始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

ジャガーと神・・アンデス文明の祭祀

2012-09-27 | インカ・ナスカ・古代アンデス



インカ文明を出発点として、どこまで時間をさかのぼれるのでしょうか。

増田義郎・友枝啓泰氏共著「世界の聖域(18)神々のアンデス」という本には次のように書かれていました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



                         *****


                      (引用ここから)


最初の統一文化

古期の終わりには原初農耕の実験段階をすでに終えた中央アンデスに、土器の使用とトウモロコシ耕作が導入され、農耕を基盤とした社会が成立するに至った。

最も古い年代(紀元前1800年)の土器はコトシュ遺跡から出土しているが、この土器はすでに高度の技術によって作られている。

このことは年代的にはコトシュより遅い他の遺跡出土の土器と考え合わせると、中央アンデスの土器伝統が、この地域で始まったものではないことを示している。


おそらく紀元前3000年ごろとされる古い土器が出てくるコロンビアやエクアドルからの影響が、海岸沿い、あるいは東斜面沿いに及んだ結果として中央アンデスの土器使用は始まったのであろう。

トウモロコシも土器と相前後して耕作されるようになったと推測されるが、形成期初期の段階では、あったとしても、まだ重要な作物ではなかった。

このトウモロコシも中央アンデスに起源をもたなかったようで、やはりアンデスの北部から導入された可能性が強い。

いずれにしても土器を使用し、農耕に依存する社会は紀元前1000年のころにはそれぞれの特色をもって中央アンデスの全域に広がっていった。


紀元前1000年を過ぎると、突然のようにジャガー神信仰を中核とするチャビン文化が現れ、急速に中央アンデスの大部分を覆うようになる。

すでに 古期の終わりから形成初期にかけて各地方に独自の祭祀センターがつくられ、地方ごとの共同体を統合する信仰、儀礼の体系は確立していた。

だがこの時になって初めて、そうした諸地方の差異を貫く普遍性を備えた宗教イデオロギーやその造形表現の様式が確立するのであり、

中央アンデスの文化統一が少なくとも、宗教的側面で実現されたことになる。


宗教的性格の強いチャビン文化の起源については、形成期初期段階の考古学的研究の不足もあって確実なことは言えない。

造形表現に見られるジャガーなどの動物モチーフは、アマゾン低地との関係を示唆するし、

また時期を同じくしてメキシコに成立していたオルメカ文化がジャガー神の信仰を中心としていたことから、中米との歴史的関連を指摘する説も重視される。


中央アンデスのどの範囲にチャビン文化が広がったのかは公共建造物や造形表現の主題や様式、分布から知ることができる。

北のカハマルカにあるクントゥル・ワシには三層のピラミッドがあり、ジャガーの牙を持つ神を現した石彫や、牙と爪を備えたコンドルの石彫が発見されている。

海岸地方では日干しれんが造りの神殿があり、この壁面にも様式化したジャガーの装飾が施されている。


            (引用ここまで)


              *****



ジャガーやコンドルといういかにも古代アメリカを感じさせる文明が登場した頃の、熱気にみちた空気、動物と人間の激しい鼓動が感じられるようです。

オルメカ文明との関連も興味深いです。



Wikipedia「チャビン・デ・ワンタル」より

チャビン・デ・ワンタル(チャビン遺跡)はペルー中部、ワラス近郊にある遺跡である。

リマから北に約250km、ブランカ山脈東麓のアンデス山中にある。

標高は3200mほど。

インカ以前の紀元前1500年頃から200年頃にかけて栄えた、チャビン文化の代表的な遺跡である。

内部に地下通路が縦横に張り巡らされている。

1985年、「チャビン(考古遺跡)」の名でユネスコ世界文化遺産に登録された。





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ナスカの土器のネコとガラガラ・・地上絵より小さい世界

2012-09-23 | インカ・ナスカ・古代アンデス


ナスカというと「地上絵」が有名で、誰も見ることができないほど大きな絵が、砂漠に果てもなく描かれている謎めいた情景がイメージされます。

しかし、この程いろいろと調べてみて、ナスカは巨大な地上絵ばかりではなく、土器や建築物もある「ナスカ文化」として歴史に編年されている文化であることを初めて知りました。

