少し時間があいてしまいましたが、引き続き、岡谷公二氏の「原始の神社をもとめて」のご紹介をさせていただきます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
奈良の地名が、ナ・ラという韓国語だったとは、知りませんでした。
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(引用ここから)
渡来人が作った神社
済州島のものも含め、「堂」が沖縄の「御嶽」と関係があるとするなら、「御嶽」は「神社」の原始形式(折口信夫説)なのだから、「堂」は神社とも関係があるはずである。
いや、弥生時代から古代にかけて、朝鮮半島南部と日本本土、とりわけ北九州とは同一文化圏をなしていたといってもよく、したがって「堂」と「神社」の関係は、遠く離れた沖縄の「御嶽」との場合より、一層密接だったのではないかとさえ考えられる。
神社の歴史がどこまで遡れるものなのか、私にはわからないけれども、神社の神域から弥生土器が出土する例の多いところからして、弥生時代までは遡れる可能性は十分にある。
そうであれば、弥生文化は朝鮮半島から渡来した人々がもたらしたのだから、彼らが神社の成立に無関係だったとは考えられない。
彼らは稲と鉄という、いわば先進文明の担い手だったのであり、神の祀り方だけ土着の人々・・縄文人・・にならったなどということは、まずありえない。
「播磨国風土記」には、百済からの渡来人たちが「ここに居らむとして、社を山本に立ててうやまい祭りき」という一節がある。
また「古語拾遺」にも、応神天皇の部分に、
「秦、漢(あや)、百済のうち従える民、おのおのよろずをもってかぞふ。ほむべきに足る。皆、その社はあれども、いまだ幣たてまつる例にあづからず」
とあって、渡来人が神社を設けた事実を伝えている。
平安初期、927年に編集が終わって奏上された「延喜式」には、韓国神社、しらき(新羅)彦神社、こま(高麗)しひこ神社など、社名だけで渡来系の神をまつっているのが分かる神社がいくつもある。
そしてそうした神社がこの時期にいたって“幣にあずかっている”のを知ることができるのである。
しかし、中古以来、神社側に、朝鮮半島との関係を忌む傾向が強くなっており、これらの中にも、社名の表記や発音を変え、祭神も元来の祭神を廃して記紀の神々としている例が目立つ。
したがって、これら以外にも渡来系であったことが今ではわからなくなっている神社も多いにちがいない。
ここで、神社と朝鮮半島の関係をもう少し具体的に見てみよう。
まず古代日本の中心であった奈良。
「奈良」という地名自体、今も使われている「ナ・ラ」という「国」を意味する韓国語から来ていることは、ガイドブックにまで記されている事実である。
私たち日本人の心の故郷と考えられている飛鳥について、「続日本書紀」には次のように書かれている。
「応神天皇の時代、現在の明日香村一帯は、住んでいた住民の大方が、安羅出身と考えられている「阿智使主」を祖とする渡来系の人々=東漢氏(やまとのあやうじ)の一族だった。」
それゆえ明日香に今も残る、人々に親しまれている名所旧跡の多く・・飛鳥寺や岡寺、石舞台をはじめとするさまざまな石造遺物、、高松塚古墳やキトラ古墳は、彼ら渡来人の手になるもの、あるいは、彼らがその建造に深く関わっていると考えられている。
明日香にある渡来系の神社としては、檜前村の開拓者といっていい東漢氏の祖、阿智使主夫妻を祀る式内社、於美阿志(おみあし)神社がある。
岡寺駅の近くの「牟佐坐(むさにいます)神社」は、今でこそ渡来系であるとは見えないものの、中古の文献によって牟佐村主青(むさのすぐりあお)という渡来人が、雷神を祀り神として創祀したものであることがわかっている。
明日香村栗原にある呉津孫(くれつひこの)神社も、現在は木花咲耶姫を祭神としているが、これも渡来人の呉氏の祖を祀った神社であることが明らかにされている。
呉(くれ)氏の語は、百済、ないし高句麗人とする説が有力である。
飛鳥川の源流に近い明日香村柏森(かやのもり)にある加夜奈留美命(かななるみのみこと)神社について、この「かや」の語は韓国(からくに)から来ているとされる。
明日香村の中央に位置する式内の名神大社、飛鳥坐(あすかにます)神社の祭神も、以前はこの加夜奈留美神であったという。
飛鳥坐神社もまた渡来系と言うことになろう。
奈良市の真っただ中、漢国町に「漢国神社」がある。
現在は社名も町名も、「かんご」と読ませているが、元来は「韓国神社」で韓国の「韓」が「漢」となったものである。
宮内庁が祀る園神、漢神を祭神とし、神社では、円神を大国主命、韓神を大己尊命、少彦名命とする。
この神社が三輪神社と関わりが深いのはたしかで、三輪神社の拙社である、近くの率川(いさがわ)神社の有名な「百合まつり」と同日に、やはり三輪山の百合を供えて祭りをする。
神域内には’養老五年に、百済王が献上した白雉を埋めた」、とされる雉塚がある。
奈良にはもう一つ、「からくに神社」がある。
東大寺の境内に祀られている。
東大寺大仏鋳造の任にあたった国中連公麻呂(くになかむらじきみまろ)は、白村江で敗れた百済からの亡命者・国骨富(こつこっふ)の孫に当たり、彼のもとにはたくさんの渡来の工人が集まったにちがいなく、この神社が寺域内にあるのはそういった関係であろう。
三輪山を神体とし、本殿がなく、いまだに太古の神祭りの姿を伝えている、日本の代表的な神社の一つ「三輪神社」も朝鮮半島と決して無縁ではない。
「古事記」と「日本書紀」の崇神天皇の条に、ほぼ同じ次のような話が載っている。
この天皇の時代、疫病が」流行り、人々が多く死に、国が治まらず、天皇が苦慮していた時、夢に三輪山の神、大物主神が現れて、我が子の太田田根子をして自分を祀らせたなら、国が平和になるだろうと告げたので、天下に命令し、八方手を尽くして探し、太田田根子を発見、以後かれを三輪山の神主としたところ、疫病がやみ、五穀が豊かにみのり、人々が安心して暮らせるようになった、というのである。
ところで、太田田根子が発見された場所は、河内の美努村(みののむら)、茅淳県の陶邑(ちぬのあがたのすえのむら)であったとされるが、いずれも渡来人の多く住む地域で、とりわけ須恵器生産の中心地であった。
須恵器は朝鮮土器とも言われるように、渡来人(新羅系)のもたらした焼き物である。
(引用ここまで)
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