始まりに向かって

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地の面の生き物はすべて拭い去られた・恐竜の化石は大洪水の証し・・飛鳥昭雄氏(2)

2014-08-30 | 環境(ガイア)


引き続き、、先日読んだ船井幸雄氏・飛鳥昭雄氏の対談集「2020年頃までに世の中は大転換する」という本の中の、恐竜に関する話題をご紹介させていただきます。

対談中の「koro」という人名は、物故された神坂新太郎氏の言葉を船井氏が書き加えたものです。
船井氏が、神坂氏ならこう言うだろうということで、登場させています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


             *****


           (引用ここから)


そういう理屈になってくると、聖書は正しいことになる。

「地の面(おもて)にいた生き物はすべて、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまでぬぐい去られた」(旧約聖書・創世記 第7章23節」

もっと面白いことに、ノアの方舟がアララト山に到着した後、実は日本語では「アララト山」となっていますけれど、英語だと「アララト」の後に「S」がついています。

これは複数形です。山系。

だから日本語訳は翻訳ミスが相当多いのです。


その後、大陸が分かれたことも載っているのです。

「パラグ」という言葉でね。

日本語の聖書では「土地を民族に分けた」というふうになっているんですけれど、全然違う。

ヘブライ語でいくと「大地が分かれた」という意味なのです。

大地がベキッ、ベキッっと分かれた、ということなのです。

「その時代に土地が分けられた(パラグ)」「旧約聖書・創世記第10章25節」


「大陸が動いた」ということは、日本の「古事記」、「日本書紀」にもバンバン書いてありますよ。

たとえば、「イザナギとイザナミが降臨する途中、地上を見下ろすと、陸地が泥の海にくらげのように漂っていた」というのがそれです。

あれは、泥の海から顔を出し始めた陸地の記述なんです。

「国若く、浮ける脂のごとくして、くらげなす、漂える」(「古事記・天地のはじめ」)

「イザナギ命、イザナミ命の二柱の神に、「この漂える国を修め、埋め、固め、成せ」(古事記・おのごろ島」。

他にも、出雲の伝承にある「国生み神話」の中に、「国引き」というのがあって、大国主命が島を引っぱったり寄せたりとか、いかにも昔の神話で、のどかじゃのう、と思っているけれど、違う。

あれはさっき言った分裂の仕方で、淡路島がまずバキッと分かれたのです。

次に四国がバキッと分かれて、次に九州がバキッ分かれた。

これは西日本側の話。

邪馬台国の連合国家は、バラバラになっちゃったんです」

○koro

「一つだったものが地割れして、分かれていっちゃったのですね?」

○飛鳥

「そういうことです。ある種の地割れですね。

いわゆるプレートが激しく動くことによって、ベルトコンベアーの上に乗っかった土の塊が動いちゃった、ということなんですけれどね。

佐渡島は日本海で一番大きな島ですけれど、あれはこうなっているでしょう(両手をずらせてみせる)。
あれはぶつかっていますから。

ぶつかったところで何ができたか?」

○koro

「金ですね?」

○飛鳥

「そうです。だから日本は金だらけなのです。

地震が多いのも金がある証拠です」




○飛鳥

「1996年に、中国で発見された「シノサウロプテリクス」の化石は、世界最初の羽毛を残した恐竜化石とされました。

2004年にはTレックスの羽毛の化石も発見されたとされていますが、現実は羽ではなく体毛です。

どれも羽根状ではなく、繊維組織が一本ずつだからです。

が、アカデミズムは恐竜から鳥類が進化したと思わせたいために詭弁を弄し、羽毛に捻じ曲げています。

しかし、これからは恐竜と分類されていた種が、じつは鳥だったというケースも出てくるでしょうから、それと混同されてしまう危険性があるでしょうね」


             (引用ここまで)

 
               *****

大洪水と邪馬台国が同時代なのか、ふしぎですが、飛鳥氏は対談中に、和歌にも、奈良の若草山の周辺は沼だと書かれている、と述べておられます。

イマジネーション的には、面白いと思います。

次に、同書の対談が別のテーマになるので、そちらをご紹介したいと思います。



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恐竜の化石は大洪水の証し、洪水の前の巨人の世界・・飛鳥昭雄氏(1)

2014-08-27 | 環境(ガイア)


恐竜といえば、先日読んだ船井幸雄氏・飛鳥昭雄氏の対談集「2020年頃までに世の中は大転換する」という面白い題名の本の中にも、恐竜に関する話題がありました。

対談中の「koro」という人名は、物故された神坂新太郎氏の言葉を船井氏が書き加えたものです。
船井氏が、神坂氏ならこう言うだろうということで、登場させています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


             *****


           (引用ここから)


○飛鳥

「実は、ぼくは聖書をよく研究するのです。

同時に、ぼくはいろいろなものを本当かどうかと確かめたい人間なので、徹底的にやると、その答えが聖書に全部書いてあるのです。

面白いことに、「天地創造」の中に「海の水は一つのところに集めよ」と書いてあるのです。

海の水、海という以上は陸があるから海なので、海の水を一つのところに集めたら陸は何個ですか?」

○koro

「1個ですね」

○飛鳥

「そうです。1個です。これはパンゲアのことです。


「神は言われた。天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ」(旧約聖書・創世記 第1章9節」

おもしろいことに、ヘブライ語の聖書を見ますと、いろいろ動物を創っていく順番が書いてあるのですが、そのなかの最初に、日本では「クジラ」と翻訳されているのですけれども、ヘブライ語ですと、あれは〝首の長い生き物”〝首を延ばす生き物”と書いている。