関雄二氏の「アンデスの考古学」には以下のようなナスカ文化の研究が記されていました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


          *****


         (引用ここから)


「砂漠に開花したナスカ文化」

ナスカの起源

モチェ文化とほぼ同時代に南海岸で繁栄していたのが、ナスカ文化である。

ナスカ文化はおよそ350キロメートルにわたって広がり、内陸の地方にまで影響を与えていた。

ナスカ文化はナスカよりも北のイカ、ピスコ、チンチャ、リオグランデ・デ・ナスカ谷に限られてきた。


ナスカ文化は前100年から後800年まで続いたとされるが、きちんとした編年は確立されていない。

ナスカ文化の起源は、パラカスと呼ばれる形成期にさかのぼる文化である。

そこでは見事な衣装、織物で包まれたミイラの包みが多数発見された。


パラカス文化は幾何学文様やネコ科動物の姿を描いている。

また有名な織物は、魚や蛇のような存在を織り込んでいる。

こうした図像は初期のナスカの土器にもみられることからもその系統関係が推測される。


ナスカの土器は9つの時期に分けられている。

最も古い1期の土器は方で焼かれ、焼成前にスリップがかけられる。

顔料充填部分は刻線で区切られている。


続くナスカ2~4期では、植物や動物など自然をテーマにした表現が目立つ。

動物ではネコ科動物、キツネ、鹿、リャマ、サル、カエル、蛇、爬虫類、クモ、海鳥、コンドル、ハチドリ、魚、シャチなどが好まれ、植物ではトウガラシ、リマビーンズ、トウモロコシなどが選ばれた。

またパンパイプ、骨笛、ドラム、ホルン、ガラガラなどの儀礼用の土製楽器も出土している。

これとは別に「マスクをつけた神」「神話的ネコ科動物」のモチーフも4期ごろから登場する。


ナスカ文化の前半では、こうした図案が土器に描かれた。

ナスカ5~6期になると、工芸品の絶頂期を迎える。

文様は抽象度を帯び、幾何学文様も増える。

神話的存在もこの頃からは構成要素が解体され、組み換えがおこなわれるようになるため、解読は困難である。

とくに各々の構成要素が際限なく広がる様は「繁殖的」とも言われる。


               (引用ここまで)



                *****



実に夥しい資料があるということがわかります。

これらから見出されることは何なのでしょうか?


>神話的存在もこの頃からは構成要素が解体され、組み換えがおこなわれるようになるため、解読は困難である。
とくに各々の構成要素が際限なく広がる様は「繁殖的」とも言われる。

こういった要素は、マヤ・アステカ文明にも見られると思います。

南米と中米は、どのようにつながっているのでしょうか?


>またパンパイプ、骨笛、ドラム、ホルン、ガラガラなどの儀礼用の土製楽器も出土している。

ガラガラは、ホピ族の大切な道具であると思われますが、北米の文明との関連はどのようになっているのでしょうか?


>これとは別に「マスクをつけた神」「神話的ネコ科動物」のモチーフも4期ごろから登場する。

ミイラが作られていた、という記述と合わせ、思い起こされるのは、エジプト文明との類似性です。

古代アンデス文明は、エジプト文明とほぼ同じ性質をもっているように、私は思います。

ネコ科の動物、魚、蛇、、古代アメリカの広大な大地で、動物と人間の間に、なにかがあって、文明が生まれたのではないかという気がしますが、どうなのでしょうか?

動物が、人間に、力を貸してくれたのではないでしょうか?



