には、石器時代人の能力を超えていたに違いない概念や科学の片鱗がある。

古代人の「神々」の少なくとも一部は異星人である、という説は真新しいものではないし、トンデモとして一蹴してしまうのはたやすい。

だが、ほとんどすべての古代文化には、人間と交流しうるほどに人間に似た神々が登場する。

もしもより進んだ惑星の異星人が地球を訪れたなら、この星の時空座標を定めようとするだろう。

もしも彼らがコンピューターを持っていれば、差異周期を発見し、「2012年12月22日に終結する暦」をマヤ人に与えたかもしれない。

たしかに、このようなことは物理学の範囲をはるかに超越しているが、それを一つの可能性として受け容れることができるなら、マヤの宗教ははるかに重要な意味を帯び始める。

のみならず、彼らがどうやって長期日計暦をつくりだしたのかという謎も解ける。

             (引用ここまで・終わり)


                    *****



「マヤ文明」と呼ばれる一つの文明は、突き詰めるとエジプト文明との類似を無視することはできないのでしょう。

「マヤ文明」と呼ばれる一つの文明を、どのように解釈できるか、他の本も見てみたいと思います。

マヤ関連の本棚には、大変“刺激的”な題名の本がたくさん並んでいます。

それらはなぜ“刺激的”なのだろうか、と思います。

また、マヤ文明と北米の文明の関連も、考えたいと思います。

神殿を建てて放棄した部族と、神殿を建てなかった部族は、おそらく血を分けた兄弟ではないかと思いますので。。



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2012年(5)・・アトランティス人はマヤに知識を託したのか?

2011-08-01 | マヤ・アステカ・オルメカ
エイドリアン・ギルバート著「古代マヤ文明の暗号・2012」を読んでみました。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

前回までは、2012年に終了するとされる「第4ないし第5の時代が始まった時」としてマヤ・オルメカ・アステカ文明の遺物に記されている日付「紀元前3114年」は、いったい何がおきた年なのか?という問いを立てて、著者の考えを追ってみました。

著者の調べたところでは、紀元前3114年は、マヤ・アステカ文明の中心都市テオティワカンでは、プレアデス星団の位置に意味深い配置が見られた、ということでした。

それ以外には取り立てて目立つような事態は見出されなかったようです。


「紀元前3114年」という日付は、オルメカ文明の遺物からも見出されています。

著者はオルメカ人はアフリカから、古代グノーシス宗教の一つマンダ教の一派としてやってきた人々であるかもしれないと考えています。(碑文の文字がマンダ語の一種であると思われるため)

マヤの文明は、地中海の文明と関連しているのだ、と考えます。

そして二つの文明は、共にアトランティスの叡智を受け継いだものであると考えます。


「オルメカ人はアフリカ人であろう」という仮説も、「マヤ文明の起源はアトランティスであろう」という仮説も、前の紹介記事のゼカリア・シッチン氏も述べていたことです。

マヤ文明の謎を解こうとする人は、この「マヤ文明の知恵は外部からもたらされた」という説を“支持する派”と“支持しない派”の二つに分かれるのではないかと思います。

残念なことに、アトランティスが滅亡したのは10500年前のこととされ、マヤ文明の最古の日付は紀元前3114年、つまり約5000年前であり、二つの文明の間には時間的なずれがあります。

しかし、マヤ人は繰り返し「我々はアトランティスからやってきた」と言っているのは確かですから、ここにはミッシングリングが存在しており、なかなか問いが解かれることはありません。



                *****


                   (引用ここから)


「中央アメリカ文明の起源」に関する真実は、単なる大西洋の航海よりもさらに複雑であるようだ。

わたしはそこには、失われたアトランティス文明が関係していたと確信している。

プラトンによれば、それは紀元前9500年以前に遡る一大文明だった。


だがプラトンは、アトランティスは「ヘラクレスの柱」のかなたにあったと明言しているのだ。

「ヘラクレスの柱」は、ジブラルタル海峡を守る柱だ。

そのかなたといえば大西洋のことに違いない。

だからこそ、その地は「アトランティス」と呼ばれるのだ。

しかもプラトンはこの「アトランティスのさらにむこうの対岸には、別の大陸がある」とまで述べているのだ。

この大陸とはアメリカ以外にはありえない。

つまり優れた航海術で知られるプラトン時代のギリシア人は、アメリカ大陸の存在を知っていたのだ。



いずれにせよ、プラトンのアトランティス譚は、「はるか西の果てに熱帯の島がある」という遠い記憶の記録だろう。

その記憶の主がギリシア人自身ではないなら、エジプト人に違いない。

ティタン神族である「アトラス」の名を担うこの島には、エキゾチックな果実がある。

この関連からすると、いわゆる神々の戦い、すなわちオリンポス神族とティタン神族の宇宙的な戦いは、もっとはるかに小規模な事件の反映なのではないだろうか?