何か分かるでしょう?〝巨大で首の長い生き物”を最初に創った・・」

○koro

「恐竜?」

○飛鳥

「そういうことです。

ヘブライ語では、そう書いてあるんです。

それを英語訳に変えるとまた変わって、日本語訳になるともっと変わってくるから、日本では「クジラ」になっている。

新共同訳聖書というものが出て、ようやく「巨大な怪物」と変わりました。

「神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物・・」(旧約聖書・創世記第1章21節)

だから、恐竜は聖書に書いてある。

プレシオサウルスなどの海竜は恐竜ではないという学者もいるが、恐竜の規定自体が激変しています。

爬虫類と同じ「冷血動物」とする枠を超え、今ではもう恐竜(実際は体毛恐竜)に代表される温血動物に変わっていますし、竜脚類に胎生の証拠も出てきましたので、昔の常識は通用しません。


聖書には「一番最後に人間を創って、その後に文明があって」と。

そこなんですよ、「文明があった」と書いてある。(大洪水の前に)

ネフェリムという巨人もいたと書いてある。

「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた」(旧約聖書・創世記 第6章4節)

実際いろいろ調査をしていくと、地球には今の理屈に合わないものがいっぱい出てくるんです。

たとえば歯車の、いわゆる〝アナログ式コンピュータ”と言わせてもらいますけど、ああいうものが化石になって出てくるんです。

精密な機械のボルトとか、そういうのが化石になって出てくる。

こういうのは「オーパーツ」(Out Of  Place Artifacts)と言って、学者たちは「オーパーツ」が出てくると、こうなんです(ポイと後ろに投げ捨てる身振り)。

こんな物が出てきたら困る。

それを認めちゃったら自分は大学での地位をなくすんですから。

だからそんなものは全部ポイポイポイです。


しかし、「そのあとに大洪水が起こった」とある記述が大問題になるのです。

恐竜の化石は世界中から出てきますね。

日本も含めてオーストラリア、アフリカ、世界中から恐竜の化石が出てきますが、これには根本的な問題があるんです。

化石というのは、水に沈んで泥に埋まらなかったら、絶対にできないんです。

灼熱の太陽のもとで、恐竜たちが水を求めて移動してばたばた倒れる・・それじゃ絶対に化石にはなりません。

それだと、風化するんです。

風化するというのは、酸化するということです。

さびと一緒で、最後はボロボロになっちゃう。

だから絶対に化石はできないのです。

化石というのは金属とか他の物質と入れ替わるのです。

そのためには絶対条件があって、無酸素状態でないとだめなんです。

酸素があると、酸化して、腐りますから。

無酸素状態はどこかといったら、泥の中です。

ですから、必ず泥に沈むんです。

水に沈んで泥に埋まらなかったら、化石は絶対に出来ません。

世界中から化石がみつかるということは、世界中が泥水と化した、水に沈んだということなんです」


               *****


             (引用ここまで)


wikipedia「パンゲア」より

パンゲア大陸(Pangea)は、ペルム紀から三畳紀にかけて存在した超大陸である。

大陸移動説

1912年にアルフレート・ヴェーゲナーは、自身の提唱する大陸移動説の中で、現在の諸大陸は分裂する前に一つであったとの仮説を考え、この仮説大陸をギリシャ語で「すべての陸地」を意味する「パンゲア大陸」と命名した。

当初、大陸を動かす原動力が説明されておらず、このような移動は物理的にありえないとされたが、ヴェーゲナーの死後、1950年以降次々に新事実が見つかり、プレートテクトニクス理論として再評価されている。

古生代ペルム紀の終わりである2億5000万年前頃に、ローレンシア大陸、、バルティカ大陸(ローレンシア・バルティカ両大陸は既にデボン紀には衝突し、ユーラメリカ大陸を形成していた)、ゴンドワナ大陸(ペルム紀初期にはユーラメリカと衝突)、シベリア大陸などすべての大陸が次々と衝突したことによって誕生し、中生代三畳紀の2億年前ごろから、再び分裂を始めた。

超大陸の完成時、地球内部からスーパープルームが上昇して世界各地の火山活動が活発になり、ペルム紀と三畳紀との境界(P-T境界)に当時生きていた古生代の海洋生物種のうち、実に95%以上が絶滅した。

当時の海水準は高かったため、大半の時代は、浅海によって幾つかの陸塊に分かれていた。


パンゲア大陸は、赤道をはさんで三日月型に広がっていた。

三日月内部の浅く広大な内海であるテチス海では、多くの海洋生物が繁殖した。

その一方、内陸部は海岸から遠いため乾燥した砂漠が荒涼と広がっていた。

ほぼ全ての大地が地続きで動植物の移動が促進されたため、生物多様性は現在よりも乏しく均質だった。

1億8000万年前のジュラ紀になると、南北に分裂し、北はローラシア大陸、南はゴンドワナ大陸となった。

両大陸は,更に分裂していった。

パンゲア大陸の形状については、三日月型ではなく、上記地図のユーラシア大陸の凹みとオーストラリア大陸の凸部とが丁度つながり、丸くなっていたという説もある。


Wikipedia「ネフィリム」より

ネフィリム (Nephilim)は、旧約聖書の『創世記』および『民数記』、旧約聖書外典(続編)の『ヨベル書』、『エノク書』などにあらわれる種族の名で、一般的には「巨人」とされる。