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南米の「白い人」伝説(3)・・アンデスの心とチチカカ湖

2012-09-19 | インカ・ナスカ・古代アンデス


引き続き、増田義郎・友枝啓泰氏共著「世界の聖域・神々のアンデス」を読んでいます。

ビラコチャ伝説とチチカカ湖の関係について、書かれています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                *****

 
             (引用ここから)


インカ人の伝える天地創造の物語にチチカカ湖が現れるのは興味深い。

チチカカ地方に住んでいたのは、ケチュア語を話すインカ族とは別の、アイマラ語を話す族であった。

別のスペイン人記録者は、「人々が闇の中で暮らして困っていた時、大きな湖の中に浮かぶチチカカ島から輝かしさにあふれた太陽が上り、すべての人が喜んだ」と記しているが、

この大きな湖とは言うまでもなくチチカカ湖であり、「太陽の息子」を自称するインカの王族にとって、チチカカ湖及びそこから太陽の昇った湖上の島が、世界と歴史の始まりを画した聖所として考えられたのも不思議はない。

インカ人たちはその島に神殿を築いて「太陽の神」を祀った。


またティアワナコが、人間の原型の作られた場所とされているのも興味深い。

ティアワナコはインカ時代よりずっと以前に大宗教都市の栄えた場所である。

現在残っている遺跡は全くの廃墟であり、また16世紀にスペイン人が見た時も、人一人住まぬ滅んだ都であった。

誰がこの都を破壊したのか、何もわからない。


インカの王朝史にもティアワナコのことは出てこない。

しかしインカの伝説の中では、ビラコチャの創造の場として重きをなしているのである。

ティアワナコには大きな石像があったが、それはビラコチャの像であると16世紀のインカ人たちは考えていた。

ドイツの民族学者は、インカ族がチチカカ湖地方の族を征服した時、その地方の神話を取り入れたので、チチカカ湖やティアワナコが後のインカ伝説の中に現れるようになったと考えているが、もちろん確証はない。

いずれにしてもクスコのインカ族が遠く離れたチチカカ湖に魂の故郷をもっていることは大変興味深い。


                (引用ここまで)


                  *****


いろいろと思いがめぐります。

チチカカ湖と言われると、ものすごく懐かしい気持ちになるのはなぜなのでしょう。。


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足元まで届く白い衣服・・南米の「白い人」伝説(2)

2012-09-14 | インカ・ナスカ・古代アンデス


アメリカ大陸にやってきた「白い人=ビラコチャ」の姿をとらえたいと思います。

増田義郎・友枝啓泰氏共著「世界の聖域(18)神々のアンデス」という本に記述された「ビラコチャ神」を紹介します。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****


             (引用ここから)


大昔、世界は暗闇につつまれ、そこには一人の支配者とそれに従う人々がいた。

この暗闇にあったチチカカ湖から、あるときビラコチャという人物が何人かの従者を連れて姿を現し、そこから近いティアワナコの地に赴いた。

そして何の前触れもなしに太陽、月、星の天体をつくりだした。


ビラコチャは以前にも現れたことがあり、その時に闇の天地とそこに住む人々を作っていた。

ところが、この人たちが従順でなかったので、怒ったビラコチャはこの二度目の出現のときに彼らを石に変えてしまった。


ビラコチャはティアワナコで再び石で何人かの人間を作った。

それには全体を治める首長、妊娠中の女、子供をかかえた女などがあった。

これをひとまとめにして離れたところに置くと、同じやり方で別の地方の人々も作った。

全部の地方を作り終えると、それぞれの名称、出現すべき地点、担うべき地方を決めて、従者に憶えさせた。

従者たちは2人を残し、ビラコチャの指示通り各地へ散り、大きな声をあげてビラコチャの命に従って現れ出るように、人々の名を呼んだ。

呼びかけに応じて一群の人が洞穴、川、泉、高い山などから石で作られた姿通りに現れてきた。

ティアワナコに残った2人の従者にも、一人は西に、一人は東の地方に行かせ、人々を出現させるように命じ、自分はその中間を行きながら、同じようなやり方で人々を出現させていった。