すなわち、アトランティス人によるヨーロッパとアフリカの侵略だ。


もしこれが紀元前10500年ごろの出来事であるのなら、アトランティスの滅亡はその当時におこった氷河期の終結にともなう海面上昇と関係していると考えられる。

もしも氷の融解がきわめて短期間に起これば、そのような破局はほとんど前触れもなく急激に起こるだろう。

突然の大災厄(たとえば巨大地震、小惑星の落下、なんらかの原子力発電所の爆発など)に比べて、緩慢な融解の利点は、何らかの準備をする余裕があっただろうということだ。

これはエドガー・ケーシーのシナリオとも一致する。

自らの運命を知ったアトランティス人が、周到にも彼らの文明の記録をビミニのみならず、メキシコとエジプトにも保管したという主張にも信憑性が出てくる。


       (引用ここまで・つづく)


             *****


ピラミッドや神話が、エジプトとマヤでは不思議なほどに類似していることが指摘されています。

クリス・モートンとセリ・ルイズ・トーマス共著の「謎のクリスタルスカル」という本に、エドガー・ケーシーが語ったマヤ文明の起源が書いてありましたので、照合してみたいと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


        *****


       (引用ここから)


ケーシーは有能な霊能者で「眠れる予言者」として知られていた。

深いトランス状態で病気を診断し、治療法を見つける能力があり、また過去や未来と交信することもできた。

ケーシーによれば、アトランティスは実在したが、環境破壊の結果、洪水に襲われて滅んだという。

彼は、アトランティス人のわずかな生き残りの様子をこう描いている。



「そしてアトランティス文明の名残を携えて、イルタールはポセイディアの土地を離れた。

 彼に従うのはアトラン王家の者10人ほど。

いずれもオネの信奉者である。

彼らは西に進み、今やユカタンと呼ばれる土地に入った。

そこで土地の人々と共にアトランティスと似た文明を築いた。」


「生き残りの人々は彼らの歴史の記録を持ってきており、それらは今でも3つの場所に収められている。

海に沈んだアトランティス(またはポセイダ)の神殿の廃墟の海底に隠されている。

フロリダ沖のビミニの近くである。」


「エジプトの神殿の記録に、アトランティスの記事が残っている。

また記録は今のユカタンに運ばれ、石(彼らはほとんど知らない)のあるところにある。」


      (引用ここまで)


           *****


マヤ文明は、アトランティスの知恵を受け継いでいるのでしょうか?

マヤに関する本は、いつもこの問いの周りをぐるぐると回っているようです。。


wikipedia「マンダ教」より

          ・・・・・

マンダ教あるいはマンダヤ教は、グノーシス主義のひとつとされる宗教である。

マンダ語はセム系言語で、「マンダ(manda)」とは「知識、認識」を意味する。

日常的にはアラビア語を用いているが、宗教文書は全てマンダ語で書かれている。

最大の教典は『ギンザー(財宝)』と呼ばれるが『ヨハネの書』、典礼集『コラスター』というのも存在する。

文書に描かれる象徴画は独特の感じを受けさせるものである。

イラクとイランの国境地帯に信者が現存し、またアメリカ合衆国やオーストラリアにもコミュニティが存在する。

信者数は正確な統計がないが、総計5万から7万人と推定される。

イエス・キリストの先達である洗礼者ヨハネを指導者と仰ぐことから、イエスが洗礼を受けたヨルダン川との繋がりが指摘され、キリスト教の起源に近接したものとして注目されるようになった。

教義

魂は光の世界に起源を持つが、肉体は闇に属している。

典型的なグノーシス的二元論で、天界の水は地上では「活ける水」すなわち流水として流れている。

流水による洗礼や信仰儀礼の遵守を生きているうちから行うことによって、死後光の世界に帰りやすくなる。

その意味で洗礼はキリスト教のように一回限りのものではなく、何度も行うものである。

アブラハム、モーセ、イエス・キリスト、ムハンマドを偽の預言者とみなし、洗礼者ヨハネを指導者と仰ぐ。

     ・・・・・



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