名前の意味は「(天から)落ちてきた者達」であるという。「ネピリム」とも表記される。

『創世記』第6章1~4節によれば、地上に人が増え始め、娘たちが生まれると、神の子らは人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。

こうして神の子らと人間の娘たちの間に生まれたのがネフィリムであった。

彼らは大昔の名高い英雄たちであったという。

『民数記』第13章32~33節ではカナンを偵察したイスラエルの一隊が、「そこにすむ民は巨人であり、ネフィリムである。

彼らアナク人はネフィリムの出だ」とモーセに語る場面がある。

『ヨベル書』7:21~23によれば、巨人たちが人の娘をめとり、そこからネフィリムが生まれたとされる。

ネフィリムは「みな仲たがいをして共食いをし、お互いを殺しあった」という。

この箇所ではネフィリム以外にエルバハ、ネピル、エルヨという三種の名称があげられているが、それらも巨人をあらわしていると考えられる。

『第一エノク書』7章では地上に降りて人間の娘と交わった天使たち(グリゴリ)によって、巨人が生まれたという。

巨人の体長は3000キュビット(1350m ギリシア語の『エノク書』では3000ペーキュス)もあり、人間たちの食物を食べつくすと共食いを行ったという。



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羽毛のある恐竜、原始鳥、発見あいつぐ・・鳥と恐竜の境界あいまいに

2014-08-24 | 環境(ガイア)


恐竜とか、鳥とか、なぜか興味があります。

古い新聞記事ですみません。

塩漬け記事たちですが、爬虫類は人類の秘密を握っているような気がしてなりません。


                 *****


「大きなティラノサウルス類」の歯を発見・・大型化時期早まる可能性(兵庫・丹波」
                     読売新聞2012・06・21

兵庫県三田市の「県立・人と自然の博物館」は、同県丹波市の前期白亜紀の地層「篠山層群下部層(約1億4000万年前~1億2000万年前)から、肉食恐竜「ティラノサウルス類」の歯の化石が見つかったと発表した。

歯の大きさから,体長は約5メートルと推測される。

これまでみつかった「ティラノサウルス類」の前期白亜紀の体長は1~3メートルで、後期白亜紀(約9900万年~6500万年前)に大型化したと見られてきたが、今回の発見で大型化の時期が早まる可能性がでてきた。

見つかった歯は2本で、長さ18ミリ幅6ミリと、長さ8ミリ幅5ミリ。

今年3月、国内最大級の植物食恐竜「丹波竜」の発掘調査の過程で見つかった。

いずれも上あごの前歯と見られ、大型化が進んだ後の特徴である縦筋も見られる。

前期白亜紀では、今年4月、中国で約1億1200万年~9900万年前と見られる地層から、大型化が進み始めた「ティラノサウルス類」の頭や脚の化石が見つかっている。

今回は、それを数千万年さかのぼる発見という。

富田幸光・国立科学博物館研究主幹は「年代が確定されれば、世界的に一番古い部類に入ることになり、恐竜の進化パターンを書き換える可能性がある。

最近、中国などで同類の化石が発見されていることに続いて、同類のアジア起源説を一層裏付けるものになるかもしれない」

                  *****

「丹波竜.com(丹波市)」


中国で発見されたティラノサウルス類の記事もありました。


                  *****



「全長9メートル、ふさふさ恐竜・・中国に化石、ティラノの仲間」
                            朝日新聞2012・04・5


鳥のような羽毛をまとった全長9メートルの新種の大型恐竜の化石が中国でみつかった。

羽毛のある恐竜はこれまで、体長2メートル程度の種類しか確認されていなかった。
中国とカナダの研究チームが英科学雑誌「ネイチャー」に発表する。

化石は3体分で、中国遼寧省の白亜紀前期(1億2000万年前)の地層からみつかった。
化石の分析で、大型肉食恐竜ティラノサウルスの仲間で、最大の個体は全長9メートル、体重1・4トンと推定された。羽毛は15から20センチくらいで柔らかく、体温を保つのに役立ったようだ。



研究チームは、ラテン語と中国語で「美しい羽毛の王」を意味するユウティラヌス・ファリと名付けた。
羽毛恐竜はこれまで、全長2メートル程度の小型・中型の種類にしかみつかっていなかった。
大型恐竜は体内に熱を保ちやすく、羽があるとオーバーヒートして生存に不利になる可能性があるとして、大型種がいたか、専門家の間でも論争になっていた。

国立科学博物館の真鍋学研究主幹は「大型恐竜にも羽毛があったという物証がついに出た。羽は雌雄を見分けたり、求愛のディスプレーに使ったりした可能性がある」と話した。


              *****


さらに、始祖鳥より原始的な鳥が発見された、という記事もありました。

〝羽毛の生えた恐竜”というのは、恐竜と鳥の中間形態をあらわしていると思われますが、始祖鳥の前にも鳥がいたという発見により、始祖鳥は恐竜から進化したという単純な仮説が否定され、鳥類としての系統を精査する必要があるとうことではないかと思います。