ビラコチャがカチャ地方に着くと、呼ばれて出てきたカナス族は、武器を手にビラコチャを殺そうと向かってきた。

ビラコチャは天から火を降らせたので、恐れたカナス族は武器を投げ出して、ひざまづいて許しを乞うた。

ビラコチャが杖を振ると、火は消えた。

この後カナス族はビラコチャのいた所に立派な神殿を建て、大きな石像を安置して、金や銀の捧げものをした。


ビラコチャは背が高く足元まで届く白い衣服をまとい、腰には帯を締めていた。

髪は短く切りそろえてあり、手には聖書のようなものを持っていた。

カチャからウルコスに来たビラコチャは、高い山の上に腰を下ろし、そこからこの地の人々を呼び出した。

ビラコチャが腰を下ろしたという謂れによって、そこに立派なワカが建てられ、金で作ったビラコチャの像が置かれた。


ウルコスを出たビラコチャは相変わらず人々を出現させながら先へ進み、クスコへやってきた。

ここではアルカビザという支配者とそれに従う人々を出現させ、子孫を増やすように命じた。

クスコからさらに先へと進んでいったビラコチャは、北の海岸で同じ仕事をしてきた2人の従者といっしょになり、海のかなたへ、まるで地面を歩いていくかの如くに立ち去ってしまった。


               ・・・


誰しもがこのビラコチャ神を「創造主」と呼び、「真実の神」と言う人もいる。

ビラコチャ神は威厳にあふれ、反抗者を厳しく処罰するが、また寛大でもあり、ときに慈悲に満ちている。

このように描かれたビラコチャ伝説にはキリスト教徒が自分たちの創造主、至高神の概念でとらえようとした一面があることは否定できないが、

同時にこの神が持つ普遍性、遍在性といったものは、すでにインカの国家宗教のパンテオンの中で確立していたと見るべきだろう。


たとえば16世紀末に採録された伝説に登場するクニラヤという神がある。

この神は当時、この地方の人たちからビラコチャと一体視されていたらしいが、その属性はもっと地方的である。

クニラヤは他のワカと争って勝つ勝利者であり、どのワカにもなびかない女神に自分の精子を入れた果実を食べさせて子供を産ませるといったトリックスターの性格まで帯びている。

おそらく、インカがまだクスコの小部族だったころのビラコチャは、これと似たようなワカの一つにすぎなかった。

伝説中のビラコチャには関連した女性らしきものは一切登場しないが、クスコのインカ貴族だけが祀った332のワカの一つにはママ・ラロイと呼んだ石があり、ビラコチャの妻だったといういわれがあった。

一地方の英雄神といった性格は、サンタ・クルスの記録に断片的にうかがえる。


ビラコチャは、時にパチャヤチャチクとも呼ばれた。

これをクロニクスは、創造主の意味にとったのだが、語の意味として「作る」はない。

ヤチャは「知る」とか「認識する」であり、これからすれば、ビラコチャは(世界(パチャ)を認識するということになる。


伝説中のビラコチャも確かになにか物を創り出すというのではなく、その相貌は、ある存在を他から区別し、認識し、それを命名し、指示し、秩序立てることである。

ビラコチャは世界の計画者であり秩序の確立者としての創造者であった。

ビラコチャやその分身の呼びかけをきいて、人々は地下から出現してきた。

石に彫られたり、描かれた計画としてだけの人間やその集団は、そこで生ある存在となる。


この起源は、同じ南米のアマゾン諸族にある「死の起源神」と意味上の対応をつくっている。

アマゾン諸部族の神話では、神や英雄に指示された事柄を五感に聞いたり、見たり触知したり味わったり嗅いだりしなかったために、人間の有限の生命は定められた。


アンデスとはかけ離れたオリノコ川の一部族は、神の指示を耳に聞いて殻を脱いだ蛇やクモは若返りを手に入れたが、聞きそこねた人間は死ぬようになったのだと語っている。

ビラコチャによる最初の区別、認識計画、秩序が知覚されるとき、、言い換えれば、始源の認識が、知覚という肉体を得た時、人間、社会、そして世界が同時に活性化され、現実の世界が存在するようになる。


               (引用ここまで)


                  *****


>ビラコチャは背が高く足元まで届く白い衣服をまとい、腰には帯を締めていた。
髪は短く切りそろえてあり、手には聖書のようなものを持っていた。


こういった描写、そしてそこから広がるある定型的なイメージについて、どう考えてよいのか、迷います。

しかし、上書の筆者は、それらに西洋人のキリスト教徒的な解釈が入っているにせよ、この白い服をまとったアンデスの神は、本質的にアンデスの土着の神であると思うと、まとめています。


>ビラコチャは、時にパチャヤチャチクとも呼ばれた。
これをクロニクスは、創造主の意味にとったのだが、語の意味として「作る」はない。
ヤチャは「知る」とか「認識する」であり、これからすれば、ビラコチャは(世界(パチャ)を認識するということになる。

「パチャ」が「世界」を意味する語であり、「ヤチャ」が「知る」という意味の語であるならば、「パチャヤチャチク」と呼ばれることもあるという「ビラコチャ」というアンデスの神は、「世界を認識する」という意味の神であるのだと思われます。





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南米の「白い人」伝説(1)・・ビラコチャは帰ってくる

2012-09-10 | インカ・ナスカ・古代アンデス


「天空の帝国インカ・その謎に挑む」という山本紀夫氏の本を読んでみました。

インカ帝国はなぜ、あっけなくスペイン兵の攻撃の前に陥落したのかについて考察しています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


          *****

         (引用ここから)


「白い人間」

インカ帝国の謎の一つが、わずかなスペイン人たちの侵略によってもろくも崩壊してしまったことだろう。

それはなぜだったのだろうか?

その原因についてはさまざまな研究があるが、「ピサロを征服の成功に導いた直接の要因は銃器、鉄製の武器、そして騎馬などに基づく軍事技術、ユーラシアの風土病、伝染病に対する疫病など、要するに「銃、病原菌、鉄」であったとする主張がある。

しかし果たしてそれだけだったのか?

わたしは異形を崇拝する「ワカ信仰」も大きな要因になったと考えている。


ワイナ・カパックが病没した後、第12代インカ王にはクスコに住むワスカルが即位する。

一方エクアドルには、父王ワイナ・カパックと暮らしていたワスカルの異母兄弟アタワルパがいた。

そして両者の間に戦争が勃発した。


はじめのうちはクスコを治めるワスカルが攻勢であった。

しかし彼は4万人の大軍をエクアドルに送り込むが、アタワルパ軍の攻めに大敗する。

ここからアタワルパ軍は反攻に転じ、ワスカルを捕虜にした。

戦勝の報告を聞いて、クスコに迫りつつあったアタワルパは、その途中で不吉な報せを耳にする。

それは、“海岸にとてつもなく大きな獣に乗った「白い人間」が出現した”というものであった。

このためアタワルパはクスコへの道を取って返し、ペルー北部高地の町で2万人の兵と共に「白い人間」たちを待ち構えた。

この「白い人間」達こそは、フランシス・ピサロに率いられたスペインの征服者たち18人で、“途方もなく大きな獣”とは馬のことであった。

彼らは数千人の海岸の住人を荷物担ぎとして連れて来ていたので、町の広場をとりまく家々に宿泊した。

そしてピサロの使者がアタワルパを訪れ、面会したいと伝えた。

アタワルパは承諾した。

1532年11月15日のことだ。


その翌日の夕刻、アタワルパは多数の部下を引き連れて町にやってきた。

従軍聖職者が武将と通訳をともなって近づいた。

神父はアタワルパに唯一の信仰、キリスト教について説いた。

通訳はそれを訳して伝えた。

神父は祈祷書を持って、それを読んで説き聞かせた。

アタワルパは本を手に取ってはみたものの、開け方が分からないので地面に放り投げた。

このアタワルパの行為をスペイン人は神への冒涜と考え、総攻撃を開始した。

たちまちあたりは血の海と化し、数千人のインカ兵が殺された。

アタワルパもピサロの手で捕らえられ、監禁されてしまった。

こうしてインカ帝国は滅亡を余儀なくされたのであった。



なぜわずか168人のスペイン兵が一人の犠牲者も出さずに何千人ものインカ兵を殺し、自分たちの500倍もの数のインディオを壊滅状態に追い込むことに成功したのか?