              *****




「始祖鳥より原始的な鳥・・中国で化石発見」    読売新聞2013・05・10


鳥の祖先とされる「始祖鳥」よりも原始的な特徴をもつ新種の鳥の化石を発見したと、ベルギーや中国などの研究チームが30日付の英科学誌ネイチャーに発表する。

中国遼濘省の1億6500万~1億5300万年前(ジュラ紀中期から後期)の地層から見つかった。

研究チームは「あけぼのの鳥」を意味する「アウロニルス」と名付けた。

ほぼ全身の化石がみつかり、羽毛の痕跡も確認できた。

全長は約51センチ。

骨格を分析した結果、「始祖鳥」よりも恐竜に近いという。

これまでの鳥の化石の中で最も原始的であることが分かった。



鳥は恐竜から進化したと考えられている。

ここ数年で羽毛を持つ恐竜が多数見つかったことから、鳥と恐竜の境界が曖昧になり、「始祖鳥」を恐竜と位置付ける考え方も出てきた。

しかし「始祖鳥」よりも原始的な鳥がいたという今回の結果で、「始祖鳥」は鳥という説が改めて有力となった。


真鍋真・国立科学博物館研究主幹の話・・「鳥と恐竜の境目をどこにおくかは研究者によって見方が異なる。

今回の化石は“鳥に近い羽毛をもつ恐竜”と見ることもできる。

さらに議論が必要だ」。


                  *****

wikipedia「丹波竜」より

丹波竜は、兵庫県丹波市山南町加古川水系篠山川河床の篠山層群において2006年8月7日に初めて発見された、ティタノサウルス形類と推測される恐竜またはその化石。

2006年8月7日に丹波市在住の2人の男性によって篠山川において発見された小さな化石の一部は、その後専門家の鑑定により、中生代白亜紀に繁栄した竜脚類の一グループに属するティタノサウルス形類という恐竜である可能性が高まり、ほぼ全身に近い骨格が良好な保存状態で発掘される可能性が高く、この種の系統進化を解き明かす上で極めて貴重な資料となると考えられ、大きなニュースとして報道された。

発掘作業は現在は一旦終了した。

国内における前期白亜紀の哺乳類化石の発見例は、石川県白山市白峰、福井県勝山市北谷の2例あるが、世界的に見ても前期白亜紀の哺乳類化石の発見はわずか55例しかなく、篠山層群下層部の年代に相当するものとしてはさらに少なくわずか11例にとどまる。

(詳細:イギリスに8例、モロッコ、モンゴル、ポルトガルにそれぞれ1例あるのみ)。

このため、小型脊椎動物化石群集は希少でありさらに哺乳類の化石を含んでいことから、重要な発見であるとの見方がされている。

発見

2006年8月7日長年にわたり、独自に生痕化石の調査を続けてきたと丹波市在住の元高校教諭の足立洌(丹波市柏原在住・篠山層群を調べる会会員)とその旧友である男性が、山南町上滝の加古川水系篠山川、川代峡谷川床において地質調査を行っていたところ、重層的な篠山層群の赤茶けた泥岩層の表面付近に、1cmほどの灰色がかった石状の突き出した楕円形の物体を発見。

2人は、タガネとハンマーを使い、2本の切片を掘り出した。

当初、2人は石灰岩や生痕化石(主にサンドパイプ)を探しており、午前中は山側の沢を歩き回り、フズリナやサンゴの化石が見つかればよいと考え調査を行っていた。

昼食後、旧・上久下村営水力発電所付近の川床の岩盤の礫岩や泥岩の層でサンドパイプを探すつもりで、何気なく見回していた彼らの目に前述の物質が飛び込む。

さっそく、2人でハンマーを使用し、2時間がかりで約15cmの正体不明の2本の物体を摘出する。

元高校教諭の男性は、これまでの知識と経験から断面に年輪が見当たらないことで木ではないと直感する。

2人は動物の化石ではないかと推測したものの結論は出せず、持ち帰り図鑑や参考資料を調べるうちに「どう考えても恐竜以外に考えられない」という結論に達し、翌日以降も発掘を続ける決意をする。

2006年8月9日発見日の翌日から2日がかりで、7時間ほどかけ交代で掘り進み、60cmほどの棒状と、ひとかたまりの化石らしき岩石を「兵庫県立人と自然の博物館(愛称「ひとはく」)」へ持ち込む。

ひとはくの三枝主任研究員の鑑定の結果、恐竜の肋骨であることが判明する。

篠山層群

丹波竜が発見された篠山層群は、中生代白亜紀前期、1億4,000万年前~1億2,000万年前頃に平野部に土砂が堆積することによってできた地層で、当時の日本は大陸の一部であったため恐竜が生息していたことは考えられていたが、これまで恐竜の化石の産出の事例はなかった。

今回の発掘現場は、川岸・川底などにたまった小石、砂が固まってできた岩盤である礫岩、砂岩、泥岩の層と、河川の氾濫時に洪水で運ばれ堆積した泥が固化してできた泥岩層が繰り返し堆積しているが、恐竜の化石はこの泥岩層の中に埋まっていた。



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帰省することになり。。

2014-08-14 | 心理学と日々の想い



当ブログをいつもお読みいただき、ほんとうにありがとうございます。

今、前に一端中断した、ゾロアスター教について書いていた記事を再読して、投稿しようと考えております。

しかしながら、今週は帰省をやむなくされ、細かい作業ができませんので、あえて投稿しないことにいたしました。

申し訳ございません。

皆さまも、どうぞよい夏休みをお過ごしくださいませ。^^
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生けるも死すも、同舟す・・8世紀中国の景教碑文(4・終)

2014-08-10 | マニ・ゾロアスター



引き続き、神直道氏の「景教入門」から、唐時代の中国に建てられた「景教」の碑文のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


            *****

  
          (引用ここから)