なぜインカ王は、やすやすとスペイン人たちの要請に従って彼らと会ったのか?

それが大きな疑問に思える。


ここに一つのヒントとなるものがある。

それはスペイン人たちがアンデスの人々によって「白い人」と呼ばれていたことだ。

先にインカの起源に関してはいくつも創造神話があることを述べたが、共通していることはどの創造神話にも「ビラコチャ」という創造神が現れることだ。

そしてその「ビラコチャ」こそは「白い人」だったのである。

クスコ近くに、「ビラコチャの神殿」と俗称されるインカ時代の建物がある。

下部だけがクスコ様式の切石で造られ、その上部には高く積んだ大きな壁が並び、その両脇には円柱が配置されている。

創造神ビラコチャに捧げられたという説もある。

とにかくインカの建築としては、極めて特異な構造をした建物である。


さて、なぜインカの創造神が「白人」であったのだろうか?

アンデスの住民は、日本人などと同じようにモンゴロイドであり、黄色人種である。

その中で白い肌を持つ人間はまさしく通常から逸脱した人間であり、「異形」であったのではないか。

だとすれば、ビラコチャ神はワカ信仰とも大きな関係を持つだろう。

前述したようにワカは崇拝の対象であるとともに、畏怖の対象でもあった。

そのようなワカと関係の深い創造神のビラコチャは、「いつの日か自分の使いをよこす」という伝説があった。

実際にスペイン人の記録者によれば、インカ人が「彼(ビラコチャ)は海の上を去る時、いつか自分の使者をよこすだろうと告げた」と語ったと記録されている。

このような伝説があれば、スペイン人の到来はビラコチャの再来と信じられたとしても不思議ではない。

これに得体の知れない伝染病の流行が拍車をかけたのかもしれない。


この少し前にはワイナ・カパック王は死の床にあり、さらに不吉な予兆がいくつも現れていた。

「大きな彗星が現れた、地震がおこった、太陽が多彩な環で縁取られた」などなど、人々の不安を掻き立てる自然現象もおこっていたのである。


突然姿を現した「白い人間」たちは、古くから異形的なものを崇拝し畏怖してきたインカの民に極めて大きな衝撃を与えたに違いない。

何度裏切られてもスペイン人たちに従うインカ人の姿勢は、彼らを“ビラコチャの再来”と信じて疑わなかったからではないか。

馬や鉄製の武具などの表面的なものだけではなく、アンデス住民の精神的なものも、インカの滅亡の要因として大きく影響したであろう。


        (引用ここまで)


          *****


またしても「白い人・白い兄は帰ってくる」という伝説に行き当たります。

なぜアメリカ大陸には、「白い兄がやって来た」「白い兄は帰ってくる」という伝説が広く深く浸透しているのでしょうか?

そしてその意味するところは何なのでしょうか?


春に行った「インカ帝国展」でも、歴史的事実として、インカ帝国の終焉の成り行きが、豊富な資料と共に説明してありました。

それらの展示と説明を読んでも、私には、なにが、なぜ起きたのか、はっきりと理解することはできませんでした。



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氷河とアメリカ大陸

2012-09-06 | インカ・ナスカ・古代アンデス



南米と氷河とミイラいう組み合わせは、想像力を掻き立てられます。

インカ、アンデスという言葉に感じられる、澄んだ空気と余計なものがないシンプルな感じは、氷河の冷たさからくるものだったのか、、と思うと、驚きを禁じ得ません。

南米に人類が生存し始めたのは、いつごろのことだったのでしょう?