第3段

大施主、紫の袈裟をたまわった僧イサクは温和で恵み深く、道をきいて修行にはげんだ。

遠いバルク(アフガニスタン近く)から、ついに中国に来た。

術は秀で、芸は円熟していた。

はじめて宮廷に仕え、その名を王帳に記された。


王が蛮族を北方に討伐したが、粛宗はイサクを共に行かせた。

王の寝床に出入りできる親しさのある地位にもかかわらず、普通の兵士と起居を共にし、よき参謀となる。

録や拝領物を散じて、家にためこまず、恩賜のガラス器を寺に献じ、いとまごいの時に送られた毛布を敷き、古寺を修理し、法堂を広め、寺の建物を立派にし、その壮麗さは雉が舞い飛ぶがごとくである。


「景教」のために力を尽くし、仁によって利をほどこした。

毎年、4寺の僧徒を集めて供物をささげ、50日間保存して、飢えた人は来て食らい、寒さにたえぬ人には衣類を着せた。

病気になった人は治り、死者は手厚く葬って安んじた。

清節のキリスト教徒でこのように美しいのは、まだ聞いたことがない。


白衣の景徒(在俗の役職者)であるイサクにして、初めてこのような立派な人を見ることができた。


大いなる碑に刻み、よきいさおしを世に揚げよう。

真主に始めなく 静にして常

よろずのものを 手作りて
天と地とを創ります

イエスをこの世につかわして
そのお救いや 限りなし

日昇りて 闇滅す
これみな真主の 御業なり

さかんなるかな 太宗や
その徳 祖宗にたちすぐれ

時に乱れを たいらげて
天地 おおいに広まりぬ

あきらかなるや 景教は
わが大唐に 伝わりぬ 

経を訳し 寺をたて
生けるも死すも 同舟す

よろずの福は みなおこり
よろずの那は みな安し

高宗つぎて 精舎たて
宮居はたかく あきらけく
中華の里に 満ち満ちぬ

まことの道を 宣明し
景法王を 扶持さるる

人には 慰楽と 安けさと
物には わざわい 苦患なし



「後記部分」

782年1月7日建立

時の法主僧 東方の景衆をつかさどれるなり。

(以下はシリア語で記される)

わが父祖の父の日(日曜日)に、
大僧正・総主教たる マリ・ハナンイシュー


ガブリエル 司祭兼首輔祭兼長安および洛陽の教会長

司祭 ラブラニシュー

司祭兼地方教主 マルセルギース

地方教主 イズドボージードの子、従者アダム

イオニア紀元1092年(西暦781年)、トカーレースターンの町バルクの、死せる霊・司祭ミリスの子、

同司祭兼長安の地方教主、マリ・ヤズドジード、

救い主の法と中国国王への先祖の説教を記した、この石の記念碑を建てる。


            (引用ここまで)

              *****


              ・・・・・

wikipedia「大秦景教流行中国碑」より


大秦景教流行中国碑(だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ)は、明末に長安の崇聖寺の境内で発掘された古碑。

ネストリウス派(景教)の教義や中国への伝来などを刻す。

唐代781年(建中2年)に伊斯(イサク)が建立した。碑文は景浄。

古代キリスト教関連の古碑ということで、世界的に有名。

現在、西安碑林博物館に保管されている。



431年にエフェソス公会議で異端として禁止されたネストリウス派は、西アジア・中央アジアに伝播。

そのころ唐は西方に国威を伸長しており、635年(貞観9年)阿羅本という者が始めて景教を中国に伝えた。

それから約150年間、不遇の時代もあったものの王朝の保護もあり隆盛。

781年(建中2年)に中央アジア・バルフ出身で唐に登用された伊斯(イサク)という人物がこの記念碑を長安の大秦寺に建立、景教の教義や中国伝来の歴史を残した。


しかし、9世紀半ばに即位した武宗は道教に傾斜し、仏教をはじめ他の宗教を弾圧(会昌の廃仏)。

景教も例に漏れず弾圧を受け、多くの大秦寺が破壊される。

その際に碑は土中に埋没したと考えられている。


出土したのは、埋没から約800年後の明末の長安。

異説もあり年代ははっきりしないが、1623年(天啓3年)または1625年(天啓5年)出土というのが有力。

明末の陽瑪諾(洋名Emmanuel Diaz)の『唐景教碑頌正詮』の序には「大明天啓三年」とある。

出土の状況は、ポルトガルのイエズス会士セメド(Álvaro Semedo、漢名魯徳照)の『支那通史』に記されている。


出土から30年足らずで、少なくとも3ヶ国語・8種類の碑文の西洋語訳が出るなど、即座にヨーロッパに紹介された。


石碑は長安の金勝寺境内に碑亭を建て安置されていたが、1860年代にこの地方で回教徒(イスラム教徒)による騒乱が起き、金勝寺が焼払われ碑亭も失われてしまう。

その後西安碑林に運ばれ、現在はその碑林を母体とする西安碑林博物館が所蔵している。

日本にはその模造碑が高野山奥之院と京都大学の2ヶ所にある。


碑のシリア文字

碑は黒色の石灰石からなり、高さは台の亀趺(亀形の碑趺)を除いて約270cm、幅は平均約100cm、厚さ約28cm。

題額には「大秦景教流行中国碑」とあり、その上部に十字架が線刻されている。

碑文は32行、毎行62字、計約1900字。景浄の撰。

書は呂秀巌で格調高い。

漢字の外にエストランゲロと呼ばれる当時伝導に使用された古体のシリア文字が若干刻されている。

この文字はおおよそ景教に関係ある僧侶約70人の名を記したもので、その大部分には相当する漢名を添える。

               ・・・・・


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青い乗り物が西の空にのぼり、大唐は光り輝いた・・8世紀中国の景教碑文(3)