関雄二氏の「アンデスの考古学」を読み、南北アメリカ大陸について思いをはせました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


             *****


            (引用ここから)

最初のアメリカ人

中央アンデス地帯に初めて人類が登場するのは、最終氷河期の末ごろ、すなわち12000年前から11000年前頃と言われている。

最初のアメリカ大陸先住民が、アジアからシベリア経由で渡ってきたというシナリオにはさほど変更はない。

むしろ最近、形質人類学に加えて人類遺伝学、地理学、言語学の分野からもこれを傍証するようなデータが提出されつつあるのだ。


問題は常に人類がいつ、どのようなルートでアメリカ大陸に渡ったのか、その後どのように南米まで南下していったのか、その時の生活様式はどのようなものであったのか、という点になる。


たとえば北米では氷河が成長をみせた時期に海水面が低下し、ベーリングが陸橋となっていたことがはっきりしてきた。

これによると、陸橋の出現時期は75000年前から14000年前頃とされ、その間であれば人類はいつでも北米大陸に渡れたことになる。

ところが渡った先の北米では、意外なことにアラスカよりむしろ南部で氷河が発達をとげ、人類の南下を阻んでいたのである。

氷河が後退するのが14000年前以降とされている。

つまりこの頃にならないと、人類は北米南部にも南米にもたどり着けないことになる。

しかし、これよりも前に氷河が一時後退していた時期があったのではないかなどの意見もあり、まだ結論は出ていない。



最終氷期のアンデスは、今日5000メートルあたりにある雪線が1000メートルも降下したことが推測されている。

こうした氷河の前進、拡大の時期はほぼ北アメリカと一致しているといわれる。

2万年前頃から12000年前ごろである。

ペルーとボリビアの国境にまたがるチチカカ湖も、12000年前頃より拡大する。

一方で現在、広大な面積を占めるアマゾン低地においては、熱帯雨林環境が縮小し、乾燥した地形が広がっていたことがよくいわれる。

また、海岸線では氷河の発達によって海底、大陸棚が露出していた。

こうして南米大陸でも北米のクローヴィス文化に相当するような遺跡が発見されている。


                 (引用ここまで)

  
                  *****

チチカカ湖、古代アマゾン文明、、知りたいことがいっぱいです。。


wikipedia「クローヴィス文化」より

クローヴィス文化(Clovis culture、リャノ文化複合)は、後期氷河期の終わり、放射性炭素年代測定によると13000B.P.から8500B.P.(B.P.は、Before Presentの略で、1950年を基点として何年前かを表す。)とされる時期に北米を中心に現われた、独特な
樋状剥離が施された尖頭器を特徴とするアメリカ先住民の石器文化である。

編年上古インディアン期に属し、指標となる尖頭器が、1930年代にニューメキシコ州東部リャノ・エスタカード地方の町クローヴィス近郊のブラックウォーター・ドロウⅠ遺跡でマンモスの骨に共伴して発見されたことに由来する。

クローヴィスの尖頭器は、テネシー州、ケンタッキー州などミシシッピ川中流域に集中するものの、合衆国全域とメキシコでもかなり用いられており、アメリカ大陸全体に分布している。

クローヴィスの尖頭器は、一般的には、長さ7〜12cmで、特徴的な樋状の剥離は、基部から1/4〜1/2の長さに及んでいる。

一方、基部が末広がりの魚尾形のものや、4cm程度の小型のものや、地域差もみられる。

ブラックウォーター・ドロウ遺跡からはマンモスのほかに、ラクダ、馬、バイソンなどが確認され、スクレーパー、石刃、たたき石、剥片石器も出土している。

アリゾナ州のレイナー遺跡では、9頭のマンモスの骨をはじめ、ウマ、バク、バイソンの骨が発見され、コロラド州のデント遺跡でもマンモスの骨に伴ってクローヴィスの尖頭器が出土している。

これらの遺跡はいわゆる獲物を殺して解体し、毛皮や肉をとったりしたキルサイトと言われるものである。

アリゾナ州のマレー・スプリングス遺跡では、尖頭器や2頭のマンモスやオオカミ、そのほか他の遺跡で発見されたものと同様な動物骨のほかに、12000点の剥片や両面調整の石器やマンモスの骨に穿孔を施した骨角器が発見された。

一方で、ワパナケット8遺跡のようにのみや彫刻刀のように用いられたグレーバーやナイフ形石器、スクレーパー、剥片石器とともにおびただしい尖頭器が発見され、動物骨はまったく見られない前述のキルサイトとは異なる様相の遺跡もあり、住居跡であったと考えられている。