2014-08-08 | マニ・ゾロアスター


引き続き、8世紀・唐時代に作られた中国の「景教」の碑文のご紹介をさせていただきます。

神直道氏「景教入門」より引用させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****


            (引用ここから)


第2段

太宗文皇帝(627-649)は、光輝き、国運を隆盛にみちびき、徳は明聖にして人にのぞむ。

大秦国(ローマ)に高徳の士あり。
阿羅本(ア・ルワーン)という。

唐の情勢を占い、経文をたずさえ、時宜を得て艱難にたえて旅し、635年、都・長安に至る。

帝は長安の西に兵を出して迎え、賓客として宮廷に入らしめ、経を翻訳させ、道を御所で問い、深く正真の道を知り、特に伝道させた。


638年、秋7月、召してのたまう。

「道に定まれる名無く、聖に定まれる形なし。諸方の実情にしたがい、教えを設け、人々を救え。

大秦国の徳のある阿羅本(ア・ルワーン)は、遠くから経像をもち、京に来て献上した。

その教えの旨をつまびらかに見ると、元妙であり、人為的でない。

その根本は生成が要を担い、言葉は容易であり、理は手引きを要しない。

ものを多くし、人を利するのである。

よろしくこの教えを天下に行え。」と。


役人は都に大秦寺を一つ作り、21人を寺の僧とした。

むかし宗家なる「周」の徳がすたれた時、青い乗り物が西の空にのぼり、わが大唐は光り輝き、景風は東に吹いた。

役人をして、帝の肖像を寺壁に描かしめ、天の姿うるわしく景門に輝き、聖なる教えはますます栄えて、永く法界に輝いた。



「西域図記」および「漢魏の史書」を見ると、大秦国(ローマ)は南はサンゴの海に接してこれを領し、北は衆宝の山に区切られ、西は仙境の花林を望み、東は風しずかで長い川に接している。

国土には石綿製の布、香料(焚けば死者の霊をかえして、その姿をあらわすという)、明月珠、夜光壁を出す。

世に盗みなく、人は楽しみ安んじ、宗教は景教でなければ行われず。

国王は高徳でなければ位につかず、国土ひらけて文明さかんである。


高宗大帝(650-684)、恭しく父祖を継ぎ、まことの宗教を豊かにし、諸州に「景教」の寺を置く。

阿羅本(ア・ルワーン)を崇んで、鎮国大法守となし、法は十道に広まり、国は富んで大いによろこび、景寺は100域に満ちて、家は景福で盛んであった。

高宗の時代、仏教徒の勢いが盛んで、東周で「景教」は遺跡の論戦がおこなわれ、玄宗時代(712)の末、身分の低い役人や道教の下級祭司が大いに景教を笑い、長安でそしりののしった。

僧首ラーク、グラークならびに西国の帰属や世俗をはなれた高僧たちが、綱紀を正しくし、絶えんとする「景教」の教えをつなぎとめた。


玄宗至道皇帝(712-755)は、寧国王などの5王をして景寺に祭壇を建立させ、「景教」を家屋の柱とさせる。

ことごとくたわみ さらに崇まれ、「景教」の綱紀がしっかりと整った。


744年、ローマに僧ギワルギスあり。

星をみて民を徳化しようと、日を占って皇帝のもとに来た。

僧パウロなど17人にみことのりして、ギワルギスと共に功徳をおさめさせた。


ここにおいて皇帝が寺の額にみずから書いた。

宝のよそおい、珠はみどり、あかき霞のごとく、御筆は大空に輝き、激しい日陽をしのぐようである。

皇帝のたまものは南山の高さに比すべく、あふるる恩沢は東海の深きに同じ。


その後、4皇帝が「景教」の根義を体したので、よく民を育て、養いたもうた。

広慈、衆苦を救い、善きほどこしを人々にこうむらせるのは、わが修行の大いなるはかりごとであり、民をひきあげる緒についたのである。

風雨がほどよく来たり、天下はしずまり、人おさまり、物清く、生ける者はよく栄え、死せる者もよく楽しみ、かくあれとの念が生ずれば、響くがごとく相応じ、情が誠から発するのはわが景教のよくなすべきわざの巧用である。


           (引用ここまで)


             *****


ア・ルワーン、ラーク、グラーク、パウロ、ギワルギスなどという名前の西洋人が、唐にやってきていたことが分かります。

ウィキペディアには、阿羅本という人物は以下のように記されています。


wikipedia「阿羅本」より

阿羅本(あらほん、阿罗本、ピンイン: Āluóběn)は、唐朝へキリスト教を広めるために訪れた宣教師。

歴史上、最も早く中国にキリスト教(ネストリウス派)を伝えた人物といわれている。

「大秦景教流行中国碑」によると、 唐代貞観9年(635年)、阿羅本はアッシリア東方教会の使いでネストリウス派の主教として、宣教団を率い、首都・長安へ向かった。

唐太宗は宰相の房玄齢に長安郊外まで出迎えさせた。

当時、唐は各所からの外国人の来訪を歓迎していた。

貞観12年(638年)、ネストリウス派キリスト教は唐朝に認められ、唐朝は資金を援助して、教会(後の大秦寺)を建てさせた。

唐高宗時代になると、阿羅本に「鎮国大法主」に封ぜられ、各地に景寺(教会)を建てるよう、詔勅が下され、ネストリウス派キリスト教は唐王朝に広まることになった。



>むかし宗家なる「周」の徳がすたれた時、〝青い乗り物”が西の空にのぼり、わが大唐は光り輝き、景風は東に吹いた。

わたしはこの「青い乗り物」というものがどういうものなのか、興味がわいたのですが、同書の注によると、以下の意味があるようです。

老子が乗っていた青い牛の車だったんですね。

>周の王国の徳が衰え、衰退した時、老子が青い牛の引く車に乗って大秦(ローマ)に行った、という故事を引いて、国が衰えんとする時は、すぐれた人は去り、国が盛んになる時は、立派な教え(宗教)が来ることを言っている。


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恵みの舟に棹さして、天の宮居に昇りたまい・・8世紀中国の景教碑文(2)

2014-08-06 | マニ・ゾロアスター


引き続き、神直道氏の「景教入門」から、中国で8世紀に作られた「景教碑文」の説明のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****


         (引用ここから)


「大秦景教流行中国碑」

第一段

ここに常然真寂、はじめなくして奥深く、霊むなしく、世の終末にあって妙力を持したまい、天地を創造し、預言者や使徒たちを妙なるものとし、かくて元尊なる者、それたださが三位一体の妙身(神)であり、はじめなき真主なる神である。

十字を切って世界を定め、聖霊を発して陰陽を生じたまう。

暗天が一転して天地がひらけ、日月がめぐって昼夜となる。

万物をつくりなしてアダムをたて、特に妻をたまわって転変きわまりない世の中を鎮めさせたまう。

人々の本然の心はむなしく、満ちることはなく、穢れない心は異神をむかえようとすることもない。

しかるに、にごれるかな、サタンは人々をまどわそうとして、人々の清いこころをかざり、神と人をへだて、くらい仲間を邪悪のうちに争わしめる。

多くの人々がサタンにひしめき従い、競ってサタンにまどわされた勝手気ままな宗教の和を広げる。

あるいは物をもって信の根基とし、あるいは空と有とを混同して二者をあやまらしめ、あるいは祈祷祭祀によって幸いをもとめ、あるいは己の善行をほこって人におごりたかぶる。

いかに考え悩み、いかに思いをこらしても、茫然として得るところなく、焼きただれる思いは、重なる暗さに道を失い、元の道に立ち返ることはできない。


そこで、わが三位一体神の分身であるメシアは、真の姿を隠し、人と同じ姿で、この世に出でたまいた。

天使は喜びを述べ、マリアは聖イエスを大秦(ローマ帝国領・ユダヤはその頃ローマ帝国の支配下にあった)に誕生する。



めでたい星はさいわいを告げ、ペルシアの学者=マギはその光をのぞみ見て、来献した。

24聖の説いた旧約聖書を成就し、家や国を神のはかりごとのうちにおさめた。

三位一体の聖霊は無言の新教を説き、よき人を正しい信にみちびき、世界の救いを図り、けがれをきよめて真となし、信望愛の三常門を開き、生をひらき、死を滅し、景日(大いなる日)をかかげて暗府を破り、魔妄をことごとくくじきたまう。


恵みの船に棹さして、天の宮居に登りたまい、人はすでにして救われる。

よきことかく終わり、日は真に昇る。

新約聖書を留めて神の御旨を伝え、信の霊関を発したまう。

洗礼の水と霊とは、浮華をきよめ、心をむなしくして、神の機能の印としての十字を持し、世界を融和し、人々を自由になしたもうた。


           (引用ここまで)


             *****


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8世紀・中国の、「異端派・景教ネストリウス派」の碑文(1)

2014-08-04 | マニ・ゾロアスター


7世紀の唐の時代の中国に栄えたとされる、「景教」について調べてみました。

神直道氏著「景教入門」という本を読んでみました。

はっきりとした記録が少なく、謎めいた「景教」について、わかりやすく書かれていると思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

筆者はまず、「景教」という言葉について、「はじめに」という部分で述べています。


            *****

        
          (引用ここから)