クローヴィス人は、一般的に新世界の最初の人間の居住者と見なされていて、北アメリカと南アメリカの全ての先住民文化の祖先であると言われている。

しかしこの視点には、最近、チリのモンテベルデなどもっと年代が古いと主張される様々な考古学的発見により異論が唱えられている。



>最近、チリのモンテベルデなどもっと年代が古いと主張される様々な考古学的発見により異論が唱えられている。


この観点からすると、北米よりも南米の方が、先に人類が出現していた可能性もある、ということでしょう。



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などあります。(重複しています)

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インカ文明と、古代アンデス文明・・インカ以前の諸文明の存在

2012-09-02 | インカ・ナスカ・古代アンデス



「インカ文明展」が面白かったため、インカ文明とはなにかと考えています。

しかし、考えは混迷の中にあります。

なぜならば、インカという言葉に関連して、たくさんの関連物があることが分かってきたからです。

たとえばナスカ文化という謎めいた文化は、インカ文明という謎めいた文明と同じ血脈を持つのであり、同じ文明の中の、古い一つの歴史的な表れであると考えてよいのだろうと思います。

アンデス文明をどうとらえるかについて、関雄二氏の「アンデスの考古学」には、以下のように簡明にまとめてありました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


            *****


          (引用ここから)


南米には中米のマヤやアステカに匹敵するインカという古代文化が実在した。

たしかに古代アンデス文明というと、すぐにインカを思い浮かべる人がほとんどであろう。

しかしこのインカは15世紀末から16世紀前半にかけての100年にも満たない短命な文化の一つにすぎなかった。

実際にはインカに先立つこと2000年以上も前に、人々は巨大な神殿を作り、見事な土器を制作していたのである。

こうした“インカに先立つ時期”を「先インカ期」と呼ぶこともある。

われわれが通常よく耳にし、また本文中でもしきりに登場する「古代アンデス文明」とは、こうした「先インカ」とそれを集大成したとされるインカを含めた諸文化の総体を指す言葉である。


我が国における南米の古代文化の実質的な紹介はごく最近の出来事である。

16世紀に記されたインカ帝国に関する諸文献の翻訳を除けば、折をみて発表される日本人のアンデス研究者の活動や展覧会の企画を通じてその一端が紹介されてきたのにすぎない。

しかもその実態は“インカ以前の諸文化”の紹介であり、それはそれとして十分に意味があるものの、一般的に知られた「インカ」の名前とのずれが生じ、時代的にも混乱が生じていることは否定できない。

しかしこれはむしろ学問の進捗状況と関連していると思った方が正しい。

アンデス山脈沿いに古文明が開花した頃、南米大陸の他の地域が全くの不毛地帯であったわけでも、人類が住んでいなかったわけでもない。

コロンビアやエクアドルにはかなり大きな人口を抱える集団が存在していたし、南米の南端では採取狩猟生活を営む人々が点在していた。

しかしながらこれまでの欧米の研究者の関心は、記念碑的な建造物など、文明の形成過程を追う上で多大な証拠を残すペルーを中心にした地域に集中し、これが現地における考古学の発達にも影響を及ぼしてきた。

またペルーにおいても、考古学的研究は主として「先インカ期」の文化を舞台として展開され、インカについては征服後に書かれた年代記などを基にした文献研究が大半であった。

おのずと展覧会では考古学的な文脈で明らかにされた「先インカ期」に遡る遺跡の紹介とその出土品の展示がメインとならざるを得なかった。

たとえ有名であっても、インカについて壮大な石造建築を写し込んだパネルと、数を表す結束縄キープ、そして若干の土器が並べられるにすぎなかった。

この様に我が国における南米の古代文化に関するイメージはアンデスに始まりアンデスに終わり、それが「先インカ期」の出土品の紹介に重点がおかれながらも実はインカの名の下に漠然と認識されてきたのである。


            (引用ここまで)


              *****


このようなまとめの文章も必要であるかと思い、引用させていただきました。

昔のいろいろなアンデス文明展覧会のカタログなども収集して、あれこれと思いを巡らせています。


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などあります。(重複しています)
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