キリスト教で異端とされたネストリウス派が、シリアからイランに入り、更に東漸した。

唐・太宗の時(西暦635年)、阿羅本(アラボン)と表記される人物によって正式に入唐し、長安で歓迎され、布教し教勢を拡張したが、武宗の代に圧迫され、衰退した。

元代に若干の復興をみたが、後にカトリック派に押され、明代にいたって消滅した。


現在では、一般に上記のように記され、常識となっている。

わずか数行の記述であり、文化史的、宗教史的な意味はまったく触れられていない。

これは当然なことであって、文献や研究論文が人の目にふれぬ場所にしまいこまれ、あるいは棚ざらしになっているからである。


「景教」という名称について、少し考えてみたい。

唐時代およびその前後に、異国から入ってきた諸宗教の名前の付け方は、じつはなかなか興味ある問題である。


仏教=教祖の名をそのまま使用している。

梵語のブッダを漢字の表記で浮図(ふと)または浮屠(ふと)と印記し、佛、すなわち人にあらざる者、一般の人と比較して比較できないほどのすぐれた人という意味である。

マニ教=教祖マニの名をそのまま採って表音化する。

回教=ウイグル(回鵜)人が信仰していたイスラム教を、民族名の頭文字をとって名付ける。回回教(フイフイ教)ともいう。

祆教(けんきょう)=最高神アフラマズダを天の神とすることから、漢字の“示す篇”を用いて(神事をあらわす)、右に天を添えた。祭儀形式から、拝火教ともいう。


このように教祖の名、信仰民族の名、最高神または祭儀形態から、諸教が名づけられているのに対し、景教のみは抽象的な意味の「景」が使われている。

景教は「大秦景教流行中国碑」という碑文が発見され、その中に「強いて景教と称す」とあるところから一般的となったが、これは自称語である。

もちろん、碑文成立前の諸経典の中に、「景教」「景尊」(メシアの意味)の文字が使用されている。


この「景」の文字をめぐり、解釈に諸説ある。

故佐伯好郎氏は「景」の文字を、「日」と「京」に分解し、京、すなわち「多い」なり「高い」などの意味であるとして、「大日教を意味する」と述べている。

筆者は大日教とはいかなる宗教なのか知らないが、多分に太陽神信仰や大日如来信仰のニュアンスを感じる。

また、光り輝く宗教の意味であるとする説もある

これは漢字の意味を日本語的に訳したにすぎない。


筆者は一つの提案として景教の唐音(king-kau)が、中世ペルシア語のjad-denに似ていることを重視したい。

ペルシア語の同語は「他とは異なる教え」という意味である。

碑文に記された「強いて景教と称する」という文の「強いて」という後の意味が生きてくることになるように思う。

「他とは異なる、すぐれた教え」というほどの意味である。



            (引用ここまで)


             *****



景教の全体像をとらえようと、ずいぶん努力をしたのですが、うまくいきませんでした。

それで、wikipediaの力を借りて、概観をとらえようと思います。


              ・・・・・

wikipedia「大秦景教流行中国碑」より


大秦景教流行中国碑(だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ)は、明末に長安の崇聖寺の境内で発掘された古碑。

ネストリウス派(景教)の教義や中国への伝来などを刻す。

唐代781年(建中2年)に「伊斯」が建立した。碑文は「景浄」。

古代キリスト教関連の古碑ということで世界的に有名。

現在西安碑林博物館に保管されている。


431年にエフェソス公会議で異端として禁止されたネストリウス派は、西アジア・中央アジアに伝播。

そのころ唐は西方に国威を伸長しており、635年(貞観9年)「阿羅本」という者が始めて景教を中国に伝えた。

それから約150年間、不遇の時代もあったものの王朝の保護もあり隆盛。

781年(建中2年)に中央アジアバルフ出身で唐に登用された「伊斯」という人物がこの記念碑を長安の大秦寺に建立、景教の教義や中国伝来の歴史を残した。

しかし9世紀半ばに即位した武宗は、道教に傾斜し、仏教をはじめ他の宗教を弾圧(会昌の廃仏)。

景教も例に漏れず弾圧を受け、多くの大秦寺が破壊される。

その際に、碑は土中に埋没したと考えられている。


出土したのは、埋没から約800年後の明末の長安。

異説もあり年代ははっきりしないが、1623年(天啓3年)または1625年(天啓5年)出土というのが有力。

明末の陽瑪諾(洋名Emmanuel Diaz)の『唐景教碑頌正詮』の序には「大明天啓三年」とある。

出土の状況は、ポルトガルのイエズス会士セメド(Álvaro Semedo、漢名魯徳照)の『支那通史』に記されている。

出土から30年足らずで少なくとも3ヶ国語8種類の碑文の西洋語訳が出るなど、即座にヨーロッパに紹介された。


石碑は長安の金勝寺境内に碑亭を建て安置されていたが、1860年代にこの地方で回教徒による騒乱が起き、金勝寺が焼払われ碑亭も失われてしまう。

その後西安碑林に運ばれ、現在はその碑林を母体とする西安碑林博物館が所蔵している。

日本にはその模造碑が、高野山奥之院と京都大学の2ヶ所にある。


碑のシリア文字

碑は黒色の石灰石からなり、高さは台の亀趺(亀形の碑趺)を除いて約270cm、幅は平均約100cm、厚さ約28cm。

題額には「大秦景教流行中国碑」とあり、その上部に十字架が線刻されている。

碑文は32行、毎行62字、計約1900字。景浄の撰。書は呂秀巌で格調高い。

漢字の外にエストランゲロと呼ばれる当時伝導に使用された古体のシリア文字が若干刻されている。

この文字はおおよそ景教に関係ある僧侶約70人の名を記したもので、その大部分には相当する漢名を添える。


碑文は『大正新脩大蔵経』外教部に納められている。

『全唐文』にも収められているが、遺漏が多いとされる。

なお方壺島というサイトに書き下し文、日本語訳、詳注が載る。


景浄

円照が編纂した仏典目録の『貞元新定釈教目録』巻第17に、インド僧般若三蔵が胡本(ソグド語版)の『大乗理趣六波羅蜜多経』を翻訳する際、「波斯僧景淨」の協力を仰いだとある。

すなわち碑文を撰した景浄はペルシャ人であり、また般若三蔵と交流があった。

804年末に長安に入った空海が、サンスクリット語を学んだのがこの般若三蔵であり、また空海の長安での住居西明寺や般若三蔵の醴泉寺は大秦寺に近いことから、空海が景教に触れた可能性は高い。

なお、この『貞元録』は800年に徳宗へ上進されたほぼ同時代の証言なので信用できる。


               ・・・・・


>804年末に長安に入った空海が、サンスクリット語を学んだのがこの般若三蔵であり、また空海の長安での住居・西明寺や般若三蔵の醴泉寺は大秦寺に近いことから、空海が景教に触れた可能性は高い。

この空海が関連しているあたりが、また大変興味深いところです。

当時最先端の思想であったであろう、異端ネストリウス派キリスト教と空海、、。

空海は洗礼を受けたのでしょうか?

空海にとって、キリスト教はどのような意味を持っていたのでしょうか?

東洋と西洋の接点としての景教、、どのような教えだったのでしょうか?




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